特等席
私は漁師の家にうまれた。誇らしいと思ったことなんて、一度もなかった。
漁師は自営業で、船の燃料の油代も乗り子の給料もかかる。大漁できるかどうか、ほぼギャンブルのようなもの。それなりに家計の厳しさを、幼いながらに感じていた。
お父さんの休みは時化か月夜(満月の夜のこと)だから、土日に遠出することもほとんどなかった。頻繁に熊本市内にでかける友人が羨ましくてたまらなかった。いつでも大きな船に乗れていいねと言われたって、そんなの全く嬉しくなかった。
ただ、1年で一度ハイヤ祭りの日、船団パレードだけは、わくわくした。船団パレードはハイヤ祭りの日曜日の朝に、漁師の人たちの協力で行われる船のパレードだ。大漁旗や竹の飾り・鯉のぼりで賑やかに装飾した船が須口や宮崎の漁港から一斉に出港する。漁船には家族や親戚が船の定員ギリギリまで乗り込んだ。
私は、船長の娘だから、これは自分の船だと思っていた。だからとても偉そうに振る舞った。
私の特等席は船のいちばん前の、高さ2メートルくらいはある位置に設置された椅子だった。普段は魚影を高いところから見つけるために使われる椅子。
潮風でべっとりとした手すりをつたって上に登る。下で誰かが危ないと心配しているけど、気にしない。だって落ちたことなんてないのだから。座席の皮が劣化して破れ、中のスポンジが水分を吸って湿っている。いつものことだから、気にせずに座る。
船のスピードが出ると、風が顔にあたる。スカートが揺れる。揺れるどこではない、めくれる。それを片手で押さえ、もう片方の手で落ちないように手すりを握りしめる。父はどんどんとスピードを出す。下で妹たちがきゃっきゃと騒いでいる。
海の上をぐんぐんと進む。船が前の船の波を受けて上下に揺れる。揺れが船の前の方から後ろに移動していくのが身体につたわる。風で目を開けているのが難しく、目を細める。春の午前中の日差し、前の船がつくった白波、水面を船が割き波が泡立ってキラキラ揺れるのを、この席で眺めているのが好きだった。
宮崎の漁協を通り過ぎ、ぱんっと広い海が広がる。黒島を横目に、真っ赤な通天橋の下を潜る。橋と島と島の間で影になっていて、ひやりと冷たい風が吹く。ハイヤ大橋のでっかい柱とすれ違う。いつ通ってもぶつからないかひやりとする。陸から大勢の見物人たちが手を振る。私に振っているわけではいのになぁと思いながら、一応、手を振りかえす。私はテレビでみたことのある、皇族が手を振る姿を思い出し気分は皇族だった。
***
大学生の頃、父が漁に行かなくなり、大きな船は沖縄の誰かに買われていった。それは事後報告で突然だった。でも別に驚きはしなかった。船団パレードに私の家の船で出ることはなくなった。
その日は、ハイヤ大橋の長島の方向が見える場所からパレードを見下ろしていた。春のやわらかい日差しが、海をきらきらと輝かせる。大漁旗で着飾った船がどんどんと長島の方にすすみ、折り返す。大漁旗が風でたくましくなびく。旧漁協に船が並んで入っていく。風光明媚という言葉が浮かんだ。
パレードの船団の中に知っている船を探す。同級生の家の船を見つける。とても派手に飾られていて、すぐにわかった。面倒臭がらずに派手に飾っている心意気が、とってもかっこいいと思った。私も昔はあっち側にいたのだと少し懐かしくなる。
ふと、船の数が減っているような気がした。橋の上から俯瞰して見ているからそう感じるのだろうか。いや、そんなことはない。前はもっと船と船が近く、船の行列が長かった。これはいつまであるんだろうかと見物人を飽きさせるほどだった気がする。その感覚も私の幼さゆえだろうかと自信がなくなる。
でも、やっぱり減っている。ここ数年で漁師をやめた人がいるのだ、とはっとした。これから先、どんどんと減っていくだろう。きっといつか、この景色を見ることができなくなる時が遠すぎない未来に存在するのだろう。そしてそれは私の力では到底どうしようもできない。
私はこの瞬間を絶対に忘れたくないと思いながら、写真を撮った。ある程度撮影したのでほっとして、次は自分の記憶にその景色を焼き付けようとカメラをしまった。
減ったように感じた船の数のことを、父に聞いてみると、かつてのピーク時から半分くらいの数になったとのことだった。私の家だってその1つだった。
漁師の家には絶対に嫁ぐなと母に言われながら育ち、漁師にはならない人生を歩んだ。このまちのこの景色がこの先ずっとあることを、無責任に祈っている。
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