辻愛沙子さんのヤバい記事を「学を感じない」と批判したら「(私に言うな)記者に言え」と反論された話


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(株)arca代表 辻愛沙子 ”社会派クリエイティブ"とは

辻愛沙子さんは広告代理店アルカのCEOであり、またクリエイティブディレクターとして活躍している。特にフェミニズムや社会活動に取り組む「社会派クリエイティブ」を自負。日本テレビ『news zero』にレギュラー出演し、若者からの支持を集めTwitterフォロワー数は6.8万人である。(画像はTwitterから引用)

広告の仕事では『明治 エッセルスーパーカップ』のCMなど、お茶の間に流れる広告も担当している。なお、このご時世に口をつけた金色のスプーンを交換する表現があるため「河村市長を予見していた」という先進的クリエイティブを評価する声もある。(ジョーク)

また広告のみでなく、各種メディアでも活躍しており、最近ではオリンピックを批判するインタビュー記事も話題を呼んだ。

そして問題はここからである。

西武渋谷店にオープンした新型ストア「CHOOSEBASE」におけるコンセプトとクリエイティブを辻愛沙子さんが担当したのである。

「客層=多様性」「そごう西武との連帯」「西武グループはダイバーシティ」(?)

Twitter上で問題となった、辻愛沙子さんが「CHOOSEBASE」についてインタビュー形式でコンセプトを語るWWDの記事がこれである。
(長いので注意)

一読目ははっきり言って、何を言ってるのかまるでわからなかった。

私はフェミニズムとマーケティングについて一般人より多少は馴染みがあるため、この記事で使われている関係する専門用語の意味をだいたい把握している。それゆえに、この記事には強烈な違和感を覚えた。

”トンマナによるカテゴライズ”

”ペルソナ”

”パーパス(PURPOSE)を軸にして、ブランドや生活者、メディア、KOL(インフルエンサー)などが集う場所”

”ブランド同士の連帯”

“PURPOSEHOOD”(目的意識による連帯)

”ダイバーシティー”

なるほど、非常に進歩的かつマーケティング意識大量である。
もちろん私はリベラルのにおいが強いからとか、リベラルとマーケティングを混ぜたら欺瞞だとか、それだけで批判するつもりはない。
問題はあくまでも「クオリティ」(質)、つまり何をどのように語っているかだろう。

そこで、WWDの記事を細かく読み進めながら、違和感を列挙してみた。(連続ツイート)

以上が私の感想である。
これを辻愛沙子さんにリプライしたところ、このような返答を得た。

「文章を書いてる記者さんに言ってくれませんかね…」

事前確認なしで記事が配信されることはしばしばある。
それ自体は仕方ない、業界の慣習である。
配信された記事と、インタビューで答えた内容が多少異なることも、当然あるだろう。
しかし自身の名前を冠する記事に寄せられた批判に対して「(私ではなく)記者に言ってくれ」と発言する人物を、私は初めて見た。

当たり前のことであるが、配信内容とインタビューで答えた内容の食い違いについて、読者にその責任はない。公開されている記事について批判的な意見を表明することは、いたって健全な知的仕事である。

読者は「当然ですが」と強気で言われても困るのである。
ハッキリ言って会話が噛み合っていない。
辻愛沙子さんは、いったい何を説明しようとしているのだろうか?
あるいは、なぜこれを説明しようと思ったのだろうか?
私には到底理解できないでいる。

フェミニズムとマーケティングの危険な出会い

極めて浅はかなフェミニズム用語の濫用について、ごく最近こんなことがあった。雑誌『anan』の表紙を見ると、グラビア写真と「ボディポジティブでいこう!」というキャッチコピーが並んでいる。

「ボディポジティブ」とは、画一的な基準で”美しい体型”を捉えるのではなく、太っていることや痩せていること、色や形など様々な体型をそのまま個性として認めるべきというムーブメントである。

この用語の意味を知り、ムーブメントの背景にある議論を知っているならば、さきほどの『anan』の表紙に違和感を覚えるだろう。

言語化するならば、なんとも非常に説明しづらい「軽薄さ」である。たしかに、この表紙に写っている女性個人が自らにポジティブであるなら、それはそうなのだが、雑誌の表紙としてグラビアとセットになると、その意味はムーブメントの正の部分を無効化してしまうような、濫用の危険性を生むだろう。

別に極端にリベラルな意見を表明したいのではない。表現を規制すべきというわけでもない。

太っている人を「デブ」などと蔑視するような社会よりはそういう蔑視のない世界の方がいいだろう、というくらいの感覚は多くの人が共通して持っているだろう。また肌の色や体のパーツについても差別的視線があるよりは、無い方がいいと思っている人が、このnote読者の大半だと私は思っている。「ボディポジティブ」というムーブメントは、そのような広く通底する価値観を推し進めるための標語のようなものである。だから、「ボディポジティブ」という言葉がありがちなグラビア写真とセットで濫用された場合、その推進力を衰えさせる危険性がある。

用語のカジュアルな使用が絶対に悪いということはない。例えば「SDGs」などの用語はむしろ普及用に作られたものだろうし、普及することで意識が向きやすくなることが期待されるだろう。要するに、ケースバイケースである。

だが、辻愛沙子さんインタビュー記事から感じるのは「危険性」の方である。

特に「マーケティング」の概念や体系は今後、必ずもっと拡大していくだろう。私はそう確信している。それだけに人権を取り扱うフェミニズムに関連する用語がこれほど軽薄に、マーケティング用語らしい感覚で使用されたことに、不安を感じるのである。

「客層」と「多様性」はイコールで結ばれるべきではないし、そごう西武グループが統廃合を繰り返したからといって「ダイバーシティ」と評価されるべきではない。百貨店がテーマに合わせてブランドの服やシャンプーを店に並べることを「連帯」として語ることも、あってはならない。

これらはすべて、元の用語が持っている効果を萎えさせる濫用である。

「必殺技は存在しない」という個人的主張

例えば、悪質な朝日新聞の誤報レベルならば辻愛沙子さんも被害者である。

もしもWWDが朝日新聞みたいな悪質なメディアだったら、酷く低質で浅はかな内容の記事をまき散らしているメディアの責任を、私も問うだろう。

しかし過去にこのようなやり取りを見ているため、私は辻愛沙子さんをあまり信用できないでいる。

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東さんの「広告関係の人は入れ物をきれいに作ることばかり考えている気がする」という意見に対して、辻愛沙子さんは「ルッキズムと同様の蔑視を感じる」と主張しているが、まさか「ルッキズム」というような、人を外見で差別する人権侵害にかかわる価値観と「入れ物ばかりきれいに作ろうとする」という意見が、等価であるはずがない。

ここでは対立する広告業への見解の是非は置いておく。問題は、どのように解釈しても人権にかかわる議論になり得ない意見に対して、人権侵害の文脈にある「差別主義者」(ルッキズム)と近似するレッテルを貼るべきではない、ということだ。

フェミニズムにおける強い概念を、"必殺技"のように振り回してはいけない。

意見の対立や見解の相違は、議論して成長するための栄養である。みんなで頭を悩ますことに価値がある。論敵と社会的課題は等しい存在だ。「物を売って金を稼ぐという本質的で逃れられない業を、どうやって社会を良くする方向に向けられるか」。このような難題に「はいはい!以上、完。」となる強い概念を適当にあてはめて解決してはいけない。難題を一気に解決したり、敵を論破しようとするあまりに、強い概念を振り回して濫用することは実りを少なくし、土地を枯らすことに繋がってしまうだろう。

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