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R&Bとソウル・ミュージック⑯ゴスペルを聴いて『ソウル』を考える

教会は、黒人コミュニティの中心的な役割を果たしています。
礼拝や集会を通じて、人々が集まり、互いに支え合い、団結する場所となり、黒人にとって精神的な支えと慰め、困難や苦しみに直面したとき、信仰と祈りを通じて希望と力を見出すことができる場所なのです。

奴隷制度の時代から続く伝統であり、現代においても変わりません。

教会は、黒人文化の保護と伝承の場でもあります。
ゴスペル音楽や黒人霊歌、その他の文化的表現が教会を通じて保存され、次世代に伝えられています。


「ソウル・ミュージック」の基礎になっているのは黒人が創造した『黒人霊歌(Spiritual)』『ゴスペル』そして『ブルース』『ジャズ』です。

雑ですが『黒人霊歌』の私流解釈は次の通りです。

『黒人霊歌』とは、アメリカに奴隷として連れてこられた黒人たちが、白人の思惑によって「キリスト教」に改宗させられことによって創造された最初の音楽。単なる白人宗教音楽の移し換えではなく、黒人独自のメロディ・リズム・歌い方そして歌詞解釈などを付け加えた【宗教歌 (sacred music)】

キリスト教の教義は、来世での救いと永遠の幸福を強調しますので、黒人奴隷たちにとって、現世の過酷な労働や苦しみから解放され、天国で永遠の安らぎと平和を得るという約束は大きな慰めとなったでしょう。
プランテーションでの厳しい労働や非人道的な待遇に直面する中で、来世の希望は心の支えとなっていたとはずです。

黒人奴隷たちはキリスト教の賛美歌や黒人霊歌を通じて、信仰を表現し、希望を見出しました。

文字文化を持たない黒人奴隷は、さまざまな文化や知恵は口頭伝承によって受け継がれてきました。
『黒人霊歌』は白人宗教歌を下敷きにして、独自のメロディや歌い方そしてリズムを少しずつ付け加えていったのでしょう。


【宗教歌】に対して【世俗音楽 (secular music)】の代表格が『ブルース』

『ブルース』は、奴隷解放後、自由な時間が持てるようになった黒人が、苦役を少しでも紛らわそうとした「ワークソング」「フィールドハラー」の発展形で、初めて伴奏を伴ってソロでアメリカ語で現世の苦しみに対する嘆きを綴った歌(教会で歌われる神への感謝とはまったく無縁の内容)

『黒人霊歌』は、死後の希望を歌うことで間接的に「現実から目をそらす歌」と解釈でき、『ブルース』は「今を直接的に嘆く歌」なので、双方に共通していることは「現実への悲しみ苦しみ」です。


『ブルース』と『ジャズ』は兄弟
『ブルース』
=自らのおかれた理不尽な境遇をに託した
『ジャズ』 
=自らのおかれた理不尽な境遇を演奏で表現した

「教会」で歌い継がれてきた『黒人霊歌』が【世俗音楽(ブルースやジャズ)】の要素を取り入れながらアップデートされたのが『ゴスペル』です。

信仰心の篤い黒人は、ブルースに代表される世俗音楽をしばしば悪魔の音楽として嫌ってきたといわれているが、内容的にはまるで正反対であっても、宗教音楽が黒人社会で有効な機能を果たすためには、常に世俗音楽と接していなければならないという矛盾した面を持っていた。

鈴木啓志著「R&B,、ソウルの世界」P292

レコーディングが始まった以降のゴスペルは大体3つのスタイル

① シンキング・プリ―チャーとそのコングリゲーションズ(ソロ・アーティストとクワイア)
② ギター・エヴァンジェリスト(自分の教会を持たないので街頭で説教したり、出張で教会で説教を行う)
③ ジュビリー・コーラスの流れを汲むカルテット

一番有名なギター・エヴァンジェリスト

Blind Willie Johnson


”ゴスペル音楽の父” トーマス・A・ドーシー


『ゴスペル』の名付け親であり、元々はブルースマンのピアニスト「ジョージア・トム」という肩書もあり、そして生涯で1000曲以上作曲をしているコンポーザーでもあるトーマス・A・ドーシー

