『鬼滅の刃』は、ジョジョと似て非なる所にこそテーマが詰まっている。


大人気、鬼滅の刃。とても面白い。少し読めば「なるほど、これは、ジョジョ(第一部)だな・・笑」と思うのですが、だからいけない、と言いたい訳でなく 、似て非なるところがあり、そこにこのマンガの美味しいところ、 テーマみたいなのがぎゅっと詰まってるという感じがします。(だから、パクリとか言って済ますのは、一番勿体無い、と思います。)

多分、鬼滅の作者は、描きたい事を上手に展開できるようにジョジョの骨格を変形しつつ採用したのだろうと思います。

ジョジョ好きにはとても読みやすい、わかりみが深い漫画です。 (10巻くらいの所まで読んでの感想文です。11巻か。)

※以下、ジョジョ好きによる、鬼滅とジョジョの奇妙な比較論です。

鬼滅の刃は、供養の刃。

鬼滅とジョジョ。 ざっくり言うとゾンビシステムに抗う特殊な呼吸法の戦士達の物語というところまでは一緒。

(生と死を分けるのは「息をしてるのかどうか」だから、 アンデッド(鬼、吸血鬼)に対して、息(呼吸)が生む生のエネルギーで立ち向かう、というのは、ある程度の納得感があります。)

違いが出てくるのは、ゾンビシステムの中身。 鬼滅のゾンビシステムは、少し特殊です。ねずみ算的に増える、パニックムービー仕様のそれとは違っています。(ここ大事。)

ゾンビ(鬼)を生み出すのは、システムの長=鬼舞辻無惨(鬼滅のボスキャラ)のみです。基本的に(ゆしろう除く)。

鬼は皆、一親等、というとおかしいですが(笑)
鬼舞辻と直接の因縁を持ちます。鬼は、人間としての生を奪われた挙句、強制的に化け物への転生&支配下登録された鬼舞辻の被害者です。

利用されるだけの駒、
”逃れもの”の珠世曰く、「哀れ」な存在が鬼です。

だから、主人公の炭治郎は、その脅威は認識しつつも
問答無用に討つべし、とはならない。

鬼の自分勝手な振る舞いには、もちろん烈火のごとく怒りますが
これは単に正義感の発露のようです。 (最終選別の時、生き残った子が産屋敷のおかっぱの子を殴った時に怒ったのと同じ。  鬼だろうが、人だろうが理不尽な暴力は許せない。)

憎むべきは鬼ではない。 

炭治郎は、鬼の被害者としての側面を嗅ぎつけるのか、ときに同情的だし、
鬼のこれまでの人生を慮ったり、また来世を祈ったりもする。

家族を突然失う不条理をも経験している炭治朗は、理不尽に歪められた生の無念に共鳴してしまうのかもしれない。 炭治朗に討たれた鬼には、幾ばくの承認を受けた安堵、癒しの色が漂う事もある。

とどのつまり、炭治朗の刃は、魂を見遣る供養の刃なのだ。

(だから、鬼滅の刃は、決して「鬼殺の刃」であってはならない。 鬼の根絶やし、物理的排除を旨とする「鬼殺隊」とは性格が違う。)

一人一人の顔が見える(モブキャラに埋没しない)鬼への感情移入(供養)を通して、怒りの矛先は、自然に鬼舞辻に向けられるよう、筋道はつけられている。パニックムービー仕様だと、こういう風には運ばない。

(供養・・。 ジョジョ好きからすると、結局、鬼滅って、黒騎士ブラフォードのエピソードをずっと繰り返してるようなカンジなんです・・。) 

「ねずこ」の存在こそ、一番の違い。鬼滅らしさの源泉。

さて、続いて鬼滅にあって、ジョジョにない所。

①人を襲わない、例外的なゾンビ(鬼)の存在(ねずこ、珠世など)と ②鬼から人間に戻れる可能性が示された事。

状況から、鬼舞辻のゾンビシステムは完全無欠(不可避、不可逆)ではないと思われる。 (そのまま炭治郎が戦いに身を投じる動機になります。→妹のねずこを人間に戻すため。)

また

「貧しかったら不幸なの?
 綺麗な着物が着れなかったら可哀想なの?」
「お父さんが病気で死んだのも悪いことみたい」
「幸せかどうかは自分で決める」
「一緒に頑張ろうよ 戦おう」

人間ねずこのセリフ↑から

ねずこが、人を襲わないのは、彼女自身の強い意志によるもの、と読める。

ねずこは、姿は鬼になってしまった後も、鬼舞辻に屈せず、いまだ戦っている最中なのだ。

・・多分、知らんけど。 (鬼舞辻にとっての予想外、その意味するところは、まだ明かされていない・・。読んだところまででは。)

