生きる意味を探すな

絶対的な生きる意味などない

生きる意味なんて探したところで絶対的なものが見つかるはずもありません。

そもそも意味とは言葉や行動などの記号について後付けで説明する概念です。意識の上で生きる意味を見出すとき、所詮は生きるという行為について後付けで意味を造り出しているに過ぎません。後付けだから自身を取り巻く環境次第でその意味は変化します。

例えば、
それまでパートナーを支えることを生きる意味にしていた人が、子供が生まれたら生きる意味が子供を守ることに変化する。
プロ野球選手になることを生きる意味にしていた人が、ケガをしたためにプロ野球選手になれずに生きる意味を見失う。

など、その時々により生きる意味が変化したり、生きる意味を見失ったりすることがあります。
しかし、たとえ生きる意味が変化したりなくなったりしたとしても人間は生存できます。それは、生きている状態が先にあって、そこに意味を見出す作業は後発的なものだからです。


人間が生きる意味を求める理由

ではなぜ人間は生きる意味を求めてしまうんでしょうか。
それは人間が群れで生活する生き物であることに起因します。
人間は集団で生活するうえで他者との関係の中に自分の身を置きたがるのです。ここでいう他者とは人間だけでなく動植物や生き物ではない事物や存在も含みます。

人間は他者との関係の中で生きています。他者と全く関わりを持たずに生きることができる人間はいません。生まれた時から家族という関係の中に身を置きますし、成長する過程で多くの人との出会いがあります。
また、人間は生きていくうえで道具を活用します。現代であればスマートフォンや車などありますがその他挙げればきりがないですね。そうした道具との関係の中にも人間は身を置いています。
あとはペットを飼っていればペットとの関係もありますし、家庭菜園をされている方は植物との関係もあるでしょう。
ぱっと思い浮かぶだけでも人間は数多くの他者との関係の中で生きていることがわかります。

言い換えれば、人間は生きていくうえで多くの他者と関係を結んでいくことになります。

そんな関係性の中に身を置く人間が生きる意味を求めるのは他者と強固な関係を結んでいるかどうかを確認したいからです。
人間は他者と関係を結ぶ生き物ですから本能的に他者とうまく関係を結べているか不安になるようにできているのです。その本能的な不安が後付けで言語化されたものが「生きる意味」と呼ばれるものになります。
人間はなぜ生きる意味を求めてしまうのか。
それは、人間は他者と関係を結びその関係性の中で生きていく生き物なので、その関係性の構築のため、言語による「生きる意味」という形で求めるということです。


人生をただ楽しむということ

人間が生きる意味を求める理由について考察してきましたが、本能的に求めるようにできているということです。
ですが、生きる意味を言語で意識的に探すのはおすすめできません。生きる意味を言語で考えると結局は後付けになりそれをなくしたり見失ったりする羽目になります。

他人の目を気にすることなく人生をただ楽しむことに専念する、それでいいのです。自分が楽しいと思うことを続ければおのずと他者との関係は構築できるでしょう。ゲームをするのが楽しいのであればゲームという存在との関係が結ばれていくといった具合にです。
そうして強固な関係性の中に自分の身を置くことができれば生きる意味を見失うリスクは軽減されるでしょう。


長々と書いてしまいましたが、とにかく自分が楽しいと思うことをひたすら楽しむことが結果として生きる意味になるということです。
生きる意味を見失ったら、抱えているものをすべてほっぽり出してとことん怠けて楽しいと思えることをするのがおすすめですよ。


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