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LONDON 月のアライグマ探偵

5/19の文学フリマ東京38で頒布したコピー本です。前日まで本文を書いていたので何の告知も出来ませんでした。再販の予定がないのでnoteで公開します。

月の名探偵、その名はロンドン

 わたしが誰で、いつどこで、何のためにこの文章を書いているのか。それらの事情を書きしるす前に、まずはわたしの風変わりな友人のことを紹介したいと思う。
 まず彼は地球のアライグマにそっくりな見た目をしている。目元の特徴的な黒いマスクのような毛色と縞々の太い尻尾を持った茶色いあのけものとそっくり同じ特徴を備えているが、それもそのはず、彼は月面の開発のためにアライグマを元にして人工的に作られたルナーラクーンと呼ばれる生き物の一人だからだ。彼らルナーラクーンの体つきは地球のアライグマよりふたまわりほど大きく、人間と同じ作業が出来るように両手のひらの親指が人間の手指のように他の四指と向かい合っているところが特徴だ。そして人間と意思の疎通がスムーズに出来るように人語の発音が可能な喉をもっている。
 そう、結局わたしたち人間は月を征服する夢を諦められず、猫の手ならぬアライグマの手まで借りて、この不毛の土地に旗を立てようとしているのだ。
 だが人類史において、その類いの企みがうまくいったことがあっただろうか。彼はお気に入りの肘掛け椅子の上で体をまるめ、造物主から授かった器用な長い指で文庫版の『シャーロック・ホームズの復活』のページをめくる。マスクのような黒い毛並みの中できらきらと輝く丸い瞳が、もう何度も読み返したという物語を飽きずに追っている。
 彼はロンドンと名乗った。彼いわく、ロンドンの街を闊歩していたアライグマの細胞から生まれたからそう名乗っているそうだ。この話をするとき、彼はここだけの話とわたしにささやく「僕の細胞はね、かのシャーロック・ホームズが居を構えていたベーカー街を歩いていたんだよ」と。本当かどうかはわたしには判断がつきかねる。
 シャーロック・ホームズシリーズはロンドンにとっての聖典で、彼のホームズへの敬愛は様々なところに現れている。暖かい毛に包まれた彼らルナーラクーンに服は不要だが、彼は趣味で部屋着のガウンの袖に腕を通す。短く突き出た鼻面にくわえたストレートパイプの中身はから。密閉された月面都市の外は真空だ。いちど火事になれば重大インシデントにつながるので、市民が火を扱うことは残念ながら許されていない。そもそも喫煙という習慣がはるか昔にすたれている。
 ここまでの文をノートパソコンに打ち込んだところでロンドンが本から顔を上げずにわたしに声をかけた。ルナーラクーン特有のファンシーともいえる甲高い声で。

「ねえワタソン。君もそんな文章は後回しにして早くシャーロック・ホームズを読むべきだね。これはとても千年も前の作品とは思えない、今なお、熱い血が通った生きた物語だよ。僕はこの物語から生まれたんだ。シャーロック・ホームズがずっと僕の行くべき道を指さしてくれている。そう感じたんだ。だから君にもきっと深い感銘と人生への示唆を与えてくれるはずだよ」

