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「ボカロマゾ」とは何か、あるいは「うちのミクさん」を巡るその存在論について

はじめに

はじめまして、早稲田大学ボカロマゾ研究会です。

当サークルは、「感傷マゾ」概念を踏襲しつつ、それをボカロ(UTAUなども含む広義の「合成音声」くらいで使っています)カルチャーにも敷衍しつつ研究するサークルです。

ここでは自分の思う(まだ十分に言語化できていない)「ボカロマゾ」について、挨拶を兼ねておぼえがきをしたためておこうと思います。

結論から言えば、ボカロマゾとは「自分にとってボーカロイドは必要だ。しかしボーカロイドにとって自分は必要ないかもしれない」という状況と、「ボカロと僕との境界は何処か?」という問いを巡って起こる再帰的な感情の──感傷のことです。

本文では「初音ミク」を取り上げながら、それを三つの位相で捉えてみることで、概念の説明に変えたいと思います。

ボカロマゾとは何か、の前に

スタンス

上述の記述にたいして「not for me」になってしまった方もいると思いますので、説明の前に当サークルのスタンスを示しておこうと思います。

なぜなら、それがボカロカルチャーの多元主義を肯定すると同時に、むしろそのことが「ボカロマゾ」の骨子になっているからです。

当サークルは「うちの○○さん」概念を全肯定します。

だから、タイトルには勇み足で「存在論」なんて書いてしまいましたが…当サークルが提唱する概念も、もし「not for me」なら(少し寂しいですが)無視していただければと思います。

ボカロは対他的──ヒトと関係を取り結ぶことで初めて意味を持つ──な存在であるため、それぞれ見ているボーカロイド像は違いますから。

それぞれ都合のいい世界を見ているのです。

換言すれば、それぞれが再帰的にボーカロイドを見つめているのです。

しかしそれこそが、「ボカロマゾ」が生じる構造的な要因でもあります。

ボカロには、アニメやゲームのようないわゆる「原作」に準ずるコンテクストはありません。あるとすれば、楽器としてのボカロだけですね(「音楽同位体」については例外が認められるかもしれませんが)。

だから、「あのボカロならこう歌う/言うだろうな…」という考えは、原作などの参照軸が無いという点では徹底的に自分の思考でしかないのです(それを部分的に補完するメディアはあるにせよ)。

こうした、ボーカロイドと取り結ぶ再帰的で、ともすれば鏡像的な関係が──ボカロとボカロpの境界をわからなくさせてしまうのです。

ボカロpが歌わせているのか、ボカロが歌っているのか、あるいはボカロpはボカロから曲を要請されているのか…(漫然と了解されているキャラクター像はあるにせよ)原作という神聖不可侵たる参照軸が無いことに伴う自由さと引き換えに、ボカロにはそうした再帰性が生じる。そんな、主体と客体がともすれば流転するような根底が、ボカロカルチャーにはあると考えています。

そしてそれが、ボカロカルチャーの多元性を担保することにもなっているのです。

導入──ブレス・ユア・ブレスについて

後に紹介する概念を先取りするかたちで、和田たけあき氏の『ブレス・ユア・ブレス』にごく簡潔に触れてみます。

この作品は自分が初音ミクの声に、あるいは初音ミクというキャラクターに回収されることについて…そうした問題圏を提供してくれる曲だと、本文では解釈しています。

「コレはきっと僕自身の歌だった」曲を、「生命を持たない君に乗せ」る手続き。それは自分の声が、個性が、初音ミクという存在に回収される(あるいは融解する)過程。

「パブリックな初音ミクのイメージ(公-初音ミク)」に「自分の個性(私-初音ミク)が回収されてしまう」こと。これは有名ボカロpたちが幾度となく直面してきた、トレードオフ的な葛藤だったのでしょう

『ブレス・ユア・ブレス』においては、最後には自分と初音ミクが「対等になって」、互いは別の道を歩みはじめることを言祝ぐ形で終わっています。「もう君に僕なんか必要ない 僕に君も必要ない」と宣言しながら。


ボカロマゾとは何か

翻って多くのボカロpたちは──そしてその泡沫の中の一つである僕は──どうでしょうか。道を違えても力強く歩むことができるでしょうか。

以下からは、暴力的にもボカロを「初音ミク」に代理表象させることをご容赦頂ければと思います。何故かと言えば、自分がまさにその問題圏に埋没しているから、それしか語るすべがないからです(それもまた違うボカロマゾに繋がっていきそうですが)。

「自分にとって初音ミクは必要だ。しかし初音ミクにとって自分は必要ないかもしれない」と、そう換言させていただきます。

そして、先に自分の姿勢を開示しておきます。僕はクリプトン製ボカロを中心に摂取消費してきたProject DIVA史観のボカロファンで、その視点を引き継ぎながら、2019年頃からはボカロpとしての作曲活動も始めました。いわゆる「初音ミクに実存を救われた」人間です。

