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感想『ゴジラ-1.0』日本人対ゴジラ、日本人対ニッポンとしての娯楽超大作

 やはりと言うべきか、数多の趣味や大好きなコンテンツを抱えつつ、ことゴジラとなると「真打」というか、心構えと緊張感が他の作品とは比べ物にならない。数えきれないほど予告編や公式サイトに目を通し、妄想を膨らませ、トイレの心配をしたくないので初回鑑賞時は事前に水以外を一切口に含まずして臨む。初回はただ目の前の事象を追い、2回、3回と重ねるごとにようやく言葉が浮かんでくる。事前の期待通り、今回のゴジラはただひたすらに「怖い」、怖くて恐くてたまらないゴジラだった。

 ゴジラとはそもそも、時代の変化によって様々に変容し、原水爆の象徴からプロレススター、子どもたちのヒーローから戦没者の怨念の集合体など様々な在り方を許容する存在である……というのは特撮ファンには釈迦に説法だろう。作品ごとにカラーが様変わりし、ゴジラという名前とおなじみのテーマ曲を屋号として、巨大二足歩行の怪獣が暴れ回ったり、敵怪獣と熾烈な闘いを繰り広げる。多種多様なアプローチを許容してきたからこそ、言ってしまえば人の数だけ正解があり、何をもってゴジラとするか、の答えこそ統一見解を用意するのは難しい。

 とはいえ、あらゆるものに「祖」があるように、ゴジラにも絶対の「」がある。そしてそれは、本作が戦後日本を舞台とすると発表された瞬間から、ある程度正解が導き出されてしまう。原水爆という人類の過ちの被害者であり、放射能を撒き散らして街を破壊する、戦後日本最大級のトラウマを背負って現れる巨大な大怪獣。初代ゴジラがB29の爆撃ルートを辿っている、というのは有名な話だが、ゴジラ×戦後が組み合わさると、どうしたって戦争の影を背負った姿を連想せざるを得ないのが、ゴジラなのだ。

 して、偉大なる初代のリメイクや語り直しという意味でも様々な試みがなされたゴジラシリーズだが、本作がどうしてもこれと比較して語られてしまうであろう一作として『シン・ゴジラ』がすでに存在する。

 この作品の魅力には多彩な切り口があるが、我々観客の度肝を抜いた諸々はすべて「はじめてのゴジラ」を浴びせてやろうという秀逸な計算によるものだった。掟破りの形態変化というサプライズによって「はじめて大怪獣を目の当たりにした」ショックを追体験させ、数年前に起こった未曾有の災害を彷彿とさせる映像によってゴジラとは「日本人」という生き物が内心抱いている恐怖を象徴する存在であるということを改めて定義することで、初代ゴジラを再演する試みの100点満点を叩き出してしまった。あのタイミングで庵野秀明らにゴジラを託し、見た目の「型」を崩しながらも「芯」を貫いたあの一回限りの大博打に踏み切った当時の東宝の決断に、今なお拍手を贈り続けている。

 しかし、繰り返すように『シン』の方法論は一回限りなのだ。幼体を出したとて「シンで観た」になるし、代替わりを果たした行政に復興の夢を託すには、現実での出来事はあまりに醜悪すぎた。『シン』の衝撃は今なお薄まることはないまま、リアル路線を追求すれば比較は避けられず、現実との齟齬に苦しめられる。2016年以降、実写の日本版ゴジラが現れなかったのは、この作品の巨大さが影響しなかったとは、どうしても思えない。

 話が逸れた。どうしても『シン』と比較される立場に置かれてしまう『-1.0』だが、同じ初代の面影を背負うゴジラでありながらも、その在り方にはやや異なるニュアンスを感じている。

 確かに『シン』のゴジラは怖い。第二形態の意思を感じさせない眼と、生物の理屈に反した巨大化を果たす第三形態。そして第四形態ははるか高みから我々人間を見下ろし、果ては群体化にまで進化を遂げようとした完全生物。そのおぞましさは、映画全編において観客と作中の全日本人を揺るがし、初回鑑賞時はただひたすらに怯えた思い出がある。