 限りなく『ワトソン』に近い発音で、彼はわたしの名前『わたなべそん』を略して呼ぶ。
 ロンドンにとっての神であるシャーロック・ホームズ。彼はその威光に顔を向けるため、製造主に与えられた仕事にふさふさの尻尾付きの尻をむけた。そして月面で初めての私立探偵となったそうだ。奇妙な話だが、彼の私立探偵としての活躍のおかげで、今わたしがこうやって自由に月面でおこったとある事件の記録をまとめることが出来ていることには感謝の気持ちがある。
 とはいえ執筆作業は遅々として進まない。わたしはいま何とか右腕だけでキーボードを叩いてこの文章を書いている。左手は力を失って動かすことが出来ずに、重たく体の横に垂れたままだ。生活にも仕事にもおおいに支障が出ている。
 言い訳を重ねることを許して欲しい。その上、作業環境もあまりよくはない。腰掛けたソファから尻がはみ出ているし、ノートパソコンを置いたテーブルはひくく、自然と背中が曲がっていく。ルナーラクーンたちの体格に合わせた家具は人間のわたしには小さすぎるのだ。
 このロンドンの居室に割り振られた番号は221b。もちろん彼は部屋番号に惹かれてこの部屋を借りたそうだ。月面開発の中期に月に降り立った人間たちが去ったあと、からになった人間用のワンルームマンションの一室を無理矢理二つに分けてルナーラクーンたちに貸し出すマンションオーナーは珍しくない。今、ここルモニエの街にはほとんど人間はいない。おそらくわたしを含めて数名ほどだろう。
 わたしは執筆に疲れ切った目を休めるために窓の外に目をやった。ゆっくりと日が暮れていく。ここルモニエの街の夕暮れはいつだって素晴らしい。燃えるような朱色の西の空は東に向かうにつれ薔薇のような赤色をへて宇宙の色を透かすような紺色に変わっていく。消えゆく光が、街の中心にそびえるレンガ工場の長い長い煙突の影を灰褐色のレンガで組まれたアパート群の上におとしていく。約三十八万キロメートルも離れたなつかしい故郷、地球を思い起こさずにはいられない、まがい物の夕暮れだ。かつてのソビエト連邦の月面探査機が降り立ったルモニエ、その平地に降り注ぐ隕石を避けるために二キロメートルも地下を掘り進めて作られた街がここ『月面第二都市ルモニエ』だ。
 夜も昼も、晴れも曇りも天井に取り付けられた発光パネルに映る幻でしかないと思うと少し、ほんの少し地球が恋しくなった。

「月もそう悪くはないよワタソン。地球よりずっと静かで物事がシンプルなんだ」

 ロンドンはわたしの心中を読み取ったようにそうつぶやくと、ぱかと口を少し開いた。分かりづらいが、その表情はわたしたち人間でいうところの笑顔らしい。
 

月面レゴリスレンガ工場

 ルモニエの街の主要産業は月に堆積した塵、レゴリスを原料にした建材用レンガの生産だ。日々、破砕機で砕いた白灰色のレゴリス粉を練って、プレス機で生成し、地獄のように熱い窯で焼き上げているのだ。街の中心にある城塞のような工場の天辺からまっすぐに伸びる煙突は空を映した発光パネル突き抜けさらに伸び、地上に顔をだしている。
 月の表面から確認できるルモニエの街は、荒野に開いた巨大な出入り口のゲートとそれよりは小さないくつかの非常口、それから針のように突き出た煙突群でしかない。時折、灰白色のレンガを満載した月面トラックが巨大な口から滑るように吐き出され、長い夜が支配する荒涼とした月の平原を走り去って行く。トラックは真空のもたらす静寂の荒野をサーペンティンリッジの尾根を大きく迂回して晴れの海を横切り、バレンタインドームの地下都市を経由して雨の海に向かう長い旅に出る。
 さて地球で生まれ育ったわたしが月面のレンガ工場に勤務するきっかけとなったのは、不運なアクシデントがきっかけだった。
 地球の日本、日本海側の海が見える地方都市で、渡辺家の次男として生まれたわたしはとある工業高校を卒業すると、そのまま地元のプレス工場に就職した。十年ほど工場で車の部品などの金属部品をプレスする仕事に従事していたわたしは、ほんの少し学校で電気配線の勉強をしていたことを買われて、工場内の機械の改造やメンテナンスを請け負う工機課へと移動することとなった。今思い返せば、それが不運の始まりであったと思う。
 わたしの名前は漢字で書くと尊重の『尊』と書く。しかし本当は損害の『損』の方がお似合いではないのだろうか。
 あの日のことは忘れることはできない。工機課での業務も板についた頃だった。端的に書けば、メンテナンス中と表示され、動くはずがないプレス機が動き出してわたしを挟んだ。わたしはかろうじて命を取り留めたものの重傷を負い、身体機能回復のリハビリとトラウマの克服を終えての社会復帰に三年も費やすことになってしまったのだ。不運は続き、この社会復帰を待たずに工場は倒産し、路頭に迷ったわたしはいくつもの会社に履歴書を送信した。なんとかとりつけた面接では「どんな仕事でも前向きに取り組みます。もちろん転勤も問題ございません」となるべく明るく答えた。
不用意な約束は避けるべきであった。以前の会社にほど近い建材メーカーの職を得たものの、試用期間が終わった直後に月面の子会社への出向を命ぜられ、日本を出たことすらないわたしは、少ない私物と作業服、それから愛用の工具だけを持って月への定期便に乗る羽目になったのだ。