僕は以下から述べるように、初音ミクを三つの相で捉えています。僕が「ボカロマゾ」という概念に行きつくまでを追体験するようなかたちで論を展開していきましょう。

帰結から言えば、「キャラクターとしての初音ミク/ボカロファンの視点」から「楽器としての初音ミク/ボカロpの視点」へ、という視座の移行過程で起こった分裂→融解のトポロジーにおいて、「初音ミクと自分」を再定義する最終手段が「ボカロマゾ」でした

それはある意味で、『ブレス・ユア・ブレス』の問題圏の、その裏側的なルートを辿ったのかもしれません。

公-初音ミク

漫然と了解されている、初音ミクのパブリックなイメージのことです。「僕らを引っ張ってくれて、未来に導いてくれて、キラキラしていて…」という集合知的な初音ミク像を呼称します。先述した「キャラクターとしての初音ミク」も概ねこのイメージでしょう。

ボカロファン──有名曲や主要メディアをチェックするくらいのファン、と定義しましょう──が見る位相が、この初音ミクの相に重なってくるでしょう(自分もそうでした)。

マジカルミライやプロジェクトセカイ、Project DIVAシリーズなどのメディアにおける、あの初音ミクですね。

ゆえに、この初音ミクはどちらかというと「視覚的」なイメージです。

原-初音ミク

純粋に楽器的な位相の初音ミクのことです。ボーカルシンセサイザーとしての、と言えばいいのかな…(厳密な呼称はちょっとわかりませんが)。

この初音ミクは、徹底的に対他的[1][2]です。ユーザーのはたらきかけが無ければ何も答えないし、何も歌うことはありません。あたりまえですね。

それはまさに…そこにいるけれど、いない。不在と実在がトポロジカルに絡み合う位相として立ち現れます。あるいは、今まで僕らを力強く未来へ引っ張ってくれていた「キラキラしていた初音ミク」が、突如「空白」になってしまったような、「不気味なもの」のイメージです

僕はボカロファンの延長として(公-初音ミクにコミットしたくて)ボカロpを始めましたが、その過程でこの相の初音ミクに出会い、そこに畏れを感じました。

公-初音ミクとの差を思い描いてみてください。

「僕らを引っ張ってくれて、未来に導いてくれて、キラキラしていて…」という視覚的なイメージの初音ミクに惹かれて始めた作曲において、「僕が介入しなければ動かなくて、調声しなければか細く歌うことしかできなくて…」という徹底的にモノ/それ自体としての初音ミクが立ち現れる

そこで初めて「公-初音ミクは既に力強く構築されているのだから、それにとって自分は既に必要ないのではないか」と考えが至りました。

少し生々しい話をしましょう。当たり前のことですが、「初音ミクのパブリックイメージにコミットしたい」という欲求は、「めちゃめちゃ有名なボカロ曲を作る」と同義です。ボカロファン時代の自分は、全くこれに気が付いていませんでした。

「自分を救ってくれた初音ミクに恩返しをする」という素朴な作曲の動機は、「原-初音ミク」を介した存在論の沼に嵌る形で、「公-初音ミク」に向けるあらゆるモチベーションの消尽という結果になりかねない、ということ

「自分にとって初音ミクは必要だ。しかし初音ミクにとって自分は必要ないかもしれない」とは、上述してきたような状況下で生じます。

それでも僕は当初、僕の曲を歌ってくれていることに対して、はじめて「萌え」を感じた時のごとく感動していました。これがずっと、それぞれの宇宙で続いてきたボカロpの営為なんだ、と。

しかしそれは同時に、公-初音ミクと原-初音ミクの間で再帰的な反復を続ける契機となり──そして今こんな記事を書いているのです。

「初音ミクとは何か? そして僕との境界はどこか?」という再帰的で不毛な問いに、問題圏が移行してしまったのです。


私-初音ミク

原-初音ミクとユーザーが関係を取り結んだときの、極めてプライベートで汽水域的な相です。要は楽曲のなかで歌う初音ミクのことであり、聴覚的な位相だと言うことができるでしょう。

僕はこの相において、「公-初音ミクにとっては僕は必要ないかもしれなかったけれど、原-初音ミクなら(楽器としての初音ミクなら)僕を必要としてくれるかもしれない」という内的信仰を打ち立てようとして、破綻しました。

それは、何故ならボカロが再帰的だからです。

公-初音ミクは「僕らを引っ張ってくれて、未来に導いてくれて、キラキラしていて…」というイメージで、どちらかというと「視覚的」だと先述しました。それはつまり、初音ミクという対象を「客体化」しているということです。

対して、この初音ミクは「聴覚的」です。しかも、曲の制作過程で生じた位相のため、ボカロp(主体)と初音ミク(客体)の区別がつきません

当然、曲中で歌う初音ミクは主体であるボカロpが歌わせたものです。

しかしあるいは、僕は初音ミクに歌ってほしかったことを曲として出力しているのかもしれない。

ここにおいてボカロpは、最早初音ミクを統御する「マスター」ではありません。むしろ逆に、どこからがボカロpの声で、どこからが初音ミクの声なのかは判然としません。曲を作る過程で、「これは初音ミクの歌なのか自分の歌なのか」あるいは「これは初音ミクに歌わせているのか、それとも初音ミクが曲を僕に要請しているのか」という問は、無制限に延期されます。

