イバラ日記再編 07:00-12:00

 《響奏の世界》イバラシティで、春という季節が終わっていく。
 その街のことを思うと、カシスは胸の底をぎりぎりと絞られるような心地がする。

 《夜炎の世界》アスケンシオには、およそ季節というものがなかった。巡りゆく太陽というものがないから、それに応じて咲く花もない。花も緑も、しんと寒い夜のそこで、焔鱗の冷たい火に照らされて芽吹き、刈り取られるだけ。
 それは、民とてたいして変わりはない。
 小さな鱗がもたらす、冷たい炎。その下で生まれて、育って、また生まれて。
 カシスもまたその輪の中にあった。
 それ以外の生き方を、考えもしなかった。アスケンシオの民はみな当たり前に、夜の生き方を受け入れている。あれほど《贄の日》を恐れていながら、アスケンシオを離れる者のことなど、カシスは聞いたこともない。
 アスケンシオの民にとって、『昼』というのは、物語の向こう側のものだ。
 『季節』。『夜明け』。誰もそんなものを知らない。そんな言葉のあることのほうが、不思議なほど。
 昼が明るいとはどういうことか。明るい場所で生きるというのが、どういうことか。
 カシスもまた、それを知らなかった。

 しかし今、『黒枝すぐり』はあまりにも当然に、その物語の中で生きている。
 イバラシティでは冬が終わり、雪が解け、春の花が咲いて、散った。日の照る時間が長くなり、それに伴って空気の温度が変わっていく。
 夜が明ける。
 太陽がある。
 時が進む――アンジニティの者たちの、その偽りの姿を内包したまま。


 ◆


 ハザマに敷かれた曖昧なルール。
 十日に一度、一時間。そしてそれを、三十六回。戦って、勝つ。そうすれば、アンジニティの掃き溜めを抜け出せる。
 細則は、ろくに明かされていない。
 ほかに何をすればいいのか、どこへ向かえばいいのか、カシスは知らない。おそらくは、他の者たちも似たようなものだろう。ただ、戦えと示されたから戦う。そうでなければ失うものがあると言われたから。そうでなければ、得られないものがあると言われたから。
 カシスはそれを、子どものごっこ遊びのようだと思う。
 時折、惑う人間の逃げ道を奪うような情報がもたらされるのも。他人の望みが無責任に耳に届けられるのも。気まぐれな子どもが、勝手にルールを追加していくようだ、と。

 けれどカシスにとって、それでなんの問題があるだろう。

 この『ワールドスワップ』は、できの悪い戦争ごっこだ。
 遊びに使われる人形の手足がもげるように、傷つき死ぬことがあっても驚くには値しない。自分が。ただカシス自身だけが、最後にアンジニティの外に立ってさえいれば、それでいい。
 利己的に振る舞うことや、損得を勘定することを躊躇ってはいられない。
 自分の利になる相手と、そうではない相手。むしろ、関われば何かを損なうような相手。見極められない者から、割を食わされていく。そしてカシスは、割を食う気はない。

 勝って、そこに未来があるわけではない。
 勝てば、まだ途絶えない。それだけ。

 この戦争ごっこの先に、平穏があるだろうか? カシスは、そんなものがないということを知っている。安らぎ? 安寧? そんなものがどこにある。
 カシスの望みは、ただアンジニティから脱出することでも、豊かな場所で暮らすことでもない。
 カシスは、数限りない他人のそれを破壊するために、今、ハザマで戦っている。
 世界ひとつ。ただ一人のために。
 その望みを、誰に認められたいわけでもない。だが、誰にも否定はさせない。されたところで、聞く耳もない。
 イバラシティの人間が『ワールドスワップ』に巻き込まれたことを、カシスは確かに、哀れだと思う。だが、哀れな人間というのは、たいてい割りを食わせるのに丁度いいものだ。
 押し付けられたものを撥ね退けられない者に、未来などない。