事件は起こった

 レゴリスレンガ工場の四号棟は検査係のルナーラクーンたちの縄張りだ。一号棟で砕かれ成形され、二号棟で焼き上げられ、三号棟で冷却された灰白色のレンガがつぎつぎとベルトコンベアで運ばれてくるこの外観検査室では、ベルトコンベアの挟むように互い違いに向かい合ったルナーラクーンたちが人間の何十倍も優れた触感覚をもった手のひらで、ざらざらした白灰色のレンガの表面をなで回すことで探傷し、規格外の傷があるレンガをはじいている。人間のわたしには狭いこの部屋は、老若入り交じったルナーラクーンのたちの恋色沙汰を大いにふくんだ噂話をささやき合う声でいつも賑やかだ。人間ほど外見で雌雄がはっきりと分からないが、ペンを数本ポケットにさした分厚い化繊のエプロンを身につけたルナーラクーンたちは全員女性だ。女の噂話好きは人もアライグマも変わらないらしい。

「ようも毎日話すことがつきねえもんだ」

 わたしの足下でぼやくようにつぶやいたのはオールドワンと呼ばれている茶色の毛並みのあちこちに白が交ざった老ルナーラクーンだ。オールドワンは月で初めて導入されたルナーラクーンの最後のひとりで、初期型らしくほぼ地球のアライグマと同じ大きさをしている。

「さっさと直して次にいくぞ次に」

 そう言うとオールドワンは口にモンキースパナをくわえて、壊れて部屋の端に寄せられたベルトコンベアの下に入っていった。彼はベテランの技術士で、この工場でのわたしの上司に当たる。無口で怒りっぽいところがあるが、新参で人間であるこのわたしにも隔てない好人物だ。
 分解したベルトコンベアの部品をなくさぬように油性ペンで番号を書きつけながら箱に順番に入れ、ふと腕時計を見るとデジタル表示が十二時を過ぎていた。いつもならきっかり十二時に工場の中庭にある大時計が昼休憩のチャイムを奏でるはずなのでわたしは首をかしげた。
 検査ラインのルナーラクーンたちも同じようで口々に疑問をつぶやきながら休止したベルトコンベアを離れていく。
 ちょいちょいとわたしの作業着のズボンの裾を引っ張る手がある。壊れた検査ラインの下から這い出したオールドワンの手だ。

「ソン。ちょっとどうなってるか見てこい。わるいが昼休みはあとだ」

 オールドワンの縮れたひげがひくひくと動いている。

「わかりましたオールドワンさん。いってきます」  

 灰白色の細かい砂塵が積もった中庭にある大時計は工場の百周年を記念して建てられたもので、この工場で作られたレンガを積み上げた灰白色の塔の上に月の岩石で作られた一抱えもありそうな白い文字盤が乗っている。高さは三メートルほどだろうか、時計を見上げてみれば黒い針が十一時半を示したまま停止していた。
 おのおのの持ち場を離れたルナーラクーンたちがうろうろと時計台周りに集まり、止まった文字盤をみあげて何か言い合ったり、指を差したりしている。わたしの口から、あっと驚きの声が漏れた。文字盤の十二時を示す隕鉄製の文字の下にぽかりと黒い穴が開いている。そこには少なくとも今朝まではルビー製の軸受けが装飾的にそのきらびやかに赤く輝く姿を覗かせていたはずだ。

