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書評『トランスジェンダーになりたい少女たち』

本稿はKADOKAWAの出版停止や脅迫による書店取り扱い中止などで話題となっている書籍、『トランスジェンダーになりたがる少女たち』の内容面に対する紹介と書評である。

出版停止や書店取り扱い中止に対する論評は既に多く出回っているが、肝心要の本の内容についてくわしい論評はないに等しい。書籍とはテクストの集合体であり、であるからにはテクストに準拠した批評が最も重要であることは論を待たない。本の「内容」を知らずにある本について論じるほど無益かつ不誠実なことはない。

そういう意味でも、中身を読まずして出版停止や書店取り扱いの中止を求めている(主に左派の)人々は己が知的不誠実さを強く恥じるべきだろう。同様に、中身を読みもせず本書を称揚している(主に右派の)人々にも筆者は苛立ちを感じている。テクストに準拠した「噛み合った」議論が生じることを強く願う。本稿がその一助となれば幸いである。


ざっくりと、どんな本なのか

本書はトランスジェンダーになりたがる娘を持った親たちや、トランスジェンダーに対する治療や支援を行う人々、またトランスジェンダー当事者に対するインタビューをもとに、米国におけるトランスジェンダー問題について批判的な立場から論評を試みる書籍である。

特にここ20年ほどのアメリカ合衆国におけるトランスジェンダー問題を中心として扱っており、なぜこの現象が極めて注目されるに至ったのか、また「トランスジェンダー」であると考える当事者がどのくらいのペースで増え続けているのか、この問題に学校や政府やセラピストはどう対処しているのかなどについて具体的な数字を挙げながら論評している。トランス当事者でなくとも米国の社会情勢を研究する目的で本書を手に取るなら一定の意義があると言えるだろう。

ただしインタビューの対象が主に「保護者」であることには注意が必要かもしれない。娘を持つ母親、トランス治療に批判的な医師や心理師などは数多く出てくるが、インタビューの対象となった200人余りの中で10代のトランス当事者は数人のみである。多くのトランス関係の書籍が当事者の語り中心の構成で作られていることと正反対のスタンスを取っていると言える。

通読すればわかるが、本書の想定読者は明らかに「娘を持つ母親たち」であり、そうした親たちに向けて「娘をトンラスジェンダーにしない(性別移行のための不可逆的処置を行わせない)ためにどうすれば良いか」を伝えるというスタンスを本書は堅持している。

性別違和について悩んでいる当事者向けの書籍ではない、という前提はおそらく知っていた方がいいだろう。後述するように当事者にとって有益と思われる知見も一部書いてあることはあるのだが、当事者の意志を「子供の気の迷い」的に軽視する傾向は強く有しており、端的に言って当事者が読んで気分が良くなる本でないことは確かである。


具体的にどんなことを主張している本なのか

本書の主張はかなり多岐に渡るのだが、核心的主張は以下の3つに絞ることができるだろう。

1.トランスジェンダーは「社会的な伝染性」を有しており、それはSNS、YouTubeチャンネル、学校の授業、子供の友人関係などを通じて、性別違和を持っていなかった子供を洗脳する。

2.性別移行のための外科的な処置を受けても、多くの場合トランスジェンダーは回復しない。トランスジェンダーの原因はSNSなどを通じた「感染」や、思春期特有の不安定さや、(性別違和以外の)精神疾患や発達障害であり、外科的処置やホルモン治療はむしろ当事者の健康を危険に晒す。

3.そうした子供たちを救うにあたって、セラピストや学校はなんの役にも立たない。むしろ子供に対しホルモン治療や外科的処置を煽り、さらに危険な状態に立たせてしまう。子供を救うためには親の積極的役割が死活的に重要である。

以下、順番にこれらの主張について検討していこう。


「トランスジェンダーは社会的な感染性を有している」

著者のアビゲイル・シュライアーによれば、昨今米国で増えているトランスジェンダーのほとんどは社会的な感染性によって引き起こされた「偽物の」トランスジェンダーである。

「本物のトランスジェンダー」はごく少数いるものの数は極めて少なく、「本物」は幼少期より性別違和に苦しんでおり「偽物」は思春期以降に性別違和に苦しむことから判別は容易なのだという。

