イバラ日記再編 00:00-06:00

 ライラ。
 あなたがわたしに願ったことを、わたしはけっして忘れない。
 あの日あの時、あなたの白い指がわたしの手をぎゅっと握って、何を願ったのか。忘れるはずがない。絶対に。

 ◆

 その世界に朝は来ない。
 明けぬ夜に焔をともし続けて生きる小さな世界――《夜炎の世界》アスケンシオ。
 アスケンシオがいつからそのようにして生きているのかを、カシスは知らない。最初からそうだったのか、それとも、歴史のどこかで光を失ったのか。どちらにしても、今となっては関係もない。ただ、カシスが生まれた時にはもう、ずっと前からそうだったというだけだ。
 光のない世界など、本来は終わっていくばかりだろう。
 けれどアスケンシオの民は、その運命を良しとはしなかった。
 彼らが用いたのは、焔鱗と呼ばれる小さなかけらだった。大人の男が親指の爪を並べたほどの、薄く青いうろこ。
 焔鱗の端に火をつければ、三月は絶えない焔になる。
 ひどく明るく、しかし冷たい光を放ってうろこは燃える。ランプの中にそれを置き、眠る時には覆いをかけた。
 家々の中に限らず、焔鱗なしではなにもかも立ち行かなかった。夜の底では、草木もろくに育たない。光がいる。生きるために。
 カシスもその焔の恩恵のもと、暮らしていた。
 七つになるまで、その焔がどうやってこの世界に齎されているのかを知らないままで。

 その年、《贄の日》がやってきた。二年半ぶりのことだった。

 《贄の日》が来ると、アスケンシオの民は、外の世界から異形を招いて殺す。
 三ツ首の蛇に似たその異形を神と崇めながら、殺して、そしてうろこを剥ぐ。薄く青いうろこ。焔鱗を。
 そして、異形を招くためには贄が要った。ひとつの首に、一人。
 カシスはその年、儀式を目にしたわけではない。それが実際に行われたのは遠い町だった。ただ、それがどういうことなのかを知っただけだ。
 アスケンシオの子どもらがみなそうであるように、カシスもまたそれを――火炎の中に投じられることを恐れた。
「おかあさん……わたしも大きくなったら燃やされちゃうの……?」
「……二年か三年に一度、世界中から三人よ。きっとだいじょうぶ。……だいじょうぶよ」
 怯えるカシスに、母親はそうとしか言えなかった。
 その年がいつやってきて、誰が選ばれるのか、市井の人々に知るすべはない。
 短ければ二年。長くても三年。そしてその年、十七から十九の者から三人。それだけが決まっている。
 カシスが十七になるまでは、十年。
 そのうち二年が過ぎたころ、カシスはライラに出会った。

 ライラは夜に融けいるような、深い色の髪をした女の子だった。大人にもよく可愛がられる利発な娘で、物怖じもしない。
 そのときのライラは、父親が亡くなって、母親の実家に身を寄せるために越してきたばかりだった。
 小さな町で、カシスと同じ年の女の子はそれまで誰もいなかった。カシスは男の子の遊びにも平気で交じっていたものの、女の子の友達が嬉しくないはずがない。
 その上カシスは、ライラと顔を合わせるなり、互いに同じことを悟ったのを感じた。
「……いたずらは好き?」
「バレなければね」
 相手の目の奥に光っているのは、自分と同じ何かだ。
 それは、男の子を相手にしても、一歩も引いたりはしない気の強さであったり。誰かにいたずらを仕掛けて楽しめるような、ちょっとした狡さの気配であったり。あるいは単に、気が合うという予感かもしれなかった。
 カシスもライラも、町中の子どもの誰にも負けなかった。男の子だろうが、年上の子だろうが、躊躇なくやりこめて笑っていた。
 二人は、二人でいることがなによりも楽しかった。
 けれど。
 それでも、《贄の日》が巡ってくるときだけは、カシスもライラも、ただそれを恐れた。