「ソン!てめえやってくれたな!」

 日本海の冬の雷のような声がとどろき、わたしの足下をうろうろしていたルナーラクーンたちがそろってぴょんと飛び退いた。わたしもはじかれたように声の方向に顔を向ける。異常な長身かつ、月の生活が長いもの特有の日焼け一つ無い真っ白な肌を持った男、工場長のエイトケンだ。地球から出向してきたわたしを除けば、このレゴリスレンガ工場で人間と言えば彼しかいない。わたしは背もあり少し腹も出ており小柄な方ではないが、彼は二メートル近い長身を鍛え上げられた筋肉で固めており、もはや巨人とでも形容した方がよい。エイトケンはその巨体で工場を歩き回り、大声でがなり立てるので工場中のルナーラクーンたちから恐れられている。

「な、なんのことですか」
「おうとぼける気か?これはなんだ!よーく見てみろ」

 エイトケンの取り巻きのぼさぼさした毛並みのルナーラクーンがわたしのブリキ製の工具箱を難儀しながら持ち上げてエイトケンに差し出す。エイトケンはそれをひったくるように奪うと、無造作に白くて粉っぽい月面独特の地面に投げ出した。

「何するんだ!」

 飛び散る工具にあわてて飛びつくと、逆さになった工具箱の影から拳ほどの大きさの半透明の赤い円盤状の部品が一つ転がり出てきた。燃えるように赤いルビーの軸受け。時計の文字盤の表面に突き出ていたはずの赤い宝石!

「おまえなら時計の分解ぐらい、たやすいもんな」

 地面に膝をついて、覚えがないその部品を見つめるわたしに目の前にエイトケンの作業靴を履いた足が下ろされる。

「知りません!こんなものさっきまでは入ってなかった…」
「おい、こいつを縛り付けろ!ソン、話はあとで警部殿にでもゆっくり聞いてもらうんだな」

 やれ、と取り巻きたちにエイトケンが言い捨てると筋肉質の数人のルナーラクーンたちがわたしに飛びかかってきた。細かい月の白い砂、茶色いかたい毛、それらがもうもうと舞い上がってわたしの鼻に入って激しいくしゃみを誘発する。もだえるわたしをルナーラクーンたちは工場から持ち出した適当な配線コードであっという間に縛り上げ、わたしは無残に乾いた砂の地面に倒れ込むこととなった。
 

名探偵あらわる

「通報感謝しますエイトケンさん。しかしやり過ぎです。場合によってはあなたも罪に問わなければならないかもしれませんよ」
「はあ?みすみすコソ泥野郎を見逃せってか?」
「いいえそうはいってないです」

 エイトケンのやつが地面に倒れ込んだわたし背中の上に座っていてこちらは身動き一つとれない。仕事に戻れというエイトケンの一喝であれほどうろうろ歩き回っていたルナーラクーンたちはみんな昼食もとらずに各自の持ち場に戻ったようだ。エイトケンの割れ鐘のような声と、心地よいが微かなノイズが混ざった、知らない声がする。

「とにかく退いてください」
「ちっ!逃がすなよ」

 すっと背中から重みが消え、地獄の責め苦から解放されたわたしは大きく息を吸った。くるりと視界がまわる。新手の誰かがわたしの体を反転してくれたらしい。

「こんにちは。ワタナベ・ソンさん。わたしはルモニエの治安維持機構から来ましたEMNー44です。こうみえても人間ではなくアンドロイドなんです。親しみをこめてエモン警部と呼んでくれてもいいですよ」

 わたしは息をのんだ。地球の警察に似た制服を着たその男にはあるべき顔がなく、ネクタイとワイシャツの襟の上には工場の機械に据え付けてあるような、機械の状態を示すタワー型のパイロットライトが乗っている。わたしにはなじみ深い、円筒形状をした部品だ。上から赤、橙、緑のLEDランプが縦に並び、今は緑が煌々と輝いている。

「ああすみません。おどろきましたか?本当は平均的な人類が好感を抱くような顔がここにあったのですが、先日、強盗にショットガンで吹き飛ばされてしまいまして……いわゆる名誉の負傷ですね」