シカゴで「ジョージア・トム」という名のブルース・マンとして
Ma Raineyのバック・バンドなどでも活躍


1926年〜1928年にはPace Jubilee Singersのピアニストとして活動


1928年にタンパ・レッドと共同で出した「It’s Tight Like That」が大ヒット


そんなトーマスに突然、不幸が重なりました。
最初の妻が出産時に難産で死亡。産まれてきた赤ん坊も2日後に死亡。

トーマスは、神に祈り、信じ続けることでしか自分を救える道なく、これをきっかけに本格的に「ゴスペル」という音楽に身を捧げるようになっていったのでした。
しかし当初は、「悪魔の音楽”ブルース”などの世俗的なものを教会に持ち込んだ」として教会関係者などから非難されました。

Thomas A. Dorsey


”ゴスペルの女王” マヘリア・ジャクソン


1911年10月26日:ニューオーリンズにある貧民街の「ショットガン」と呼ばれる掘っ立て小屋で生まれました。
16歳になりシカゴに移り住み、バプティスト教会の聖歌隊に入ります。
徐々に彼女の噂が拡がり、たくさんの教会から歌って欲しいというオーダーがくるようになりました。
この頃にトーマス・A・ドーシーに出会います。

次の動画は、1968年キング牧師の葬儀の時に彼女が『Precious Lord, Take my Hand(トーマス・A・ドーシー作)』歌ったものです。


ゴスペル歌手として名高いロゼッタ・サープ(Rossette Tharpe)は、ゴスペルをナイトクラブに持ち込み、たいへん人気を博しましたが、マへリアは
”ブルースは絶望の歌 ゴスペルは希望の歌”と語り、生涯、ブルースを奏でる頽廃的なナイトクラブには出演しませんでした。

ちくま新書「はじめてのアメリカ音楽史」P81

Mother Willie Mae Ford Smith


Sister Rosetta Tharpe


戦後のゴスペル・カルテットの活躍


The Dixie Hummingbirds


The Soul Stirrers

後にR・H・ハリスの後釜として加入したのがサム・クック


The Swan Silvertones


Five Blind Boys of Mississippi


The Sensational Nightingales


クララ・ウォード(Clala Ward)


アレサ・フランクリンの師となる偉大なゴスペル・シンガー
クララ・ウォード

1940年代と50年代にファイマウス・ウォード・シンガーズ( The Famous Ward Singers )のリード歌手として活躍
グループは、元々は彼女の母であるガートルード・ウォード( Gertrude Ward )が1931年にウォード・シンガーズ( The Ward Singers )としたファミリー・ゴスペル・グループでした

クララのソロ名義での初録音は1940年のこと
「Surely, God Is Able」「How I Got Over」「Packin' Up」などが有名


ソウル・ミュージックの「ソウル」とは?


ゴスペル界のスターであったサム・クックのようなアーティストが、教会音楽の熱情とテクニックを世俗音楽に持ち込んだことで、ソウル・ミュージックの基盤が築かれました。

ソウル・ミュージックの「ソウル」は、歌手が歌う際に込める深い感情や真実の表現を指します。歌手が自身の経験や感情を全身全霊で表現することで、聴衆に強い共感と感動を与えます。
この感情の深さと真実さは、『ゴスペル』の影響を強く受けています。
特に、感情的な力強さ、リズム、コール・アンド・レスポンスのスタイル、そしてスピリチュアルなテーマがソウル・ミュージックに反映されています。

奴隷制、公民権運動、そして日常生活での差別といった具体的な歴史的文脈が、ソウルミュージックの根底にあり、これらの経験が、黒人が持つ独自の感情や表現方法に深く影響を与えて、音楽を通じて、社会的不正義に対する抗議や人種的誇りを表現する手段ともなっていったのです。

「ソウル」の真の意味は、単に音楽スタイルの模倣だけでは捉えきれない深い文化的、歴史的な背景を持っています。

ブルー・アイド・ソウル(Blue-Eyed Soul)という言葉もありますが、白人アーティストも感情豊かなパフォーマンスをすることはできても、同じ歴史的背景や文化的文脈を持たない場合、表現の深さや意味合いが異なり「ソウル」の真の意味を完全に体現することは難しいと考えられます。


言うまでもなく、私ごときの黒人音楽好きの日本人が「ソウル」を語ることが出来るはずもありません。

しかしながら、ソウル・ミュージックを通じて異文化理解を促進し、差別意識を減らすための活動を行うことで、多くの人々が音楽を超えた深い意味を理解し、より良い社会を築く手助けができたらいいなと思っています。


「ソウル」とは何か?


私には「ソウル」の真の意味が分かっていません。

これからも探究していきたいと思います。



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