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ドブネズミは別に美しくない。

何度も繰り返すが、私は性格が悪い。
性格が悪いので、こういうキャッチコピーが苦手だ。

「かわいいは作れる」「日本の女性は美しい」
こういう文言がどうにも苦手だ。

「誰でもプリキュアになれる」

これも苦手だ。
「プリキュアにだけは絶対になりたくない」という人間もいるんだ。
私はジャバザハットとかになりたい。

それというのも、こういった言葉が決して無条件に、ありのままの姿を肯定しているわけではないのを良く知っているからだろう。
「かわいいは作れる」という言葉は、ひっくり返すと「おまえがかわいくないのは作ろうとしなかったからだ」になってしまうし、
「日本の女性」とか「誰でも」と、一見無条件であるかのように開かれた扉の向こうには、生まれついて容姿に優れた人か、上述の「可愛いを作る努力をした」人ばかりが並ぶ。

どう好意的に受け取ろうとしても、言外に努力義務を課されているようにしか聞こえないのだ。

いや、正確ではなかった。
この文言自体に罪はない。

だが、この文言を好んで使うような人間は高確率で自分自身でなく他人にこういった努力義務を課してくるし、自分が他人に義務を課すのを正当なことだと本気で信じているから苦手だ。

たぶんこれは私が女性だからではなく、「持たざる者」は誰もが感じている息苦しさではないか。

(プリキュアに関しては、アニメ絵なので美醜や年齢人種の区別がつきにくいという事情は大いに勘案したいし、すべきだと思っている。
ただ「誰でもなれる」と手を差し出されると、ひねた大人だから途端に身構えるのだ。東映には申し訳ないが、私がもうプリキュアのターゲット層から遠く外れてしまったからだろう)

ブサイクであることまで自己責任にしないでくれ。

完璧に作りあげた「可愛い」を互いに持ち寄って、善意で褒め合って楽しむのはとても良いと思う。
本人が望むのなら、たとえ男性であってもプリキュアを目指すべきだ。
努力して獲得した美は、それは価値のあるものだろう。
「かっこいい」に属する容姿をした女性がロリータファッションを着るのも、男性さえ易々と倒すような女性アスリートがセクシーなイブニングドレスを着るのも大いに結構だ。
女芸人が女優やモデルに混ざって、同じ仕事を堂々とこなす姿も好きだ。
本人が望んで、誇って、そう振舞う限りにおいては全て肯定する。

だが、それと同時にドブネズミがドブネズミのままでいる権利は決して害さないでほしい。

生まれついた容姿によって倦んで、悩んで、世を恨む事を、
「努力不足だからだ」と言われるのはあんまりに無慈悲だと思う。
その「努力」は誰かに義務として課して良いほど軽いものではない。

自身の容姿を自虐して、面白おかしく笑いを取る事を、
ひとまとめに「差別的な表現だ」と排除するのは横暴だとも思う。
本人が誇りを持って望んでやっているのなら大いにやらせれば良い。

自分の容姿をどう受け止めるかは、センシティブな内心の自由だ。
自分の醜さやコンプレックスを、受け止めやすい形にまでトゲを取って丸めて飲み込む作業というのは、他者がどうこう口を出して良いものじゃない。
仮にその作業の末に、後ろ向きで自虐的な言葉が本人の口から出たとしても、それはその人間なりに自分を肯定した結果だ。

私は「デブ」「ブス」と自称する自由と権利を絶対に手放さないし、
他人が自身を醜いと自称したり自虐したりする権利を尊重する。
(もちろんその逆も尊重するが、それは今の世間的に大いに推奨されているから、あえて私が応援するまでもないだろう。引き続き頑張ってほしい)

ただ、容姿の受け止め方を誰かから「もっとこうすべきだ」「そういうのは良くない」等と指導されるのは絶対にごめんだ。

上記引用ツイートのような場面を、実際私も何度も目にしてきた。
既に男性に対しては「エンパワメント」の名の下に、ブサイクの自己責任化がなされてしまっている。
キラキラな努力などしたくないドブネズミとしては、明日は我が身と憂うばかりだ。

ある日、急に「ドブネズミみたいに美しくなりたい」と歌われたドブネズミの心境を考えることがある。

あの歌の言わんとすることはわかる。
私もあの歌が好きだ。

しかし、ドブネズミとしては「美しい」という賛美を歌われている最中にも、現実ではネズミ捕り器に容赦無く叩き潰されたり、
「あれは美しく生きようとしていないドブネズミだから、殺されても仕方ない」とばかりに殺鼠剤を食わされ、のたうちまわって血反吐を吐きながら死んでいるわけだ。

ならばドブネズミに許されるべきは「美しい」と誇る権利ではなくて、
「お前らが出したゴミや余り物を食ってここまで生き、今おまえたちの都合で殺される、この醜く汚い者の血を、はらわたを、せめてその目に焼き付けろ」とばかりに路上で潰れて死ぬ権利じゃないか。

もちろん、ドブネズミが人間のようにそんな思考はしないだろう。
しかし、害獣とされる動物に対して「屍を路上に晒す権利」を許して、それを見て何かを思う義務を人間が負っても良いのじゃないか。

たぶんあの歌の言っていた「ドブネズミみたいな美しさ」とは、そんなもんなのだろうと思う。
そういうものを是としてくれる余地が無くなって、死骸はすぐさまにも片付けられて、醜いものがそこにいた事を誰も知らずに通り過ぎる世界に、自分はたぶん生きられない。

「醜」とは強く恐ろしくたくましいこと。

醜女(読み)シコメ
〘名〙 (「しこ」は、元来、強く恐ろしいの意)
① 黄泉国(よみのくに)にいるという恐ろしく、みにくい女の鬼。
② 容貌のみにくい女。醜婦。しゅうじょ。

醜男(読み)シコオ
〘名〙
① 強くたくましい男。荒々しい男。
② みにくい男。

(精選版 日本国語大辞典)

「醜」という字は「しこ」とも読める。
これは「悪」という字の語義に近く、「強く恐ろしくたくましい」という意味がある。
特に醜男(しこお)と言った場合にはこちらの意味合いが強く、力士の四股名も元々は「醜名」だったという。
強さと「醜」「悪」は、大和言葉では表裏一体なのだ。

私はエンパワメントなんて言われたところで、ファッションセンスや化粧の技術が優れているかどうかで評価されたり、「プラスサイズ」なんて外来語で言葉を濁しているうちは絶対にあっち側のキラキラ勢力の軍門には下りたくはない。
頑なに「デブ」「ブス」という言葉を使うし、服飾にかける大金があったら資料かレッドブルを買う。

私が信じるのは「醜い者はその醜さそのものに価値がある」という考えだ。
醜女という言葉からは醜男のようなポジティブな意味が大分薄まってしまっているが、この言葉に原義の通りの「強く恐ろしくたくましい」という意味を取り戻せればそれで良いと思う。

別に醜い姿を祭り上げて欲しいわけでない。
ヒーローやヒロインの中に必ず一匹ドブネズミを加えろなんてことは望まないし、ドブネズミを悪役として描いてはいけないなんて事も言いたくない。
ただ、屍を路上に晒す程度の自由を許してほしいだけだ。
そういう種類の「強さ」もあるのだと受け入れてほしいだけだ。

私は積極的に醜さを誇ろう。
醜さの価値は間違いなくこの国にはあったし、また取り戻せるはずだ。

ドブネズミは別に美しくない。
きっと、美しくなりたいとも思っていないはずだ。

サポートくれた方、本当にありがとうございます。 絵の資料とかうまい棒を買います。