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激変する陸の孤島で人々が向き合う歴史と暮らし【福井県おおい町を発掘!】

今回は、おおい町大島半島の歴史や暮らしについて発掘調査を行いました!
前回の記事にあったように、かつては陸の孤島だった大島半島。

若狭小濱町鳥瞰図(画像提供:(有)せくみ屋・藤原清次氏)

昔は本島(おおい町中心部)に行くには連絡船を使うしかなかったそうです。

そこでの暮らしはどういうものだったのか。
大島半島の歴史について興味が湧いてきた調査隊は、手がかりとしてこの地域の産業に触れようと、真珠養殖を行うお店、漁業協同組合、公民館を訪問してみることに。

そこで分かったのは、かつての辺境は、想像に反して活気にあふれているということでした。
しかし、それは大島の人々が、激変する暮らしに向き合ってきた証でもあるようで。

前回の記事では、大島半島には魅力的なレジャースポットも多いことをご紹介しましたが、
今回は、観光スポットとしての見どころよりも、歴史の流れや原子力発電所で変わった人々の暮らしなどを含め、大島半島は“学びどころ”である、と感じる発掘となりました。

最北の海で育まれる上質な真珠を手軽にアクセサリーに!【間宮真珠】

真珠(若狭パール)は福井県の郷土工芸品に指定されています。
そんな若狭パールを手がけるのが、青戸の大橋を渡って大島半島に入るとすぐの場所にある『間宮真珠』さん。
65年前に真珠養殖を始めてから、自社で養殖、加工、製作、販売までを一貫して手掛けています。

店舗ではフォーマルネックレスからストラップなどの小物までさまざまな商品が販売されています。

真珠というのは、主に南洋の暖かな国々で作られており、日本の真珠は最も北の海で採れる真珠なんだそう。
冷たい海は、きめ細かくて色目も美しく、深い光沢のある真珠を育みます。
さらに、この辺りの入江は波が小さく、特に真珠の養殖に向いているんだそうです。

今回は、こちらでマスクチャームづくりをさせていただくことに!

細かい作業が続くこと約20分…

完成!!

真珠というとちょっと高級なイメージがありますが、こんな風に気軽につけられるのは嬉しいですよね。
自分で作ったので愛着もひとしお。

10名以上の団体でない限り、予約なしで体験ができますよ!

若狭パール mamiya – 間宮真珠養殖場
福井県大飯郡おおい町犬見31-28
http://mamiya.ac/

聖徳太子に、文化財の祭祀⁉【はまかぜ交流センター し~まいる・大島公民館】

間宮真珠さんで、「大島のことを知りたいなら、公民館か漁協組合でお話を聞くといいと思いますよ!」とアドバイスをいただき、まずは公民館に向かうことに。

道中、「へ~、大島にはコンサートも開催できそうなアリーナがあるんだ~!」と眺めていると…

まさか!!
なんと、ここが目的地の公民館でした。

大きすぎないですか⁉

実はここ、避難所の機能も兼ねている建物なんです。
大島半島の一番奥には原子力発電所があるため、万が一の時のために気密性が確保されていたり、施設内の圧力を上げて外気が入らないようにする装置があったりと、かなりハイテクな設備となっています。

これだけでもすごい発見なのですが、さらに施設内を見学させてもらうと、
壁一面に『大島郷土史年表』なるものが掲示されているではありませんか!

寺井隊長「大島って歴史がある町なんだね!年表の最初には何が書いてあるんだろう…?」

寺井隊長「聖徳太子⁉」

創建“説”とはいえ、まさか聖徳太子ゆかりの地だったとは、驚きです。

聖徳太子が創設したとされる長楽寺は、大島小学校のすぐ隣にありました。
このお寺にある阿弥陀如来像は、大島半島最古の仏像と言われています!

大島半島は奈良大安寺の荘園だったそうで、半島全体に多くのお寺が点在しており、仏像もたくさんあるそうです。
中でも常禅寺、清雲寺、長楽寺には合計6体もの、国の重要文化財に指定された仏像が祀られています。

さらに、大島半島は、無形民俗文化財『ニソの杜』の風習があることでも有名です。

ニソの杜とは、11月23日にこの地域の人々が祭祀を行う場所のことで、かつてこの地区の開発に当たった24家の先祖が祀られているといわれています。祭祀は、杜の中に設置されているお札の入った祠を、海で集めた砂や海藻を撒いて清め、そこにお供え物を置いて祈りを捧げるというもの。

祭祀の日以外の杜への侵入や木を切ることは禁じられていて、禁忌を犯すとけがや病気をすると言い伝えられているとか。
以前は30か所以上あったのが現在は23か所まで減少していますが、禁忌は今も変わらず守られているそうです。

はまかぜ交流センター し~まいる・大島公民館
福井県大飯郡おおい町大島90-27
http://www.town.ohi.fukui.jp/1003/63/p10126.html