 ところで、『シン』のゴジラの手の平が上を向いていることは有名だが、モーションキャプチャーを担当した野村萬斎氏が語るその意図が面白い。

また、古舘(伊知郎)を前にゴジラの動きを実演する一幕も。ここで古舘は、ゴジラの手が常に上を向いていることに言及。これは野村自身のアイデアだと言い「普通に撮影していたのですけど、倒れるときに手をつきたくなっちゃうんです。そこで“手をどうします?”って話になって。考えてみれば龍は手に宝珠を持っていますし、仏様とか神に近い人間は手の平を上に向けているということで“そうしましょうか”って話になりました」と裏話を披露。

「シン・ゴジラの手が上を向いている理由」演じた野村萬斎が明かす

 “仏様や神”というワードが出たように、あのゴジラには神的なモチーフが採用されている。作中でも“神の化身”と呼ばれ、ヤマタノオロチを討ち倒した神話になぞらえ名付けられた作戦で鎮められるなど、『シン』のゴジラは徹頭徹尾“神”の印象が当て込められている。思い返せば、ゴジラの熱戦が東京を焼くシーンで感じるのは、恐怖よりも美しさ、半ば陶然とするような感覚だった。圧倒的で無慈悲な破壊に対し、諦観がなぜか癒やしや救いに変化するような、あの感覚。シン・ゴジラは怖いゴジラなれど、その怖さは言ってしまえば「畏怖」のゴジラなのだ。畏れ多くて、怖い。

 さて、かつてなく長い前置きを経て、『ゴジラ-1.0』の話をする。数えきれないほどに観た予告編から得たイメージと、わずかながらも復興に向けて歩みだした日本人を再び絶望に叩き落とす負の象徴というコンセプト。それらを背負った、電車を咥える悪い顔つきがたまらなく格好いいヤツは、一体どんな新・ゴジラなのか。

※以下、本作のネタバレが含まれます。

 まず何より驚かされたのは、ヤツが最初に姿を表す冒頭の大戸島でのシークエンス。『ジュラシック・パーク』のTレックスよろしく、前傾姿勢で獲物を探すその仕草はシンの持つ「神」的なイメージとはかけ離れた、まるで獲物を追う狩人のよう。山崎監督が雑誌のインタビューで語って曰く、今回のゴジラのコンセプトは「神と動物の中間」とあるが、ここでは動物寄りのゴジラとして現れ、容赦のない殺戮を浴びせてくる。この辺りは国産ゴジラとしてはかなり思い切った演出であるし、現行のモンスターバース、とくに『VSコング』における香港戦への目配せも感じる、白組他VFXスタッフの意地が感じられて、これはこれで良い大仕掛けになっている。

 そこから有名な「クロスロード作戦」を経て熱線の放射能力を獲得し、我々のよく知る姿となったゴジラもまた、死を撒き散らす存在として水陸問わず暴れまわる。海での闘いでは登場人物と目線が近いために常に「見られている」という恐怖が付きまとい、戦艦の集中砲火を浴びせられても即座に傷を癒やし、日本人の大和魂の象徴たるそれらをいとも簡単に破壊。続いて銀座に上陸すると、人々を踏み潰し、建物を尻尾で薙ぎ払い、電車を咥えて吹き飛ばす。かつて、ここまで人間に直接的な攻撃を加えてくるゴジラは、そうそういなかった。84年版やGMKを超える憎悪と怒りをたぎらせ、容赦なく民衆を殺していく。極めつけは熱線放射後に「黒い雨」を降らせたことで、本作におけるゴジラもまた「戦争」ひいては「原水爆」の象徴として、復興の兆しの中で生きてきた日本人を徹底的に絶望に叩き落とす。

 VFX技術の進歩によって、今ゴジラが「そこにいる」という恐怖と、着ぐるみ特撮には成し得なかった動き、そして相反するかのように「着ぐるみ特撮ならではの動き」を獲得して、戦後日本に現れる。歴代でも最恐の異名が相応しく、歩くだけで理不尽な死を撒き散らす存在は、例えば初代ゴジラから原水爆の被害者という側面を薄めて再構築したかのような、そんな感覚を抱いた。感情移入や同情の余地を廃し、「コイツは何としても駆除せにゃならん」と観客に思わせるだけの、圧倒的な破壊力と恐ろしさ。我々観客は映画館という安全圏にいながら、銀幕の彼の姿を畏怖し、憧れ、その活躍に歓喜する。ゴジラ映画に期待する喜びや快楽元素をこれでもか!と詰め込んだ一連のシーンは、瞬間瞬間において爆発的な満足度を叩き出しながら、物語は“ニッポン人”にフォーカスしていく。