 EMN……エモン警部は強化プラスチックで出来たパイロットライトの表面を白い手袋で包まれた指で叩く。

「あいにくまだ地球から修理パーツが届きません。まあ頭など無くても自分は平気なのですが、あなたみたいな人間やルナーラクーンたちのようなタンパク質と脂質で物事を理解する方々は『表情』がないと不安なんでしょう?というわけでね、代品を取り付けたわけです」

 わかりましたか?とノイズ混じりにささやくと、緑色のライトが消灯し、代わりに橙色が点灯した

「さあ、自己紹介はこれくらいにしてお仕事をしましょう。ソンさん、正直にはなしてくださいね。なお、会話はすべて録音されています」
「本当にしらないんです。わたしじゃない」

 まだ横たわったままのわたしの手足が緊張で冷たくなっている。エモン警部はわたしの側に静かにしゃがんだまま橙色のLEDライトを激しく点滅させた。エイトケンがイライラと貧乏揺すりを始める。

「おいさっさとそいつを連行してくれ。俺も仕事に戻りたいんでな」
「ええ、そうですね。ではソンさんを署にお連れしてからゆっくり現場検証を……」
「待ちたまえ。エモン警部、君はまた誤認逮捕を繰り返す気かい?その人を離すんだ」

 甲高い声。わたしは何とかそちらの方に顔を向けた。中庭の入り口側、一人のルナーラクーンがぴんと背筋を伸ばして立っている。

「だれだてめえ!ここは部外者立ち入り禁止だ!」

 そのルナーラクーンは、雷鳴のようなエイトケンの声に少しもたじろがずに堂々と、とかかとを付けた二足歩行でこちらの方に歩いてくる。むくむくとした丸い体格が標準のルナーラクーンにしてはほっそりとしており、そのシルエットはどこかイタチを思わせるシャープさがあった。格子模様のインパネスコートを羽織り、頭には鹿撃ち帽……むろんこの瞬間には気がつかなかったが後からその姿をじっくり確認すると、その帽子の天辺に穴が開けてあって丸い耳が飛び出しており、耳を出すのに邪魔な耳当て部分は垂らされてリボンが顎の下でちょうちょう結びになっていた。

「僕の名前はロンドン。月で一番の私立探偵さ。そこのエモン警部に請われて、付き添いとしてここに来たんだ。ね?」

 エイトケンが鋭い目つきでエモン警部を睨む。するとエモン警部のLEDライトがすべて消灯した。後からロンドンに聞いたところによると、エモン警部の頭を吹き飛ばした強盗一味のアジトを突き止め、一斉検挙につなげたのはロンドンの密かな功績の一つだという。両手足の指の数を足し合わせても足りない。エモン警部への貸しの一つだとロンドンは笑う。
 ロンドンは音もなくわたしの元に走り寄ると、コートのポケットから取り出した鋭い折りたたみナイフで、わたしの手足を縛る電源コードを素早く切断してくれた。わたしはようやく体を伸ばし、ゆっくりとその場に座り込む。

「探偵だかなんだかしらねーが、首を突っ込んでくるんじゃねえ。こいつがやった証拠はあるんだ!こいつの工具箱の中から盗んだ時計の軸受けが出てきてんだよ!」
「ふむ、これのことか」

 ロンドンは地面に転がったままの工具箱の影からキラキラ輝く赤い軸受けを拾い上げると、短い鼻面を近づけスンスンと臭いを嗅いだ。鼻の周りから四方に伸びた白くてしなやかなひげが揺れている。彼はひとしきり臭いを嗅いだ後、ポケットから取り出した拡大鏡で眺めたり、ルモニエの街を照らす蛍光パネルの光に透かしたりと注意深く、わたしにとっては忌まわしい半透明の軸受けを観察しつくしたようだ。

「ふふ……これは!」

 いきなり笑い出したロンドンにエイトケンが掴みかかりそうになり、あわててエモン警部が羽交い締めにした。ロンドンはその足下に手にした軸受けを転がした。赤ライトを点灯させたエモン警部の声に強いノイズが混ざる。

「ロンドンさん!それはとても価値があるものです!」
「偽物ですそれは。ガラス製ですよ。試しに割って見せましょうか?手間はかかってるがルビーの価値には少しも及びません」
「は?」

