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【キリスト教】聖金曜日 主の受難

 三月四月、復活祭を控える四旬節の頃になると毎年のmy routineのようにするのはJ.S.バッハのマタイ受難曲を幾度となく聴くこと。
 しかし、今年は未だ一度しか聴いていないので、聖金曜日の過ぎたこれからまた聴こうと思います。
 しかし今年の聖週間に教会で朗読される福音書はヨハネによる福音書ならしく、ヨハネ受難曲が好適なのかな?
 ヨハネ受難曲も何度か聴いたことがありますが日本の電視サスペンスドラマのような趣はちょっと通俗的な感じがして今一つ。マタイ受難曲があくまでもコラール(合唱)を主とし、ヨハネ受難曲は交響曲ぽい仕立。

 歌謡曲は、この時季にやはりmy routineとして聴くのは三月はおニャン子クラブの『じゃあね』、四月が南野陽子の『吐息でネット』で五月が中山美穂の『色・ホワイトブレンド』。そして六月がMr.Childrenの『lnnocent World』、七月はサザンオールスターズの『チャコの海岸物語』、八月〜二月は十二月のジョンレノンの『IMAGINE』、『(Just like) Starting over』『Happy Christmas(War is over)』とマライアキャリーの『All I want for Christmas is you』の他は特になし。
 Routineというほどではないけれど何となく秋になると聴くのはZARDの『もう少し、あと少し』や『In my arms tonight』など;中島みゆきの『あした』や『湾岸24時』など、秋は歌謡曲が一際に増えます。

 凡そ楽器の演奏は苦手なのですがピアノが弾けないのにオルガンだけは弾け、カトリック教会の典礼聖歌の聖週間の歌、聖木曜日の『いつくしみと愛(Ubi caritas)』、聖金曜日(きょう)の『キリストは人間の姿で』、復活の聖なる徹夜祭の『復活賛歌』や復活節の『復活の続唱』などや日本キリスト教団の讃美歌の『萬の国人我が主に向いて』、『萬のもの永遠にしらす御父よ』や『讃詠 父の御神に御子に清き御霊に』などが得意曲。

 今年はマタイ受難曲もまだ一度だけで『じゃあね』は忘れている内に三月が過ぎていつの間にか「ようこそここへ」の時期になってしまいました。

 そんな中、きのうの聖木曜日、主の晩餐の夕べのミサに続ききょう聖金曜日は主の受難の礼拝に。

♪キリストは人間の姿で現れ
死に至るまで 然も十字架の死に至るまで
自分を低くして従う(率う)者となった
それ故神はキリストを高く上げて
全てに優る名をお与えになった
同じ空っぽの聖櫃も
きのうはイエスが墓を出たこと(復活)の兆を感じさせたが
きょうは墓に入る(死)の準備という感じが一際に。
イエスの十字架が天幕のような布に包まれてお隠れになっている。
小聖堂もこのように。
イエスのゴルゴダの丘における十字架の受難を描く聖画、
この藤が丘聖ビアンネ教会の建築設計を行ったジルカロン司祭の筆。

 礼拝の様子はsensitiveな内容を含むのでお見せできません。

 ヨハネによる福音書の伝えるイエスの受難はバッハの曲では通俗的な感じがしますがヨハネの文ではマタイによる福音書などよりも明晰で分かり易いです。
 一概にイスラエル(ユダヤ)がとかローマがとかイエス党がとか敵味方の構図を見て取る余地がなく、個人の心や権力の均衡という現実的姿が一気通貫に浮かび上がります。
 敵味方の構図ということで丁度きょうの報道にあったのはフランスのマクロン大統領と中国の習近平主席が現下の外交と経済に関する協力を提案したこと。
 フランスは昔から中国には和親的姿勢なので「またか、」という感じですが笑、多くの共観的見方からは理解しにくい、予測しにくいがかなり確からしい重要素がそこにある。
 また、大きな声では言えないけれど、キリスト教界における聖書の理解にはかなりの程度に(私の理解をも含め、)何に贔屓するかにより左右されているものがある。あくまでもイエス党贔屓なのか、イスラエル(ユダヤ)贔屓なのか或いはローマ贔屓なのかなどなど。
 何の贔屓もない見方や理解はあり得ないものの、最も公正中立に近いのはヨハネによる福音書だろうと思われます:「初めに言があった。」のあれです。

 さて、イエスの死を見届けた後の夕餉:

蒸豚は豚腿肉を蒸し、にんにく生姜醤油たれを浸けて軽く焼く。
出エジプト記の伝える過越祭を模し、羊ではなく豚で
しかも使うなと命じられた水で蒸すものだが、
パンに添える苦菜というものを
紫蘇大葉、小大根の葉、豆みそと練胡麻のすり和えで表現。

 これを食べていたらいつの間にか24時を過ぎたところで、一日吹き荒れていた嵐が丁度その時にぴたりと止み辺が静まり返りました。

 そこでふと思い出したのはシンデレラの童話です。
 シンデレラの物語がエジプトの発祥とは夙に有名ですがそれがイスラエルの民の出エジプトから始まりイエスの受難に受け継がれる過越祭とその神秘に由来するのではないかとのかなりの確信を得ました。
 聖木曜日の洗足式で靴を脱ぐ場面はシンデレラの靴(西洋版はガラスの靴。)の検分を想わせます。その他、仔細に両者を比べてみると驚く程の一致点があります。
 過越の生贄の仔羊の肉を急いで食べるというのは24時までに急いで帰るシンデレラと一致、私は24時までに食べ終わらずに過越してしまいましたが。

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