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自由のアイスクリーム、塩分を添えて

 中学3年。当時在籍していた学校に日本語話者はおらず、日本語を使うことなく毎日が過ぎていた。日本人である意識やアイデンティティに大きな揺らぎが生じていたのもこの時期だ。黄色人種のほとんどいない学校生活では、母国がまだ同じ地球上にあるかどうかさえ疑わしくなる時があった。

 ある日、狭い校庭で体育の授業を受けていた。授業といっても、個別に走ったりストレッチをしたりするくらいで、ボールを使いたい子がいれば使ってもいい、雑誌を読みたい子がいれば座ってそうしていればいいというようなものだった。

 わたしはその”いい加減”な感じが自分の中の日本人と相容れない気持ち悪さからいたたまれず、校庭の端っこの、担任と体育の先生が地面に座って雑談している横で、金網に寄りかかるでもなく、ただ硬直して立っていた。担任の先生が難しい顔で見上げてきて、「力抜いたら」と言った。

 多分わたしは真面目が過ぎた。それは自分でもなんとなくわかっていた。でも、どうにも振る舞い方を変えられなかった。気恥ずかしさもあったが、なにより自分がその社会で唯一の日本人だからこそ、下手なことをして日本の顔に泥を塗るようなマネをするわけにはいかないという悲壮で奇妙な気負いがあった。

 力を抜けと言われたところで座るに座れず夏の日差しを顔面に受けていると、軽快な音楽を流しながらアイスクリームトラックが横道を走ってきた。生徒たちは歓声を上げ、トラックを校庭へ招き入れようと走った。いやいやそれはないでしょう。流石に先生止めるでしょうと横を見た。先生も駆け出していた。

 校庭で商売を始めるアイス屋。列に並ぶという秩序もなく車に群がり勝手に買う生徒たち。誰も「先生、買っていいですか?」なんて訊かなかった。先生も買っていたし。お金を校庭に持ってきていない子は遠慮のエの字もなく「わけて!」と友だちに叫んだ。体育の授業は一瞬にしてアイスを楽しむ祭になった。

 わたしは「これは間違ってる」と思った。授業中にアイス食べちゃダメでしょ。先生も生徒もやってることおかしいでしょ。でも、みんなが楽しそうにしているのに、なにがダメなのか?――ダメだと断言すべき理由をわたしは持っていなかった。不道徳的や無秩序という言葉は知っていたが、なにか違うと思った。

 先生たちがアイスを舐めながらわたしのところに戻ってきて、「食べる?」と朗らかに勧めてきた。「チョコもかけてもらったよ!」わたしは泣きそうなのを堪えていた。日本じゃない場所大嫌い。この人たち大嫌い。そう思ってしまって、自分の感情の醜さにまた泣きたくなって、怒りで変になりそうだった。

 先生はアイスの垂れた腕で(そういうとこも嫌い)わたしの肩を抱き寄せて言った。「日本人はこういうことしないんだよね。だから嫌だと思ってる?」わたしは頷いた。「でもね、あなたは日本人である前に人間で自由なんだよね。力抜いていいし、暑い日にアイス屋来たら、興奮して楽しく食べてもいいの」

 わたしはアイスを食べることより授業をシリアスに受けたい、と言った。涙がとめどなく溢れ出していた。先生の言うこともわかったけれど、今それを認めてしまったら、それまで行く先々の国で日本人として品行方正であろうと振る舞ってきた努力が水の泡だと思った。

 そして、そんな崇高で些末な自尊心に自覚的になるにつれ、それが実にどうでもいいものだともわかってしまった。不機嫌そうに突っ立っている子より、ボール蹴ってアイス食べて嬉しそうにしている子の多いほうが、より幸福な光景なことに違いない。

「そのうち自由になれるよ」と先生は言って、泣きじゃくるわたしを木陰に連れていき、放っておいてくれた。わたしはアイスに夢中な誰にも気づかれず、心ゆくまで泣いて、すっきりして、でもやっぱり授業中にアイスはダメだと思うんだよなあと考えて、それから20年ちょっと生きて、この夏を迎えている。

 きょう、わたしが、幸福であること。今ではそれを重視できるまでに"自由"になっている。わたしの幸福がひいては手の届く範囲や言葉の伝わる範囲の人にとっても心地よいものであるという確信の上にわたしは立っている。正しく在ることより幸福に暮らすことを尊ぶ方が、生き物として好い、と信じている。

 人間は生まれながらに自由なのに、成長とともに自文化に適応する過程で、多くの疑問符を削ぎ落としてきている。ごはんになんで箸を立てちゃダメなの?わたしたちは答えを教わってきて知っている。だから異文化人がごはんに箸を立てるようなマネをすると、自分の一部が侵されたような気がして、腹が立つ。

 わたしの怒りはだいたいそれだった。自分が許されないと信じてきたことを目の前の異国人たちが疑問もなくやっていることへの苛立ちだ。わたしは日本人である前に人間で、それゆえ自由で、どんな言動でも選んでできるのに、自らそれを規制し、遠慮し、周りの自由さに腹を立てていたように思う。

 体育でだらだら過ごしてもよかったのに。授業中だろうがアイス買って食べてもよかったのに。それに、もっと楽しく笑って生きても、よかったのに。むしろその方が、手の届く範囲がいっそう幸せになれたのに。幼さと若さの狭間でもみくちゃにされていた頃は、大事なことの優先順位なんかわからなかった。

 だいぶ時間がかかってしまったけれど、わたしはあの頃の自分がカルチャーショックで傷ついていたことも理解し、今ではアイスクリームでも焼き芋でも、追いかけて買いに行ける大人になったのを幸いに思う。規範、常識、異文化理解、自由。できるだけ幸福の多い方を選べるバランスを忘れずにいたい。

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