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フォロワーを増やしたくて本気出して考えてみた方法

 mixiの頃から長文の日記を書いては「読んでね!」って言い続けてたけど、あしあとは伸びなくてさ。
私が読んでほしいと思って書いたものを「読んでね!」って言うだけじゃ他人は読んではくれないってことにすっかり慣れてしまった。
それでも最近は毎日安定して100人以上の方が私のnoteを読んでくれている。
やはり極力毎日更新することや、共同マガジンに参加して露出を増やすことは読者数を増やすには効果的なようだ。

 広告や広報、PR、インフォメーションについて考えることは多い。
動員というと極端かも知れないが、興味を持っていない人に興味を持ってもらうには、とか。
興味を持っていない人をどうやって巻き込んでいくか、とか。
そういう考え方をしてしまっている時点で悪手だとも思っている。
巻き込まれる方は迷惑だろうよ。
実際、突然かかってきた電話営業にイラっとしたことは一度や二度じゃない。

 藤子・F・不二雄の『流血鬼』という漫画が示唆的で、一線を越えてみなければわからないことを、一線を越える前に良いものだと信じられるか。
みんなは良いと言っているものだけど、騙されているような気しかしない場合、どうしたらいいのだろうと考えさせられる。
 啓蒙されない権利。愚かでいられる権利というものもあるだろうな。

 イギリスのことわざに「好奇心は猫をも殺す」というのがあるが、興味を持つこと自体がコストであり負担という考え方もある。
 生まれる前から名作は無数に存在し、現在進行形で発表され続ける。
そんな中で網羅は無理とわかれば、興味を持つこと自体にうんざりしても仕方ないかもしれない。
倍速再生してでもコンテンツを消費するのはある意味えらい。無論それだけでは不足なのだけど。
そんな若者たちは上の世代からしたら堕落に見えるかもしれないけれど。
 実際、課金すると広告を見なくていいという設計は、広告は嫌なものという前提を制度化してしまっている気がする。
様々なサービスが可処分時間の奪い合いをする中で、5秒とかスキップできずに我慢させられ可処分時間を奪われるし、興味を持ったらもったで興味のキャパシティーを食うし。
 テレビCMを見ていられたのは何でだったんだろうと不思議になる。
 無気力になっていく中で、興味が無理やり誰かに持たせられるものであるならば、興味を持たせるところから導入するというのはやはり悪手だ。

 有名人のニュースに「知らね」とか「誰こいつ?」とかコメントがつくことにも同源の違和を感じる。
単なる無知の表明でしかない一方で、その広告に興味を持たずにいられた自分というところに優越感を持つのかもしれない。
他人に興味を持たせた方が勝ちの世界で、興味を持たずにいられた俺Tsueeeeeee!!みたいな。
 SNSのアルゴリズムは見たくないものを見ないことが難しいし、一方で見たいものしか見ることができない弊害もあって、タコツボの中でチェンバーを起こしている恐怖は常にある。

 noteを読んでもらう上でタイトルの付け方に腐心するが、扇情的なタイトルをつければそりゃあ見てもらえる一方で、品のないやり方である。
ライターやってると「ちょっと炎上させてもらってビュー数を稼いでください」みたいな依頼をされたこともあった(断りました)。
 インターネットは車のようなもので、事故で人は死ぬけど便利さには勝てないから、人類はもう手放すことができない。
SNSは偏った意見であればあるほどバズるから、余計におすすめ欄は扇情的になっていく。
ならば自分は何に加担しているのか。自分の好きな作品はフェアトレードなのか。
制作過程で人道にもとる手段を含んでいないか。
 そうすると資本主義的な消費にも積極的になれずサイレントテロリスト的に生活しがち。省エネだし。
反社会的というより非社会的なのかな。

「馴れ合いは好きじゃないから誤解されてもしょうがない」けど、読んでくれなかった人を読者にしていかないとフォロワーは増えない。
同時にマーケットも大きくならない。
 読みに来ない人の気持ちはわからないけど、立場を想像することはできる。
 布教みたいなものだからね。幼馴染から30巻以上ある漫画を押し貸しされてすごい迷惑だったことがあるよ。
他人の家の臭いのする古い漫画が部屋の中にあるのがすごいストレスだった。汚損できないから神経使うし。
 飛び込み営業も宗教勧誘もねずみ講も、同じようなものなんだと思う。
興味ないのに俺の時間を奪って巻き込むなって。迷惑だろうなって。

 一方で私は福祉の仕事をしているから地域社会の中で、高齢者、子育て世帯、障害者、引きこもりなんかも含んだフルインクルージョンの多世代が交流し社会参加していく事業なんかにも関わることはあって。
でも地域とか絆とか、私だって当事者にならない限りどうでもいいと思っていたし、どうしたら、誰かが貧乏くじを抱え込んで泣き寝入りする世の中にならなくなるかなって。

「興味を持たせる」とか「巻き込む」をやろうとするとどうしてもハレとケで言うハレのイベント的になって、熱量とか熱狂とか連帯とか、ゴリゴリしてしまう。
 大きな音楽とか個人的には好きだけど、グルーヴに陶酔しているだけでは、陶酔している人としてない人で温度差が生まれる。
 アルコールの有無とは無関係だけど、なるべくケで、しらふで丁寧に一人ずつと話し合っていくしか、フォロワーないし読者を増やす方法はないんだろうなって思った。

 以上、デモに参加してパレスチナのために渋谷を歩いた感想でした。


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