 厳ついエイトケンの顔が、一瞬で目と口をだらしなく開いた間抜け顔に変わった。

「じゃあ、だれがそんな手間のかかったことをしたんです?本物のルビーの軸受けはどこに?」

 エイトケンを羽交い締めにしたままエモン警部がロンドンに問いかける。ロンドンはまたポケットに手を差し込むと黒いストレートパイプをとりだした。昔の映画や博物館でしかみたことはないが、今は絶えた習慣、喫煙で使用していた道具らしい。ロンドンは先端に何も詰まっていないパイプの吸い口を小さくも鋭い牙でしばらくかしかしとかじってから言った。

「それはまだ分かりませんね」

 フンとエイトケンは鼻を鳴らし、強引にエモン警部の腕から抜け出すと、彼の縄張りである工場の方へと歩き去った。
 

君はシャーロック・ホームズを知っているか

 ロンドン探偵はポケットから取り出したアナログな紙のメモに何かを書きつけるとエモン警部に差し出した。かがんでそれを受け取ったエモン警部はそれを一瞥すると赤、橙、緑すべてのライトを点灯させ、足をもつれさせながら時計台のある中庭から工場の外へと走り去った。わたしはそれをあっけにとれて見送ってから、砂まみれになってしまった作業服を手で払い、散らばったままの工具を工具箱に収めはじめた。するとロンドンがとことこと歩き寄ってきた。彼が歩くとき、白に近い茶色と黒に近い茶色の輪が交互に並ぶ太い尻尾が地面につかないように少し浮いている。後から聞いたところによると、これはうかつに地面に残った証拠を消さないための探偵術のひとつであるという。

「疑いがはれたとはいえ、仕事に戻るのは待ってほしい。この盗難事件を解決するに当たって、君に協力してほしいことがいくつかあるんだ」

じっとロンドンの瞳が請うようにわたしを見つめている。帽子のつばと黒い毛皮で目立たないがロンドンの瞳はつぶらで可愛らしく、見つめられれば、むげに出来ないような力があった。

「わ、分かりました。では半休をとってきますんでちょっと待ってください」

 検査室で呆然と座っていたオールドワンはわたしの姿を見ると背中の毛を逆立てて走り寄ってきた。

「話は聞いたぞ、災難だったな」

 かしかしと落ち着き無く頭をかきながらオールドワンはわたしの心配をしてくれた。

「もう仕事という気にもならんだろう、今日はもう帰っていい。明日は土曜日だからゆっくり休むといい」
「ありがとうございます」

 思わぬところで半休を取る手間が省けてしまった。わたしはオールドワンに頭を下げると、ロッカールームで安全帽と作業着を脱ぎ、自前のワイシャツとスラックスに着替えて中庭へと急いだ。

「ああ、そこは踏まないでくれ!まだ確認が済んでいない」

 鋭い声で制止され、わたしは中庭に踏み込む直前で固まった。ロンドンは腹ばいになり、時計台の側の硬く乾いた灰白色の地面を拡大鏡で見つめている。

「ああ、すっかりアライグマの友人たちの足で踏み荒らされているな……人の足跡は……二種類か?巨大なものと少し小型の……」
「あ、うちの工場にいる人間はわたしとさっきのエイトケンの二人だけです」
「ふむ……なるほどね」

 わたしの声が聞こえているのかいないのか、ロンドンは顔を上げずに、太い尻尾を大きくゆらして見せた。

「そういえば、さっきはありがとうございました。お礼が遅くなってすみません」
「いや、礼にはおよばないよ。僕は正しいことをなしたいだけだ」
「わたしは渡辺尊といいます。この工場で機械の修理を担当しています」
「略してワタソンか!」

 ロンドンが顔を上げてわたしを見つめた。ワタソン、その妙な略称が、わたしの頭の中に一人の架空の人物の姿を想起させた。鹿撃帽にインパネスコート姿がトレードマークとして広まっている名探偵といえば。

「シャーロック・ホームズ?そうかあなたのその格好はシャーロック・ホームズ?」

 ギャン!とロンドンが一声吠えたのでわたしはぎょっとして彼を凝視した。たち上がった彼はふるふると震え、インパネスコートからはみ出た柔らかそうな腹毛や背毛が根元から逆立っているように見える。