 敗戦国・日本で生きる全ての人々に、理不尽な死をもたらし、トラウマを刺激して海へと去っていくゴジラ。それに対し日本国は対抗する術はおろか軍事力もなければ政府も機能しておらず、米軍はアテにならない。故に元海軍兵士と民間企業とが手を組んでの「海神作戦」が決行されるのだが、ここが本作の持つ反戦的なテーマが込められているような気がしてならない。

 海神作戦に参加する人々の顔を見た秋津(演:佐々木蔵之介)は「(いい顔をしているのは)役に立てるからだ」と言う。そこに“お国のため”というニュアンスが一切ないとは言い切れないが、海神作戦のクルーは誰もが国に命じられた仕事人ではなく、有志で集まった民間の集まりであり、そこに国家の意思は介在しない。思い返せば冒頭の大戸島で敷島(演:神木隆之介)が特攻で死にきれなかったことを肯定する若者がいたように、国民全員があの戦争と犠牲に盲目的なわけではなかった。国に徴兵され、命をモノのように扱われ、数えきれない程の犠牲者を出してしまった悪しき歴史。戦争における加害者とは敵国だけではなく、自国も含まれるということを、本作は様々なセリフに忍ばせている。

 何度も引き合いに出して申し訳ないが、『シン・ゴジラ』のキャッチコピーが「ニッポン対ゴジラ」であったように、ゴジラという想定外の事案に対して政治家・民間問わず“日本人”が一眼となって立ち向かう、という図式が取られた。それに対し本作はよりミクロでパーソナルな、「帰還兵」「死にきれなかった人々」の後悔とトラウマを浮かび上がらせ、その上でそれらを清算するべく死地に向かう人々にスポットを当てる。すなわち「自分の戦争を終わらせる」ために、国家ではなく自分に殉ずるべく闘う決断を下した彼ら一人一人が、国難であり戦争のメタファーでもあるゴジラと相対する。そんなプロットに、燃えないわけがなかった。

 特攻を生き永らえ、仲間を救うことも出来ず、やっと得た安寧をゴジラに根こそぎ奪われる敷島。彼は初めこそ特攻での仇討ちにて死に場所を求めるも、「生きたい」という意思の芽生えを自覚し、橘(演:青木崇高)と澄子(演:安藤サクラ)からそれぞれ許しを得ることで、自らの戦争を終結に導く。やや甘い決着に思わなくもなかったが、敷島が全てを清算して、日常の象徴としての典子(演:浜辺美波)との再会に行き着くのは納得があるし、その過程で橘や澄子にとっての戦争も終わっていく、その流れが鮮やかであった。海神作戦に関わった人々のしこりが解け、心の重荷を降ろして真の意味で復興が始まる。そして、そんな予感をぶち抜くように流れる、ゴジラの再生とテーマ曲!人類の負の歴史を背負い警鐘するゴジラとは切り離せない人間の業を知らしめる、最高に意地悪で格好いいラストシーンであった(-1.0の意味も秀逸!)。

 奇しくも海の外では凄惨な出来事が続く令和の今、死に対して大義名分を他者(あるいは国家)から与えられることも、特攻も礼賛しなかった本作の矜持は、いずれ戦争を経験した世代の人々がいなくなる現代であるからこそ、そこに強い意義を感じる。戦争は悲劇しか生み出さないということを、人は時に忘れてしまい、歴史は繰り返される。先程ゴジラを“国難”と称したが、本作は「対ゴジラ映画」でありつつも「対ニッポン映画」なのだ。国家総動員による玉砕に疑問を抱き、それでも従うしかなかった人々の無念と怒りが、ゴジラを乗り越えることで浄化される。芹沢博士のような犠牲者を出さずして勝つ、という点にも令和における初代の再演として胸に迫るものもあった。

 ゴジラの恐ろしさとビジュアルの説得力、反戦要素の織り込まれたテーマ性の他、ここぞ!という瞬間に流れる伊福部楽曲の「問答無用でアガる」感と選曲の妙(人間側の進撃でアレが流れる!!)や俺たちのシンジくん神木隆之介パイセンの演技も良かった。言いたいことがないわけでもないが、結果として加点が上回った本作、映画の公開そのものがビッグイベントになるという10年前では考えられなかった時代の、その最前線に立ち会えたことを今は喜びたい。

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