3割が漁師!若手も多く活気ある大島の漁業界【大島漁業協同組合】

次は漁協に行って、昔からここで生活されている方にお話を聞いてみることに。
お話してくださったのは、大島漁業協同組合の屋敷憲治やしきけんじさんです。

屋敷憲治やしきけんじさん

寺井隊長「今は本島に通ずる橋やトンネルがありますが、なかった頃の大島半島って、どういう暮らしだったんですか?」

屋敷さん「私が子供の頃は、本島とは分断されていたので、本当に辺境でした。
京都の伊根町のように、海岸沿いに茅葺屋根の舟屋がならんでいて、交通手段は、自転車か船しかなかったです。
車が走っているのを見た記憶がありません。消防車もリヤカーでした。

基本的に半島の外には出ないので、大島の住民同士での結婚も多かったです。
結婚相手は、親が決めるみたいな文化も少し残っていました。
通りにはお店もほとんどなかったですし、みんな半農半漁で生活していました。
大島に無いものは、たまに定期船で本島に買いに行っていたと思います」

衝撃的です...! 
昭和初期とか戦前の話ではなく、ほんの数十年前の話です。
本島との距離は数キロしか離れていないのに、これだけ文化が違うなんて驚きました。

若新P「初めて大島を出たときは、どう思いましたか?」

屋敷さん「高校生になって初めて本島に出て行って、カルチャーショックを受けました。
同い年の同級生であっても、大島の人とは考え方が違い、すべてが衝撃でした。
辺境から来たという理由で、ちょっと馬鹿にされたような経験もしましたが、高浜町の内浦、音海、日引といった辺境の集落で暮らす人たちと『辺境交換会』という名の交流会を行ったりもしましたね(笑)」

若新P「橋やトンネルができたことで陸路で本島と繋がって、大島は変わりましたか?」

屋敷さん「生活のすべてが変わりました。
もちろん、大島にも車が走るようになって。発電所については、色んな意見がありますが、長い議論の末に今があるということだけは言えます。
県外から大島に嫁ぐ人も増えましたね」

大川隊員「少子高齢化によって人口は減っていると思うんですけど、この漁協も若い人が多くて活気がある印象です」

屋敷さん「大島の人口は、約800名くらいかと思います。
今すぐ限界集落になるようなスピードでは減っていないと思います。
小学校にも50名ほど生徒がいます」

若新P「なぜそこまで減っていないんですか?」

屋敷さん「それは仕事があるからだと思います。約7割が発電所などでサラリーマンをしていて、約3割が漁師をしています。
人口の割に3割も漁師をしているのは、嶺南の港町の中でも珍しいんじゃないかな。
サラリーマンをしてる7割の人がこの大島に残っていることが、3割もの漁師が残っている理由とも言えると思います。
だって、同級生が出て行った町には残りにくいでしょう。
以前は大島には仕事がなく、9割が出稼ぎに行っていた時もありました。
発電所のリスクと雇用の問題(メリット)は別だと思っています。

それから、ここの漁協は若い人が多いんです。
他の漁協だと60代でも若手と言われるらしいですが、ここでは親子三代にわたって漁師をしている家族もいます。
漁によっては人手が必要なんですが、大島は若い人が多いので、底引き網漁ができるため、それも安定収入に繋がってますね」

若新P「大島は町も景色も綺麗で、レジャー施設もあるから、これから人がいっぱい来そうですけど、もっと観光に力を入れようとしないんですか?」

屋敷さん「漁師の立場からすると、観光客がたくさん来ると、アワビやサザエの密漁が増えて困るんです。
なぜ困るかというと、我々にとってアワビやサザエの漁は、船で漁に出れない時期の大切な収入源だからです」

非常に興味深いお話を聞かせて頂きました!

たしかに漁協の事務所には若い人がたくさんいて活気を感じましたし、年配の方もいい刺激をもらっていると屋敷さんはおっしゃっていました。
若い人が支えるこれから大島が、どのような町になっていくのか楽しみです!

大島漁業協同組合
福井県大飯郡おおい町大島83-3

人間と歴史の複雑さの上に、今がある

少し前までは車も走らず、島の外に出るには連絡船しか手段がなかったという大島。
かなりの辺境かつ限界集落なのでは?と思っていましたが、実際は想像に反してとても活気づいていました。
漁業では若い漁師が活躍し、町のインフラはきちんと整備されていて、街並みも景色も本当に美しいところでした!

しかしその背景には、長い歴史の中で折り重なってきた人間の複雑さみたいなものも感じました。

車も走っていない環境でののんびりとした暮らしは、
発電所などの様々な事業や、トンネルや橋の完成によって激変したことでしょう。
9割が出稼ぎに行っていた時代を経て、今や多くの人がサラリーマンとして大島に残っているという話も印象的でした。一方で、ニソの杜のような伝統を重んじる土地柄はそのまま。

そういった、変化に対して譲れるもの、譲れないものがバランスを取りながら今が成り立っているのではないかと感じます。

大島の方たちは、大きな変化にさらされながら、さまざまな葛藤を乗り越えて暮らしと向き合ってきたのではないでしょうか。
そんな大島の方たちに出会い、“暮らすって何だろう?”と考えるきっかけをもらった発掘調査隊でした。

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