社会的な感染を引き起こしているのは、シュライアーによれば「ジェンダーイデオロギー」「インフルエンサーやSNS」「イデオロギーに染まった政府や学校」「それらの影響を受けた子供の友人」などである。トランスジェンダーになりたがる少女は上位中流階級の裕福で成績優秀な白人女子に集中しており、この層はリベラルなイデオロギーの影響を受けやすく、また白人というマジョリティであることの後ろめたさから逃れるため(マイノリティとしてのアイデンティティを得るため)にLGBTになりたがる傾向を強く有しているとシュライアーは主張している。

なるほど確かに、精神疾患や精神障害は一種の社会的感染性を有していると言えるかもしれない。日本でもここ10年ほど「発達障害」という概念が野火のように広まっているが、これも一種の社会的感染性と言えるだろう。虫歯や骨折や胃潰瘍が「社会的に感染」することは考えられないが、精神医学的な概念は精神疾患が文化や社会によって規定される性質を持つことからある種の社会性を有している。この点で、シュライアーの主張は一定の妥当性を有していると言えよう。

日本でもかつて「AC」(アダルトチルドレン)や「境界性人格障害」などが一種のブーム化したことがある。またリストカットのような行動が書籍やインターネットや少女間の噂話から「流行」したことも確かにある。米国におけるトランスジェンダーの急増も、それらと同様の社会的な流行という面を持つことは確かに一面の事実ではある。

ただし、「本物のトランスジェンダー」と「偽物のトランスジェンダー」を容易に識別可能であるというシュライアーの見解は相当に疑わしいと言わざるを得ない

シュライアーによれば「本物」は幼少期より性別違和を抱えており、それ以外は全てSNSや活動家などに洗脳された「偽物」だということなのだが、そうした主張の根拠は極めて脆弱である。シュライアーはDSM-4以前の古い診断基準を持ち出してそうした主張の裏付けとしているのだが、なぜ古い診断基準こそが正しく、なぜ現行の診断基準が誤りなのか、シュライアーが十分な根拠を持って論じているとは自分には思われなかった。

同様の現象は日本でよく知られている発達障害にも存在する。かつては幼少期から特徴を示す当事者のみが「本物」の発達障害でそれ以外は違う、という理解もあったのだが、昨今では大人になってから発達障害と診断される当事者も増えており、そうした人々も支援の対象となっている。

そもそも精神疾患とは血液検査やレントゲンやCTなどで診断を下すことができない(=身体的マーカーによって診断できない)疾患の総称という面があり、それぞれの精神疾患に本質的かつ揺るぎない定義が存在すると考える見方は現在の主流からは外れている。当事者の苦痛を緩和しQOLを向上させるひとつの手段としてDSMなどの操作的診断基準が用いられているのであり、古い操作的診断基準を持ち出して当事者の苦痛の訴えを退けるというのは支援のあり方として根本的な倒錯を引き起こしていると言わざるを得ない。

精神疾患が一種の社会的感染性を有しており、時代ごとの「流行」があることは確かだとは言えども、だからと言って当事者の苦痛の訴えを頭から否定するのは乱暴に過ぎる考え方だろう。シュライアーの問題意識は理解できなくもないのだが、「本物」と「偽物」を容易に峻別可能と見做す考え方には妥当性がないことは強調しておこう。


「ホルモン治療を受けてもトランスジェンダーは改善しない」

著者のシュライアーによれば、昨今の米国のセラピストは性別違和を訴える当事者をあまりに容易にトランス医療(ホルモン治療や性別適合手術)に誘導し、「不可逆的な損傷」を与えているのだと言う。

2010年のオバマケアによってトランス医療が保険適用となり、ホルモン治療や性別適合手術が極めて安価に行えるようになった。児童のトランス医療を大学や支援団体がサポートすることも相まって、ホルモン治療や性別適合手術に踏み切る当事者は増加の一途を辿っている。しかしそうした治療は当事者利益にまったく結びついていないとシュライアーは主張する。

性別移行を望む少女は、そもそもが思春期特有の心理的揺らぎや、うつ病や不安障害などの性別違和とは異なる精神疾患に苦しんでいるのであり、ホルモン治療や性別適合手術を行ったところで少女たちは回復するどころかさらに追い詰められるだけだ、と言うのである。従って、性別違和を訴える少女たちにトランス医療を提供しても、彼女たちをさらに苦しめ不可逆的な損傷を与えるだけでなんの肯定的な意義もない、と本書は一貫して主張している。

なるほど、シュライアーの主張には一定程度頷ける点がなくもない。特にトランス医療のもたらす「不可逆的な損傷」について、当事者の語り中心の既存のトランス関連書籍はあまり雄弁に語ってはこなかった。ちなみに本書の原題「Irreversible Damage」はそのまま「不可逆的な損傷」という意味である。未成年の少女がトランス医療を通じて多くを(女性らしい身体付きや、豊かな乳房や、女性らしい声や、子供を作れる子宮などを)失うことをシュライアーは何よりも恐れているようである。

