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「東京五輪組織委員会の新会長は女性に」に対する違和感

東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長(83)が12日、理事会と評議員会の合同懇談会に出席し、女性蔑視発言の責任を取り、辞任を表明した。

本人の会見でも言及された通り、森氏の辞任は件の女性蔑視発言に対する引責と考えられる。

その後、森氏の後任として名前が挙がったのは、森会長から”指名”されたという川淵三郎氏であったが、一転白紙撤回となり、その決定プロセスの透明性などに社会的な関心が高まっている。

こうした一連の報道のなかで、よく耳にした声の一つが「森氏は女性蔑視発言で引責するのだから、後任は女性が適任ではないか」といったものである。

ジェンダー平等をすすめるうえで、意思決定の要職に女性が就くことの意義は改めて論じるまでもない。森氏の後任を女性が務めることについては、筆者も特に異論はない。

一方で、森氏→川端氏というリレー案が内外からの批判を受けたために、慌てて女性就任案が出てきたという印象を受けた人も少なくないのではないだろうか。

なんというか、「五輪組織委員会会長を女性に」という掛け声は、「委員会がジェンダー平等に意欲があるとアピールして火消ししたい」といった委員会の思惑、安易なポーズが透けて見えるように感じてしまうのだ。

一方、現在の日本におけるジェンダー不平等の程度はあまりに大きく、また根深い。政治家や企業などの役員の男女比率といったいわば「額面」に現れる非対称性は言うまでもなく、「女性に統括やマネジメント業務は務まらない」といった偏見を抱く男性は依然としてとても多いと感じる。

こうした状況を念頭におくと、ジェンダー平等をすすめるうえで重要なことは、「女性がどの程度要職に就いているか」という点(も勿論重要な視点なのだが)だけではなく、「統括やマネジメント能力にジェンダー差はない」という認識をきちんと社会的に共有することではないだろうか。

筆者の杞憂であればいいのだが、現状、上述したような認識(女性に統括やマネジメント業務は務まらない)を多くの人(主に男性)が”本音”としてもっているとすれば、いくら要職に就く女性を増やしたところで、「ジェンダー平等を掲げないといけないから仕方なく能力がなくても女性を登用した」という雰囲気が支配的になってしまう。これでは、男性は「逆差別だ」と感じるだろうし、バックラッシュも生じ続けるだろう。

真のジェンダー平等とは、「性別に関わらず能力に応じて役割が分配される状態」である。裏返せば、もしもマネジメント能力にジェンダー差が存在するのであれば、マネジメント業務を行うポジションのジェンダー比率に偏りが生じても「ジェンダー不平等」と問題視する必要はないということになる。しかし、言うまでもなく本来マネジメント能力にジェンダー差などない。

しかし、今の日本社会のジェンダーギャップの問題の核心は、こうした「女性の能力に対する社会的不承認」にあるような気がしてならない。

筆者はここ数か月の間に、数人の「管理職」の男性と組織の体制について議論する機会があったが、その際彼らが語った”悩み”こそ、「男女平等がいわれるけれど、現状としてマネジメント業務を任せられる女性がいない。マネジメント能力は正直なところ明らかに性差がある」というものだった。

女性が管理職や要職に就いた前例がほとんどない組織でキャリアを重ねてしまうと、「女性にマネジメント業務は務まらない」という誤った認識が強く根付いてしまうのだということを改めて痛感した経験だった。

確かに上述した管理職の男性の組織には「マネジメント業務を任せられる女性」が不在なのかもしれない。しかし、それは「女性にマネジメント業務が向いていない」からではなく、「マネジメント業務やそうした能力を身につける機会」が男性職員と女性職員とで不平等に分配されているからだろう。

ここに、ジェンダー的に不平等な職場の悪循環がある。

女性が要職に就かない→女性が能力を発揮する機会がない→女性の(組織内における相対的)マネジメント能力が育たない→男性管理職が「女性はマネジメント能力がない」と勘違いする→女性が要職に抜擢されない→…

こういった組織では、「要職に就く女性の割合」という額面のジェンダーギャップ指数だけでなく、「能力についての女性への不承認」という―質的であるがゆえに数値化が難しく、しかし決定的な—ジェンダー不平等を生じさせ続けてしまう。

さて、筆者は幸い、キャリアのスタートから多数の非常に優秀な女性上司と仕事をさせてもらう機会に恵まれたこともあり、経験的に「女性はマネジメント業務に不向き」といった偏見を持つことなくキャリアを重ねることができた。

マネジメント能力に性差はないという認識のもと能力に応じて役職が付与されるエートスのある組織で育ててもらったことは幸運だったと言えるかもしれない。

しかし、日本の現状ではまだそういった組織は少数なのだろうとも思う。であれば、「女性が要職に就く」ということを意図的に行なうことはアファーマティブアクションとしての意味があるのに加え、構造から人々の意識を変えていくという展望もあるだろうと思う。

ただ、その際気を付けなければならないことは、「女性だから」起用するというメッセージは、「能力を認めたわけではない」という不承認のレトリックを強化することにもなりかねないということである。

その意味ではやはり、次の五輪委員会会長が女性となる筋書きのなかで最も建設的なプロセスは、「能力に性差はない」ということを社会的に相互に確認したうえで、「候補のなかから能力的にも適任であると判断・評価された人物が、たまたま女性であった」というものだろう。

単に「女性だから」という選任では、現在のジェンダー不平等の是正には全く寄与しないどころか、本質的な問題を隠蔽してしまいかねない。

何より、性別を理由に役職を与えるという発想は、候補者に対して失礼である。


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