太平洋戦争への道程 軍部独走だけでは語れない|【特集】真珠湾攻撃から80年 明日を拓く昭和史論[PART-2]
80年前の1941年、日本は太平洋戦争へと突入した。当時の軍部の意思決定、情報や兵站を軽視する姿勢、メディアが果たした役割を紐解くと、令和の日本と二重写しになる。国家の〝漂流〟が続く今だからこそ昭和史から学び、日本の明日を拓くときだ。
文・筒井清忠(帝京大学文学部長)
なぜ日本は太平洋戦争に突き進んだのか。それは当時の国内情勢と国際情勢から丁寧に読み解く必要がある。浮かび上がるのが「平等主義」だ。「弱者隷属階級の解放」という大義が、昭和史を揺さぶっていく。
日本はなぜ対米開戦に突き進んだのか。軍国主義の時代、影響力を強めた軍が国民を戦争へと引きずり込んだと考えている人も多いようで、確かにそういう面もあるが、それだけでは歴史の単純化にすぎない。歴史は点ではなく線から読み解かねばならない。
その意味で、「1930年代の危機」を20年代の終わりから41年までの期間として丁寧に振り返る必要がある。国内的背景、国際関係的背景の2つから、見ていきたい。
まず、国内的背景について、重要なことは軍人台頭の社会的背景としての軍人の不遇ということがある。31年の満州事変以前の日本では、軍人の社会的地位は非常に低いものだった。約1600万人の死者を出した第一次世界大戦により戦後世界の世論では反戦・平和主義が非常に強い力を持つことになり、海軍の軍縮条約に続いて陸軍でも大規模な軍縮が行われ、約9万6400人の人員削減が行われた。
その場合、問題は将校である。十分な手当てがないままに、尉官級以上の約3400人が突然無職になる悲惨な状況になった。そして、将校が制服で街を歩くと「税金泥棒」と言われて蹴られたりするので、彼らは軍事官庁に勤務する際は背広で出勤し、役所で軍服に着替え、帰宅する時はまた背広に着替えて帰るというありさまであった。こうして軍人たちに大きな不満が溜まる中、自分たちの存在を否定された若い青年将校たちは悩み始め、現体制の変革を求める昭和維新運動などに参画することになっていくのである。
こうした中、29年に世界恐慌が起き、大量の失業者が発生し、世界中の資本主義国家は危機的な状況に陥った。
最も衝撃を受けたのがドイツのワイマール共和国であり、ドイツ共産党とナチ党という左右両翼の急進主義が台頭、結局ヒトラーの制覇を招くことになる。
日本でも農村部では娘が身売りを強いられるような惨状となった。これにより〝このままでは日本は衰亡あるのみ〟〝一挙的現状打破〟という声が強まり、やはり左右両翼の急進主義が台頭する。安定した確固とした自由民主主義的議会政治が存在しないと、世界恐慌のような事態となれば、急進主義の伸長を防ぐことが極めて難しくなるのである。
さらに20~30年代にかけて、日本では特に青年インテリを中心にしてマルクス主義が広く普及していたことも重要であった。33年に日本共産党幹部の大転向が起きマルクス主義の社会運動は衰退し始めるが、財閥が存在し大きな社会的格差があった当時、格差是正を求める「平等主義」の考え方は社会に根付き、以後も影響力を発揮することになる。重要なのは、マルクス主義の社会運動が衰退した後も、社会変革を掲げた平等主義は五・一五事件(32年)や二・二六事件(36年)を引き起こした超国家主義運動に引き継がれていったことである。当時の取り締まり当局は「左右紙一重」と言っている。
国外危機の起源、満州問題
国内に浸透する平等主義
次に国際関係的背景について見ていこう。当時の日本を取り巻く国際情勢の中で最も重要なのは、中国との満州をめぐる対立である。日本が直面した国際的な危機全ての〝起源〟はここにあるとも言えよう。
日露戦争の結果、中国の遼東半島と南満州鉄道(満鉄)の周辺地域が日本の権益となり、31年時点で、満州には日本人が約23万人暮らしていた。だが、第一次世界大戦後に民族自決権が世界的趨勢になり、中国では当然のように反帝国主義運動が活発化する。日本の満州権益はその標的となり、「日本人は日本に帰れ」とする激しい日本人排撃運動が起きる。
日本からすれば、満州の権益は当時の国際法で認められた当然の権利である。さらに23万人の在満邦人は、満鉄勤務者やエリート官吏などを除くと大部分が日本に帰る場所などがない人たちだった。重光葵など権益を率先して返還して問題を解決しようとする外交官などもいたが、在満邦人の状況を目の当たりにした関東軍の急進派が31年、ついに満州事変を引き起こすことになる。
中国の長春には満州国国務院(写真中央、現・吉林大学)などの建築物が今も残る。満州事変以前、23万人の在満邦人の処遇が日中間の問題となっていた(TONY SHI PHOTOGRAPHY/GETTYIMAGES)
その背景には次のようなこともあった。この時期、満州ではソ連の進出が顕在化していたのである。29年、満州を走る中東鉄道の経営をめぐって中国とソ連との対立が激化し、結局戦争となる。強力な赤軍を前に中国軍は惨敗し、ソ連は権益を確保・拡大した。これが関東軍を非常に刺激した。つまり、「権益は実力で守る」という意識を与えたと同時に、ソ連が満州に大きく進出してきたということで警戒感を非常に高めてしまったのである。
西の中ソと対立する中で、日本は米英、特に東の米国とも対立していく。ワシントン軍縮条約(22年)とロンドン軍縮条約(30年)により、日本海軍の規模は米英に対し小さく制限され(現在から見れば国力に比し合理的なのだが、特に後者には海軍の強硬派と野党が強力に反対した)、さらに24年には、米国で日本人移民を禁止する差別的な排日移民法が成立した。それらにより世論に根付いた対米不信は、太平洋戦争に突き進むプロセスの中で、ボディーブローのように効いてくることになる。
とはいえ日本政府は、しばらくは米英との友好関係を重視する姿勢を維持していたのだが、満州事変から日中戦争へと戦争が拡大すると、38年には近衛文麿内閣が「東亜新秩序声明」を出すことになる。これは、日本政府の方針としてアジア重視を第一の外交方針とすることを初めて示したものであり、明治以来の対米英関係重視の外交方針から決別することを意味したものであった。
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