死んだら、どうなりたい?

 Twitterでちょっと、ふんわりとそんな話をしたので。
 まともな宗教的な話とか、真面目に現代の制度と絡めたりとか、そういうものは別にない。わたしにはそういう知識があまりない。
 これはただひたすら、わたしという個人の、なんとなく、的な感覚で書かれている。

ざっくりとしたあらまし

 たしか、はじめは、タイムライン上で社会保障にまつわる話が始まったのだ。そこから、臓器提供とかの話に広がっていった。
 タイムラインではわりと真面目に、そういう話がもっとできるといいな、というような話が展開されていたようにも、もっと曖昧な話が同時展開されていたようにも思う。なにしろ午前3時すぎとかのド深夜だったため自分以外の発言はぶっちゃけあまり覚えていないし、このnote内ではその正確性が問われることも一切ないので、しっかり遡ったりはしていない。なので、フワッと捉えてほしい。
 これは重要なことですが、このnoteは全部フワフワでできています。

わたしの死生観についての背景(的なもの)

 わからん。
 正直これという宗教をしっかり信仰していたりもしない。日本人によくあると思われる、仏教と神道をほんのりまぜこぜして、キリスト教系のイベントもまあやっちゃうぜ、みたいなやつだ。
 なので、死後というものがあるとするなら、と言われたら、そのイメージはなんとなく、極めてフワッとしたキリスト教的な天国とフワッとした仏教における地獄、のようなものが混交されている気がする。
 育った家庭環境としては、大叔父が日蓮宗のかなりでかい寺で僧侶(住職)をしていた。子供のころには月2くらいのペースで寺を訪れていたが、わたしは親や祖母が大叔父と話す間に、お台所のおばさま方に構ってもらったり、中庭の鯉に餌をやらせてもらったり、墓地(相当広かった。墓が並んでいない、枝垂れ桜が咲いているような区画もあった)とか本堂(ではないと思われるのだが、なんと呼べばいいのかわからない。あの寺には仏様のいらっしゃる場所が三箇所あった。四箇所だったかもしれないが、とにかくそのうちの中規模なひとつ)とかで妹と遊んでいたりした。大叔父はわたしにもそれなりに色々な話をしたが、仏の教えがどうこうというようなことをしっかり聞いた覚えはない。あるいはされたのかもしれないが、きれいさっぱり忘れている。
 あとは小学生も低学年のころ、いろんな地獄がいっぱい載っている絵本を目にして、そうかあ、みたいな感覚を得たことは覚えている。逆に、極楽というのはあんまりピンとこなかった。特に、(一般的に知られたものなのかはわからないが)地獄と極楽にはどちらにも同じものすごく大きな皿と料理があり、めっちゃ長い箸があって、自分で食べようとするから食べられずに苦しむのが地獄、お互いに向かい側の人と食べさせあうから満ち足りて幸せになれるのが極楽、みたいなやつ。意味わからんと思った。蜘蛛の糸、みたいなのも、え~そんな……そんなことでいいのかよ……とか思っていた。それならいっそ、南無阿弥陀仏を唱えたらぜんぶオッケー、なほうがぜんぜんわかる。
 要するにそれくらい雑な認識しかない。
 ちなみに天国については、いい子にしてたら神様が……連れて行ってくれる……のか? というような、小学生でももうちょっとなんかあるだろレベルにわかっていない。ここで言う神様、というのも、宗教的に確たるものではないというか、本当にフワッとした「何か」でしかない。フワフワ。
 書いていて笑ってしまうほど適当な世界で生きている。

死んだら、どうなりたい?

 しゅわしゅわ~、と消えてしまいたいな~。
 というのが、目下考えていることである。現実性ゼロ。でも本当なのだ。
 わたしは人魚姫(某超有名アニメーションではないもの)で、「人魚にはたましいがないから、死んだら泡になって消えてしまう」というのがとても好きで、なんだったら羨ましいなと思っている。
 なんというか、わたしは「思考する自分」というものをこの世の外に持ち越したくない。天国にも地獄にも行きたくない。かといって、輪廻転生という輪っかに乗っかって、例えば虫とか猫とかプランクトンとか、そういうものに生まれ変わるのも御免被りたい。人間やめてえ~、みたいな感覚で「猫になりたい」とか言うときはあるけれども。