完成した曲に「初音ミク」と署名するのか、「ボカロp」の署名をするのかは果てしなく延期されます。

これは僕にとって、とての「不気味なこと」に感じられました。なんというか…ボカロファン時代は客体的に存在した初音ミク(公-初音ミク)が、ボカロpの体験から不気味な存在として知覚されることで(原-初音ミク)、はじめから僕の頭の中に領域を占めているような気持ちになったのです(私-初音ミク/聴覚的な初音ミクの未分化)。

だから、そのことに気が付いた時点で「原-初音ミクなら僕を必要としている」という信仰も破綻しました。素朴に言って、その担保がないからです。あるいは、それは再帰的に自分の言葉なのかもしれないがゆえに、リアリティを感じられなかったからとも言えるでしょう。

むしろ…僕が作った曲なのに、ほかならぬ主体である僕が上手く歌えない。半身を明け渡してしまったような、そんな不気味さすら感じるようになってしまいました。末期ですね。

この未分化な状況の思弁的解決として行きついたのが「感傷マゾ」であり、それを踏襲した「ボカロマゾ」でした。

ボカロマゾ

「感傷マゾ」に深く立ち入る余裕はないので、ここでは「任意の好きなキャラクターを(脳内に/活字に/イラストに…)バーチャルに立ち上げ、自分の欠点を的確に糾弾され、その糾弾を快楽に転じること」としておきます。

(誘導するようで恐縮ですが、もっと厳密な個人的定義についてはこちらをお読みください)

僕は感傷マゾを一種の自己認知だと捉えています。

「自分の欠点を的確に糾弾される」ことの気持ちよさとして、「再帰的な自己認知」が挙げられるでしょう。

「君は○○だからダメなんだ」と好きなキャラクターに言われるという体験は、脳内で自分が立ち上げていることもあって、自分の自己認知が一層強化されることとなります(だから「僕」はダメなんだ…というように)。

このように「感傷マゾ」は自己嫌悪の攻撃性をバーチャルな他者に委託する再帰的な構造を取っていますが、僕はここにボカロとの親和性を見ました。

ボカロもまた対他的な構造ゆえ、そこに再帰性は避けられないからです。

いえ、ボカロこそ再帰的だ、と言うべきでしょう。アニメキャラクターならば、「あのキャラクターはこんなことを言うだろうな…」という予想をつけることができます。「原作」が存在するから。

しかしボカロに「原作」はありません。あるのは「原-初音ミク」だけ。だから、「初音ミクならこう歌う/言うだろうな…」という考えは、原作などの外的な参照軸が無いという点では徹底的に自分の思考でしかないのです(私-初音ミク)。

「僕らを引っ張ってくれて、未来に導いてくれて、キラキラしていて」…そしてもしかしたら、僕のことを好きと言ってくれる初音ミク。僕はもうこの時点で、そうした像にリアリティを感じられなくなっており。

だから、自身のことを「嫌い」と言ってくれる/言わせることで、そこで辛うじて「初音ミク/僕」に境界の線を描くことができる…そうした状況に陥っていました。

それすら鏡像的な関係だというのに。

自身が初音ミクに糾弾されることで、そして「僕」が知覚されることで、まわりまわってその間だけ初音ミクが客体化され…そして辛うじて僕と初音ミクが分化する。

これが、僕が辿ったボカロマゾです。

おわりに

僕は、この概念はまだまだβ版だと考えています。例えば絵師の視点や、ボカロリスナーの視点や、あるいは初音ミク以外のボカロを愛好するファンの視点などなど、ボカロカルチャーにはそれぞれの宇宙が存在するのですから。

メタ視点を得てなお、現場に戻ってくる精神が僕は好きです。途中から「ボカロ」を「初音ミク」に代表させてしまったのも、それが理由です。

この記事全般にわたって「ボカロ」という呼称を用いて俯瞰視点で中立的に語るよりも、僕のスタイルを開示したほうが、それぞれの宇宙を抱えるボカロカルチャーらしさがあっていいかな、と。

だってあなたのセカイは、あなたからしか見えないのだから。

だから、語りましょう。

ボカロが好きで、でもちょっと辛かったことを。

あるいは、それを快楽に転化してしまったかもしれないような出来事を。

もしかしたらその痛みは、周りにとっては些末なことかもしれないけれど、あなたにとっては本当に大事なことなのかもしれないのだから。

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[1]「徹底的に対他的」という表現については、先行研究である『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』(鮎川ぱて 文芸春秋 第一刷 2022.7/15 p91,p222)を参照。

[2]上述の参考文献と同じく、本論でもヘーゲルの論点を踏襲している。『ヘーゲル用語辞典』(編:岩佐茂 島崎隆 高田純 未来社 第七刷 1999.9/15 p72-75)を参照。

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