 なくなってしまう。

 なくなってしまった。

 そして、失ったものは取り戻せない。零れ落ちたものは、二度と戻らない。
 カシスも、失くした。弱かったからだ。何もできなかった。撥ね退けられなかった。
 あの日、あの夜の底、ライラを救ってくれる誰かはいなかった。
 世界のためという陳腐な綺麗事に憤ってくれ、ライラを《贄の娘》の運命から救ってくれる、そんな者は、誰も。
 もしもこの先のアスケンシオに、《贄の日》の因習を破ってくれる誰かが現れて、世界の誰もが焔鱗なしに生きていけるような、新しい、素晴らしい未来が示されたとしても。その未来が本当にやってきて、それを誰もが喜んだとしたって。
 そんなものは、カシスにとっては遅すぎる。
 他の者が救われて、救われ続けて、その救いが当たり前になって、救いですらなくなっても、それで過去が消えたりはしない。ライラが救われなかったことは、変わらない。
 ライラを救ってくれなかった救いなど、カシスは喜べない。きっと妬ましい。憎らしい。
 そしてその嫉妬も憎悪も、おそらくは、それすらも訪れはしないのだ。
 虚しい、虚しい、虚しい仮定。
 救われない。贄の娘は死に続ける。いつまでも、何度でも、何人でも。手遅れになり続ける。
 暗く、寒くて、未来の見えない世界。
 終わらせてやる、とカシスは思う。未来が見えないのなら、そのまま断ち切れてしまえ、と。
 だから、戻らなければならない。必ず。

 アンジニティを抜け出せさえすれば、カシスは必ずアスケンシオに戻る。

 滅びのために。
 死して滅びの災厄となれるのなら、死んだってひとつも構わない。終わりを齎せるのなら、きっと後悔などしないのに。


 ◆


 そうしてカシスが死すら厭わず滅びを望むその裏側で、黒枝すぐりは、何も知らずに笑っている。
 眠り、夢を見て、起き、食事をし、働く。どこかへ遊びに行きもする。
 ごくごく普通の生活だ。アスケンシオでは望むべくもなかった、カシスの知らなかった、明るい生活。知りたいとも、思っていなかった。

 本当は、そんなことをしている場合ではないのに。
 そう思う。
 そんなところで笑っているよりも、しなければならないことがある。
 けれどカシスは一方で、その擬態がなければイバラシティに馴染めないであろう自分を知っている。
 カシスとしての記憶も意識も持っていない、そういう『黒枝すぐり』でなければ、あの街には紛れ込めない。普通の顔をして暮らせない。あんなふうに笑えない。

 とりわけ、立華七那とは。

 七那の、呆れたような顔。少し笑った目。かろがろと言葉を紡ぐくちびる。
 しかしその表情も、言葉も、『黒枝すぐり』に向けられたものだ。楽しげに軽口を叩きあう距離感は、カシスという女とのものではない。
 七那は何も知らない。黒枝すぐりと立華七那がどれほど親しかろうと、それは偽物だ。やがて意味を失うものだ。七那は、イバラシティの人間なのだから。

 カシスは勝たねばならない。アンジニティにいては、カシスの望みはひとつとて果たされない。イバラシティの人間に構っている暇などありはしない。
 あんな平穏じみた生活など、悪い夢だ。
 ただ安穏と暮らしていくことなど、カシスは望んでいなかった。これから望むこともないだろう。

 今はただ、ハザマの地を歩き続ける。
 定められた時間、ゴールも示されないままに延々と。

 そして、やきもの小路――あるいは、ただの瓦礫の山。道行きの途中に通り過ぎるその場所に、カシスはイバラシティの、冬の日のことを思い出す。
 すぐりの記憶。デート、と名付けられた外出。そこですぐりが、なんと言ったのか。

 次は、と言ったのだ。

 何も知らないから、何も知らないままで、そう言った。
 次。黒枝すぐりの未来。そんなものがどこにある。
 イバラシティでどんな縁を結ぼうと、『黒枝すぐり』は、本当はどこにもいない。
 すぐりはカシスの写し身だ。『ワールドスワップ』が終われば消えてしまうであろう影。
 だが、写し身でありながら、すぐりはカシスにさほど似てはいない。顔かたちではなく、振る舞いや、性格が。どうしてだかは、カシス自身にもわからない。カシスの中の何が、ああしてすぐりに写し出されているのだろう。

 カシスは足を止める。ひと時。

 わたしの中のどこに、すぐりがいるのだろう。
 それを、誰が知っている?
 足を止めればそこに居る彼女――立華七那は、何をもって、この『わたし』を追ってきた?



[1046] 黒枝すぐり

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