 二人が十のとき、十二のとき、十五のとき、十七のとき。

 それぞれに《贄の日》は巡ってきて、贄は異形に捧げられ、アスケンシオの民は自らが神と呼ぶその異形を殺した。
 二年か、三年に一度。
 その日がいつ来るのかは、焔鱗にまつわる一切を取り仕切る夜炎管理局だけが知っている。
 ひとつ前の《贄の日》に、焔鱗がどれほど採れたか。焔鱗のストックが、管理局にどれだけ残っているか。贄の候補が少なくなりすぎる年がないか。
 あるいは、贄の候補が多い年のうちに《贄の日》を済ませてしまうこともある、と噂されていた。
 贄は、火中で沸く血のにおいで異形を酔わせることのできる者が選ばれるという。
 アスケンシオに生まれる子らは必ず、母親の腹から取り上げられてすぐ、血にその適性があるかどうかを調べられた。適性を持つのは百人に一人とも、五十人に一人とも言われていた。だが、実際の数を知っているのもまた、夜炎管理局だけだ。血の適性は、親にも本人にも伝えられずに、管理局のリストにだけ記録される。
 アスケンシオで夜炎管理局に逆らえる者はいない。
 逆らえば、焔鱗の配給から外される。
 だから、夜炎管理局からの通達が届いてしまえば、おしまいだ。それで、おしまい。
 アスケンシオでは、食べるための作物も、家畜のための牧草も、建材や薪にするための木材も、すべて焔鱗の光で育つ。焔鱗がなければ、誰も生きていけない。
 贄は、必要だ。
 みなそう知っている。
 カシスもライラも、それを、知ってはいる。だが、二十になるまでは。どれだけ焔鱗に頼った生活をしていても、けっして目を逸らせない恐怖がそこにある。

 けれど、十七歳のその日に《贄の日》が行われたとき、二人は思った。
 運が良ければ。
 もしかしたら、わたしたちが二十になるまで、もう、《贄の日》は回ってこないかもしれない。逃げ切れるかもしれない。

 ◆

 カシスとライラは十九になった。
 それからしばらくして、ライラの家に、深い青の封筒が届いた。
 夜炎管理局からの通達だった。

 ライラはその瞬間から、《贄の日》のための存在になった。
 贄の娘。そう呼ばれて、そのように扱われる。
 ライラに残されたのはたった七日で、その七日すら、定められた日時に焼かれるためのものだ。
 ライラは隔離された。
 贄の娘は、選ばれたあと五日の間、肉と穀物を断ち、薬酒ばかりを飲んで過ごす。
 六日目には祭祀のための広場に連れて行かれて、突き立てられた太い木の杭に括りつけられる。
 七日目、月が沈むと、その足元には火がつけられる。
 贄の血肉が燃え、髪が焦げ、悲鳴が天を衝く。そうして迸る苦痛を辿って、アスケンシオの神はやってくる。焔鱗が齎される。アスケンシオで、ずっと繰り返されてきたことだ。そんなことは、カシスも理解している。
 それでも、五日目の夜。ライラへの面会を許されなかったカシスは、隔離されたライラに会いにいった。
 カシスが何をしようとしているのかを、町の人々はわかっていた。おそらくは管理局も。珍しいことではないのだろう。隔離は手慣れた厳重さで、けっして緩まなかった。
 だがカシスはそれを突破した。
 大の男を三人襲って、火かき棒で殴り倒した。どうしてそんなことができたのか、カシス自身にもわからなかった。ただ、そのときのカシスはそれをした。
 息を切らしてドアを開けると、薬酒のにおいの立ち込める部屋の中でライラが振り返る。
 ライラはわずかに酔った目で、カシスを見た。
「……もうだめなの」
 呟くような声だった。
「何がどう変わったのかは、わからないけれど。……でも、もう、変わってしまったの。《贄の日》のために、変わってしまった……」
 ライラからは、薬酒のにおいとは違う、甘いにおいがしていた。もともとのライラが纏っていた淡い香りとは違う、強いにおい。
 それが贄の娘のにおいなのだと、カシスにもわかった。
 立ち尽くすカシスの手を、ライラは握る。ぎゅっと、強く。
 そして願った。
「カシス。……お願い、カシス」
 細い声が、けれどはっきりと言葉を連ねる。
「許さないで。絶対に許さないで。絶対に、絶対に、こんな世界、許さないで……」
 カシスはただ、頷く。
「壊してしまってよ」
 その言葉にも、頷いた。