シュライアーのそうした見解が「娘を持つ母親」としての氏の背景から生じていることは確かであろうと思える。そうした意味で、確かに本書は典型的な「トランスヘイト」とはやや趣を異にしている。シュライアーの母性的な愛情を文間から感じることは確かなのだ。もちろん、それはまたの名を「一方的な押しつけがましいおせっかい」とも言うのだが…。

さて、シュライアーのこうした見解はどの程度の妥当性を有しているのだろうか。確かに性別違和を抱える当事者の多く、いやほとんどが、性別違和以外の精神的な問題を抱えていることは確かである。精神疾患や発達障害やトラウマなどの問題を持たない当事者の方がむしろ例外的だろう。

そうした当事者が、自分の問題の全てを「性別違和」由来であると考えてしまいがちなのも事実である。「性別移行に成功すればすべて解決する!」と短絡的に考えて、性別移行のために私生活全てを投げ打ってしまうというのも未成年者に限らずトランス界隈ではしばしば見られる現象だ。

そうした意味で、性別違和を抱える当事者をすぐさまトランスジェンダーと決めつけるのではなく、時間をかけて当事者の内省を深めることを支援するのは妥当な方法だろう(そうした立場のセラピストは第7章に登場する)。確かにホルモン治療にせよ性別適合手術にせよ、後戻りが許されない処置であるのは確かだからだ。時間をかけた慎重な判断が必要だし、支援者はトランスだと安易に決めつけたり性別移行に誘導するのではなく、当事者の自発的な内省が深まるのを時間をかけて促さなければならない。

しかし、ここでもまた問題となるのが、先述の「本物のトランスジェンダー」と「偽物のトランスジェンダー」は容易に識別可能であるというシュライアーの見解である。

シュライアーは「時間をかけて子供を支援すべきだ」という立場を一見取っているようで、実のところ全く取っていない。シュライアーからすれば子供が「本物」のトランスであるか「偽物」のトランスであるかは明白なのだ。そして「本物」のトランスは人口の0.01%以下しかいないというのがシュライアーの見解である以上、「目につくトランスは基本的にすべて偽物だ」というのがシュライアーの正直な本音のようなのである。

実際シュライアーはどう見ても「子供の内省を深める」ことではなく「子供をトランスではないと決めつける」ことを促している。詳しくは次項で説明するが、性別違和を抱える少女の親に対するシュライアーの処方箋は衝撃的なものだ。本書の本当の危険性はそこにある。巷で叫ばれている「トランスヘイト」という評価はやや的外れなのである。

とは言え、トランス医療がもたらす不可逆的な損傷や、思春期心性や、性別違和以外の精神疾患が「自分はトランスではないか」と考える契機になるうるというのは重要な指摘ではある。だいたい7章から10章にかけてそうした論点について焦点が当てられ、10章ではディトランディション(再性転換)した当事者の話なども紹介される。

読んでいて不愉快であろうし推奨もしないが、7章から10章にかけての内容だけでも頭に入れておくことは当事者が判断を深める役に立つかもしれない。まぁトランス医療の不可逆性などほぼ全ての当事者が熟知しているし深く悩んでいることでもあろうから、ことさらに脅しつける意義がそれほど大きいとはあまり思わないというのが正直なところであるのだが。


「子供をジェンダー・イデオロギーから救うためには親の積極的役割が重要だ」

以上、本書の事実命題については解説しおわった。以降は規範的な部分。つまり「このような状況を前に親はどうするべきか」という部分である。

そして本書の最もショッキングな点がここである。この箇所にこそシュライアーの主張の異常さが凝縮されている。「トランスジェンダーの社会的な感染性」や「トランス医療の不可逆性や他の精神疾患や思春期心性の影響」については首肯しうる点も含まれていたのだが、この主張については100%全力で否定する以外の選択肢はないと感じる。

ここまでは先入観なく本書の内容を知ってほしいという執筆意図から筆致を抑えて記事を書いていたが、ここから先は筆者も本音ベースでに文章を書かせてもらおう。率直に言って『トランスジェンダーになりたい少女たち』という本は、激ヤバ級の毒親

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週に1-2回程度更新。主な執筆ジャンルはジェンダー、メンタルヘルス、異常者の生態、婚活、恋愛、オタクなど。

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