アレクシア・エルレンマイヤーの帰還

 通りの中央を、決然とした表情で歩く彼女を見たとき、私たちの胸に満ちたものをなんと呼べばいいだろう。

 誰かに拐われてしまったのだと言われていた。どこにも見つからなかった。自分から、何も言わずに姿をくらますようなひとではなかったのに。
 そうして彼女が消えてから一月経ち、二月経って、ひとり、またひとり、もう無事ではいないだろうと諦めていった。
 あれから一年と少し。

 最初は、窓の外からかすかな、けれど確かなざわめきが聞こえた。昼過ぎの今時分、普段この通りは静かなものだ。
 だから私も、何かあったのかと思って、窓辺に近づいて通りを覗いた。

 白い口元の、引き結ばれたくちびるが見えた。緑色の瞳が、まっすぐに前を向いていた。
 赤い石のついた杖を握って、華奢で小柄な体躯が凛と歩いていく。
 金の髪に載せられた帽子には、あの日のまま、金の翼と歯車の、工房街からの贈り物がぴんと陽光を弾いていた。

 ――エルレンマイヤー卿アレクシアが、そこにいた。

 見たものが自分の中で理解された瞬間、今すぐ家を出て駆け寄りたい気持ちと、一瞬でも目を離したら消えてしまう幻なんじゃないかという恐れに両側から引っ張られて、息が詰まった。
 彼女が窓枠から見える範囲を通り過ぎていくぎりぎりで、私は家を飛び出した。きっと同じようにして家を出てきた人々が通りにはいくらもいて、彼女の後ろを追いかけていく。彼らの発する息、囁き声、そして足音がざわめきを形作っていた。

 彼女の側近くには、長い灰色の髪を垂らした背の高い男が付き従っていた。誰だかはわからない。この街の人間ではなかった。
 ただ、その男はどうやら、彼女になんらかの危険が及ばないように周囲を警戒しているようだった。かつて時折、彼女に付けていた護衛と同じ位置取り。……あるいはそれよりも、やや親密な距離感で。
 張り詰めた空気をまとった彼女の隣で、身長差に拘わらず慣れた歩調の合わせ方。昨日今日雇ったような関係ではなさそうに見えた。

 彼女たちは商工会の寄り合い所に向かっているようだった。そこは、工房街の心臓だ。市議長だって、議会の日でなければ大概はそこにいて、あれこれと意見や要望をまとめている。

 二人の雰囲気は、気軽に声を掛けられない緊張感に満ちていた。
 二人、というよりは、特に、彼女が。

 私には、そんな彼女の様子が胸に痛くてたまらなかった。
 でも、私がこの場で彼女に走り寄って、抱きしめて、おかえりなさいと言ったところで、彼女はきっと困るだろう。私たち一人一人がどれほど彼女を慕わしく思っていても、彼女には公に背負っていた責任があった。それを無視できる彼女ではない。だからこそ、私たちは彼女のことを『エルレンマイヤー卿』と呼んだのだ。

 私たちは二人を追っていき、その背が寄り合い所の前で立ち止まるのをじっと見つめていた。
 彼女はすうっと息を吸い、鍵のかかっていない扉を強く叩いた。
 数秒後に内から扉を開いたのは商工会長で、私たちからは、その目が驚愕に見開かれるのがよく見えた。零れるような、エルレンマイヤー卿、という声。続いて、中にいた者たちのどよめき、椅子の倒れる音。
 あっという間に戸口に人が集まり、それが彼女を押し包むように外に溢れ出る。
 隣の男がその人波から彼女を守ろうとしたのを、彼女自身が制した。
 それから彼女は自分を取り囲む人々の真ん中で帽子を取り、深々と頭を下げる。

「すまなかった」

 ああ。アレクシアの声だ。

「詫びて、それで許されるとは思っていない。いまさら戻ってくるなと言われることも覚悟している」

 今やしんと静まり返った人垣のうち、どれほどの人間が、あなたの無事を願ったか。
 私たちは、あなたが消えた日の悲しみと痛みを、みんなで分かち合ってきた。あなたがいれば、と何度思ったか知れない。

「だから、みなが望むなら、二度とここには帰らない。……ただ」

 いつもまっすぐだった彼女の声が、少しだけ震えた。
 その震えに、何か耐えかねたように、一人が彼女の肩を掴んで顔を上げさせた。そして、振り絞るように、いいんだ、と言う。

「いいんだ。……いいんだ、あんたが……あんたが、帰ってきてくれて……」

 その後は、言葉にならなかった。傍らのおばさんが彼女の背を撫で、涙ぐんで何度も頷く。つられたように、彼女の周囲で、あるいは遠巻きにしていた私たちの中にも、泣きだす者が出はじめる。
 彼女は周囲を見渡して、再びぐっとくちびるを結んだ。ほんのかすかに潤んだ瞳で、本当にそれでいいのか、と問うているようだった。
 私は本当にたまらない気持ちになって、一歩、二歩、彼女に近づく。

「ザーラ」

 彼女はすぐに私に気づいた。私を呼ぶ声は、彼女が消える前と同じ響きをしていた。私は涙が止まらなくなって、駆け寄って、ぎゅっと抱きしめる。

 アレクシア。おかえりなさい、アレクシア。

 それ以外は何も言えなかった。
 私に続いて、みんなが彼女の背に触れ、頭を撫で、抱きしめて、彼女をもみくちゃにしながら、おかえり、と繰り返す。
 おかえりなさい。おかえりなさい。
 他に言いたいことだって山ほどあったけれど、今はただ、彼女が無事で戻ってきて、ここにいて、それが本当のことだという喜びで胸がいっぱいだった。

 彼女はみんなに囲まれたまま、隣にいた、今は人垣の外にいる男にちらと目を向ける。彼は少し笑っていた。……いささか性格が悪そうに見える笑みだった。
 しかし、彼が誰でどういう相手なのかは、これからゆっくり彼女に尋ねればいい。

 彼女は帰ってきた。
 私たちのエルレンマイヤー卿、私たちのアレクシア。

「……ただいま」

 あなたのその言葉を、ずっと、ずっと待っていた。

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