 ◆

 カシスはアスケンシオを離れた。
 いくつかの世界を渡り歩いて、そのすべを探した。世界ひとつ、壊して滅ぼすためのすべを。
 やがて辿り着いたのは、《禁書書庫》と呼ばれる小さな領域だった。世界とすら名付けられなかった場所――《禁書書庫》ハイレシス。
 そこは、すでに燃やされた知の吹き溜まりだ。数え切れない世界、いつともしれない時に焚書されたものの書庫。
 カシスはそこで、魔術を学ぼうとした。教えを請い、力のためならどんなことでもすると言った。実際に、そのつもりだった。
「……お前には、世界に滅尽を齎す熱が足りない。燃え盛るだけの才がない」
 だがカシスの懇願に、司書長だという老人はそう言った。
 書庫の扉は開いていた。無限に続くような書架の列が、いつかどこかで燃え朽ちたものたちが、誰かの訪れを待っていた。
 それを背にして、老人はただ、諦めろ、と続ける。
「諦めろ。お前は火種になれぬ女よ。焦がされることしかできはしない」
 平らかな声だったが、壁のように取り付く島もなかった。
 カシスはしかし、その壁に爪を立てた。老人のもとに通い詰め、食い下がり続けた。
 才がないからなんだというのか。たとえ我が身がどれだけ焦げようと、アスケンシオが滅ぶのと引き換えならば安いものだ。アスケンシオはライラを燃やした。燃やして、異形に喰わせて、二度と誰の手も届かないところへやってしまった。
 カシスの手元に残ったのは、ライラの望みただひとつ。
 ライラがそれを望んだ。滅びを。だからカシスは、それをけっして諦めない。
 一月以上が経って、やがて老人は深く深く溜息をついた。
「お前に相応しいのは、魔のすべよりも、呪いのすべだろう」
 そう言って、老人はカシスを書架の一角へと導いた。
「ここにあるものでは、お前の望みには足るまいが……」
 カシスの目の前に、ようやく知識の頁が開かれた瞬間だった。
 厚いもの、薄いもの、大きなもの、小さなもの。印字された紙、手書きの羊皮紙、竹簡に木簡、果ては刻みを入れた石版まで。そこにあるあまりにも雑多な書き物の群れが、カシスの訪いを静かに迎え入れる。
「……仕方もあるまい。お前は未だ、焔を知らないのだから」
 小さく零された言葉の意味は、カシスにはわからなかった。わかる必要もない。

 少し、時が経つ。

 呪い。呪詛。
 カシスのそれは、水のかたちをしていた。
 どれほどの呪いのすべを読み通しても、それは変わらなかった。
 水。液体。流れゆくもの。あるいは留まるもの。淀むもの。腐るもの。
 ああ、これは、滅びには遠い力だ。
 カシスはそう思った。
 どれほどを成したら、世界は滅びに辿り着くだろう。
 人一人残らぬ廃墟の群れか。地表すべてが砂塵に帰せば、それは滅びだろうか。なにもかもがばらばらになって虚空に消えるまで壊さなければならないか?
 ライラがどれほどを望んだのか、もう、尋ねることはできない。しかしカシスは、滅びを望んだライラに、うんと言ったのだ。
 だとしたら、成さねばならない。
 たとえどれほど掛かろうと、何を犠牲にしようと、誰に恨まれようと憎まれようと、カシスにとっては関係ない。
 許せない。許さない。けっして。
 それが、カシスには必要なのだ。ライラのために。それ以上に、カシス自身のために。

 ◆

 転じて、ハザマと呼ばれる何処か。

 カシスはハイレシスを去り、アスケンシオに戻って、そしてアンジニティへと堕とされていた。
 アンジニティを彷徨ってどれほど経ったか、カシスも正確に覚えているわけではない。
 ただ焦りだけがあった。この掃き溜めを抜け出せるのならなんでもいい。戻らなければ、そして滅ぼさなければ。
 《響奏の世界》を踏み台にしてでも。

 カシスはただ、思う。

 ――『黒枝すぐり』。

 カシスであって、カシスでない女。
 すぐりは、ライラのことを知らない。当然のように。
 アスケンシオの果てしなく深く暗い空を知らずに、明るい空の下で生きている。塗り込めたような夜。ぬくもりを得ることなく冷え続ける空気。かすかな光には照らしきれない深い闇。
 アスケンシオは寒かった。
 焔鱗が燃えるとき、そこにはごく仄かな熱しかない。暖を取るためには薪が必要だった。その薪を得るのに、アスケンシオの山地では、人間ではなく木のために町中の昼が明るいという。
 しかし、カシスもライラも、そんな明るい場所を見たことはなかった。
 カシスは明るい場所など知らない。本当に明るいというのがどういうことなのか、わかってもいなかった。
 《禁書書庫》ハイレシスにも、そこへ辿り着くために渡り歩いたいくつかの世界にも、昼と夜があったのに、カシスには昼夜の別など関わりないことだった。
 ライラのいない世界は、窓の外にどれだけ日が照っていても薄暗かった。カシスの視界には、喪のための黒いヴェールがかかっているようだ。

 『すぐり』。ライラを知らないカシス。
 すぐりとして明るい世界で生きるのは、楽しかった。本当に明るいということを、カシスははじめて知った。
 ライラを忘れて生きることで。

 だからそれがひどく呪わしい。
 気が狂いそうなほど。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?