現世の話

 もうちょっと社会的にどうか、みたいなところでいくと、まず、わたしは臓器提供をしたくない、と現時点で思っている。
 理由をざっくりした感覚で言えば、わたしは「死んだらきれいさっぱりいなくなってしまいたい」から。
 骨壷にわたしの骨がごろごろ入っていて、それがさらに墓に入る、というのも、結構、いやだな~と思う。だというのに、わたしの一部が他の誰かの中で生きているのは、そりゃあまあ、いやだな(現実的には、わたしの内臓はたぶん不健康すぎて使えないと思うが)。しかも、なんらかの移植を受けたひとが、移植元のひとの性格に影響を受けることがある、みたいな話をどこかで聞いた気もする。内臓じゃなかったかもしれない。骨髄とかだったかな……? なんにせよ、わたしの性格が、会話とか創作物とか、何かそういうものを通さずに誰かに影響するのはかなりいやだ。勘弁してくれ。
 そんなこんなで、わたしは自分の臓器を提供したくない。臓器提供は基本的に尊い行為なのだろうな、という感覚はほどほどにある。その上で、したくない。でもまあ、家族がわたしの腎臓でたすかるとなったら、やってしまうのかもしれない。手術にビビり倒しながらやる気がする。つまり、強固な信念ではない。ただ、感覚としてはやっぱり、したくないな~、と思う。
 まあ、そうして死後に臓器がまるごと自分に残ったとして、日本では通常火葬になる。骨がごろごろ~っと残る。特別こだわりがなければ、その骨を骨壷に入れて、最終的には墓に入れる、というのが現在では一般的な流れに見える。
 臓器提供ほどではないけれど、それもそれで、なんとなくしっくりこない。わたしの思う「きれいさっぱり」とは離れたところにある処置だなと思う。
 最近の世の中、突飛なところだと宇宙葬とかもあるらしいが、どういうものだかあんまり知らない。いや、でも、まさか遺骨全部を宇宙送りにしたりはしないんじゃないのかな……積載量的に……。
 海に撒く、というのも多分あるけれども、散骨はなんやかんや手続きとか法律面が大変だという話を聞いたような気がする。フワッと(なんかもっと調べろよというような話しかしていないが、このnoteのために調べる気はない。気が向いたら調べる)。
 だからやっぱり、普通は墓にインするんだろうな。やだな~。うちの母もお墓入りたくないなって言ってたしな~。
 あと、わたしの連なる系譜はたぶんわたしの代で滅びるので、墓の維持管理は誰がどうやるんじゃという話もある。もちろんわたしにも、親より先に死んだりする可能性は普通にあるけれども、ほどほどに何事もなければわたしや妹がこの世に残ることになる。ちなみにわたしは現状、子どもを産む予定がない。さまざまの理由で、無理じゃないかな~と思っているし、積極的に子どもが欲しいという気持ちがほぼない。世代交代としては妹が結婚して子どもを産んだりしたら別かもしれないが、甥や姪(仮)にそんな継続的な面倒と金銭的な負担をかけるのはかなり迷惑だと思う。
 やっぱしゅわっといきたいよな。しゅわしゅわ~。
 しかし現実にそういうわけにもいかないので、そこそこの納得を得るためにどうしたらいいのかな、となったとき、ダイヤモンド葬というのがな~、ちょっといいんじゃないかな~、などと、フワッと思う。フワフワ~。
 これは気になったのでやってるとこのサイトを見たことがあるんだが、そこでは遺骨を薬品処理して炭素だけを抽出し、それをダイヤモンドに加工する、ということだった。炭素以外の骨は残らないらしい。で、そのダイヤモンドでジュエリーを作るなり、カットだけしてもらうなり、原石のままで受け取るなりするようだ。へえ~。
 別に複数社比較したわけではないのであれだが、そのとき見たところだと値段はだいたい45万~、くらいだった気がする。保証されるダイヤ自体の大きさだとか、もろもろの条件で値段が上がっていくかんじ。
 なんか……そこまで処理してダイヤにしちゃったら、だいぶ「生き物」とか「生きていたもの」から遠ざかるな、という感覚がある。あくまで、個人的な感覚だけれども。なにせ組成的には炭素塊だからな、ダイヤモンド。
 あと、ダイヤ一粒だったら、例えばちょっとクルージングとか行ってもらってさ、海にぽーいってしてもぜんぜんバレないでしょ。さらに言うと、ダイヤって800℃くらいで燃やせるらしいので、なんていうか、うん。

なんでしゅわっといきたいか

 前述の「たましいがないから、死んだら泡になって消えてしまう」のが羨ましいのである!
 わたしは、いわゆる「死後の世界」というものを信じているとも、信じていないともはっきり言えない。よくわからん。死人は喋ってくれない。喋ってくれたら死後の世界があると言えるのかもしれないが、例えばわたしと喋ってくれる幽霊なりゾンビなりが本当にいたとして、それはただ現世に残ってしまっただけで、この世ではない場所というのはないのかもしれない。知らん。
 とりあえずそれがあるとかないとか、実際にどんなものかとかは置いておいて、わたしは「死後の世界というものがあったとして、わたしがわたしのこの考え方とか、そういうものを持ったままそこに行くのはいやだな」と思っている。本当に、すごく、いやだ。いやだな~!
 そしてそれは何故かと言えば、なんというか、要するにわたしが極めて臆病だからということになる気がする。
 わたしは結構、生きているとただそれだけでいろんなものに不安を感じてしまうたちをしている。この「不安」というのがだめだ。持っている「不安」をどこか(死後)に持ち越すかもしれない、というのが本当にいやだ。
 自分が「不安」というものを完全に切り離すことができる、というビジョンはまったく見えない。
 どこか、例えばそれこそ天国(フワッとした概念)のような場所、安心で安全な場所でぬくぬくしていていいですよ、もう何も心配はいらないですよ、と言われたとしても無理だと思う。たぶんわたしはそこで、それをいつか失ってしまうことだったり、誰かが「わたしがそこにふさわしくない」と気づいて糾弾されることを怖がってしまうだろうな、という感覚がある。
 そんなわけだから、わたしはそういう不安からとても救われたいのだけれども、それはもう、「不安」を感じることのない状態、不安を感じる「わたし」という主体がいなくなった状態、ということになるのだと思われる。
 は~。やっぱしゅわっといくしかねえよ。

結論

 人魚に生まれたかったなあ……。
 恋とかしないで、しゅわしゅわ~っと泡になるタイプのやつに……。

 そんなこんなで、まともな締めはない。
 おしまい!

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