が、外的要因によらず、自分の在り様を決めようというのが、この漫画で作者が描きたい事の一つだと思います。

これぞ主人公、これぞ少年漫画ってカンジではありますが・・。

「生活は楽じゃないけど 幸せだな」

第一話の炭治郎のセリフ↑からも、この辺りは一貫しているように伺えます。

(お父さん死んじゃって間もなくに、このセリフです。まだ幼い弟妹には、その心の傷跡が色濃く感じられる頃です。炭治朗、すごくないですか?)

鬼の「悲運」と「自分勝手」。

一方で、ねずこのように不屈の精神があれば、人を襲わないで済む、とするならば、

人を襲うことになった鬼は、心が弱かった者という事になる。
心の弱さから、人を襲う事を自らに許してしまった者となる。

・・・だから成敗される宿命、とも言える。

が、人間、皆が強者とはいかない。

強者が讃えられるのは良しとして、持たざる者が、それゆえに
咎められたり、蔑まれたりするのはどうなのか・・。

鬼舞辻の目に止まらねば、
彼ら(鬼)は非業の死を遂げただけの力無き者に過ぎない。

鬼が人を襲うその罪と、鬼になってしまった悲運は
分けて考えないといけない。

(・・とはいうものの、それは理屈の上での話でしかない。鬼の被害にあった者が、そうすんなり考えられるかは、また別の話で、やはり難しいだろう。
 
胡蝶しのぶに見られるように、理想はあれど、根深いところにある嫌悪感が阻む。 故に、炭治郎とねずこの兄妹が現れるまで、解決の糸口を探る事は難しかった。)

炭治郎は、ねずこの身に起こっている事を通して
鬼の悲運と自分勝手を正しく測ることができる。

鬼からすれば、自分勝手だけを叱ってくれる。
思い通りに生きられなかった無念を労ってくれる。 

結果、鬼滅の刃は、人だけでなく、鬼のためにも救いの手となりうる・・。

だから、鬼滅の刃は、共感の物語としての側面が強い。
不条理を共にする者の連帯がある。

(練りこまれた設定、人物配置に感心します・・。)

強者だけでなく、弱者にも向けられる慈愛。
そこが吾峠呼世晴ふうの人間賛歌なのだろう。

(ジョジョと言うか、この時代の少年漫画全般に底通する
 理想的な人間像、強者を讃える人間賛歌とは少し違ってきている。)

最後に。 (「長男だから我慢」問題について)

さて、ジョジョという補助線を薄く引くことで、鬼滅の刃の特色が浮き彫りになるんじゃないか、という試みについては、大体書けたと思うのですが・・

あと1個だけ、どうしても。

読んでて、一番「おっ!」と思った、「このマンガ家すげーな!」と唸った
炭治郎のあるセリフについて。

(一応、みんな言ってたら恥ずかしいな・・と思い、インターネットで調べた所、ファンの皆さんはやっぱり、このセリフが大好きなようでした・・。 あー、恥ずかしい。)

傷の癒えぬまま、赴いた戦いの中での次のセリフ、

「俺はずっと我慢してた」
「すごい痛いのを我慢してた」
「俺は長男だから我慢できたけど
 次男だったら我慢できなかった」

スゴイですね。

厚い友情に支えられてるから、苦しい修行を耐え抜いたから、 

とかではなく、長男だから・・・、我慢できた。

ド天然。長男を過剰評価しすぎ。
(よそのお家の長男は耐えられないよ、きっと。)

炭治郎の責任感(長男だから)と思いやり(弟妹がこんな痛い目にあってたらと思うと・・)が伺えてイイのですが、

もっと言うと

炭治郎の強さの秘密は、家族の絆にあると自白してる訳でもあって、
(本人はそう信じている)

本人次第でどうにかなるものではなくて、生まれた時からあたえられていたものに根拠を求めるのがスゴイいいな、と。

決して、強さを自分の手柄にしない。 他力。与えてもらった事への理解と感謝がある。

(もちろん、自力でねずこを人間に戻そう、未来を切り開こうという意志を持ち合わせている。そこは、他人のせいにしない。運命を呪ったりしない。この無自覚の使い分け。)

こういう人だから、この漫画の主人公が務まるんだな〜と、腑に落ちました。

でも、心の拠り所は、やっぱり失われてしまった家族だったのか、と。
ホロリと・・胸を打ちます・・。

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