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人はなんで怒られながらも「笑い」を提供するのか。

先日、亡くなった志村けん氏の追悼番組に関連して、こんなツイートを目にした。
以下、某シンガーソングライターが言っていた「ファンは好きなアーティストを呼び捨てにしても良いんだよ!(だからファンとして語る時だけは吉田拓郎を呼び捨てにする)」という言葉に従い敬称略。

芸人やコメディアンは、なぜ「不謹慎だ」「不適切だ」と言われても何度も葬式や病気をネタにするのだろう。
私はこのツイートを目にして思った。

「死んだあとも自分を忘れて欲しくない」

「自分が病んだ時も元気な自分を思い出して欲しい」

だから、生きてるうちに何度も葬式や病気ネタを作って演じるのかもしれない、と。

死んだあとに、自分のために泣いてもらうのはとても嬉しい事だ。
人生の折り返しを過ぎて、それは次第に実感を持ってわかるようになってきた。
しかし、人間は涙を流すとスッキリして悲しかったことを忘れてしまう生き物だ。悲しいけれど、そう言う風に人間の脳みそは出来ている。

忘れられてしまうのが怖いから、不謹慎な笑いで誰かの記憶に残してもらいたいのかもしれない。
お笑い芸人には寂しがりやが多いとも聞く。
ただ「みんなのスターとしてチヤホヤされたい」という寂しがりやではなく「死んでも病んでも、どうか忘れないで欲しい」と願うほどの寂しがりやなのだとしたら、それはとても切実な思いだな、と考えた。

思い返せば、ドリフや志村けんのコントは葬式、老い、病気ネタが本当に多い。
よぼよぼになって耳も遠くなって、何一つ満足にできないのに、それでも仕事をしようとして無様に失敗する老人のコントは死や病と同レベルでたくさんあったと思う。

「病老死」の苦しみだ。

ついでに言うとそこに、エロが加わると「生病老死」で、仏教の説く四苦が揃う。

(私は自分の生を恨むとき、父母や先祖の性を憎んだので、生まれた苦しみとエロはどうしたって密接に関係していると考えるのだ)

なんで生まれてしまったのか、なぜ病に苦しまねばならないのか、なぜ老いて辛い思いをせねばならないのか、なぜ死ななければならないのか。

コメディアンというのは、ずっとそればかりを考えて生きているのかもしれない。

つまるところ、笑いとは「苦」がないと生まれないもので。
「苦」があるから、人を笑わせずにいられないのだろう。
そして「苦」から生まれるものだから、人によっては見て傷つく。

しかし、もしこの世から不謹慎な笑いというやつがなくなったら、生病老死の四苦をこんなに強く意識させられることって、現代人にあるのだろうか。

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