「君はシャーロック・ホームズを知っているんだね?ワタソン君!あの素晴らしい名探偵を!ふふ、この僕のリスペクトにあふれた格好が分かるというのだから!
 この僕、ロンドンは地球で一番優れた名探偵であるシャーロック・ホームズ氏にはさすがにおよばないものの、月で一番の私立探偵を自負しているんだ」

 ロンドンはその場で片足立ちになり、くるりと回転してみせる。ロンドンが被っている鹿討帽の耳当てが垂れていたから、彼とシャーロック・ホームズが今の今までわたしの中で結びつかなかった。この世にシャーロック・ホームズを描いたイラストは数あれど、おそらく鹿撃帽の耳当てを垂らして顎の下でひもをちょうちょう結びにしている名探偵は一人もいないだろう。今にして思えば、きっとこの名探偵に憧れるアライグマは自分の耳と帽子の形状との兼ね合いと妥協の末、帽子に穴をあけ、耳当てを垂らして顎の下で紐を結んだのだろうと察せられる。

「ワタソン君!君はもちろん、シャーロック・ホームズの原作を全巻、読んだことがあるんだろうね?」

 わたしはあいまいな笑みを浮かべた。これを言えばきっとこのアライグマ探偵はガッカリするからだ。

「名前は知ってるけど、原作は読んだことがないんだ」

 まんまるに輝いていたロンドンの瞳から光が消えたことが数メートルも離れたここからでも分かる。

「不勉強だよ、ワタソン君。よろしい、この事件が解決したら僕の部屋に来たまえ。シリーズ全巻、そろえて君に進呈しよう。君は早急にシャーロック・ホームズ、その人を知る必要がある」
「はあ……ありがとう?ございます」
「じゃあ、早く真相を明らかにすべきだね。ワタソン君、ちょっとここにきてくれないか」

 時計台から人の足で六歩ほども離れた場所からロンドンは手招きする。

「この不明瞭な足跡は明らかに人間が履いている安全靴の痕だが君よりも大きい、しかし今、君が付けてきた足跡よりは浅く、かかとに至っては線の一本すら残っていない。つま先だけの浅い足跡だ」
「事件とは関係ないのでは?時計台から離れすぎている気がするんですが」
「そうかもな……奇妙な点がまだある。この足跡は左足だが右足の跡は……それらしき跡は時計台の方向に三歩も先にある」

 そうつぶやいたきり、ロンドンは両手で鼻先を押さえるようなボーズで固まってしまった。わたしは視線をさまよわせたあげく、時計台のルビーの軸受けが消えた穴を眺めた。

「犯人はどうしてわたしに罪を着せようとしたんでしょうね……」

 ロンドンがわたしを見上げて言った。

「そう、それも早々に偽装がばれる方法でだ。あの場での僕の助けがなかったとしても、エモン警部の取り調べのどこかであの軸受けがガラスの偽物だということは明らかになるはずだ。おそらく君が巻き込まれた一連の茶番はただの時間稼ぎ、犯人は短い時間でルビーの軸受けを金に換えるあてがあったか、あるいはそれそのものを誰かに渡す必要があったかだ。これについては当てがないわけでもない」

 ふしゅんとロンドンの鼻から息が漏れた。

「あのエイトケンという人間の経歴は知ってるか?」

 わたしは眉根を寄せた。あの粗暴なエイトケンと関わり合いになりたいものは、人間にもアライグマもほとんどいない、ただあのエイトケンは粗暴な反面、妙に義理堅いところがあった。

「残念ながら彼のことはほとんど知りません。ただエイトケンさんは長期休みになると、このルモニエの南にあるドーズの街にいくみたいです。そこの名前が入ったお菓子を休み明けに配ってました」

 エイトケンの取り巻きの一人の中年のルナーラクーンの女性が配っていた、月面のように乾いたせんべいの外装にドーズ銘菓と書かれていたことを思い出す。ロンドンがぱかりと口を半開きにした。

「いい情報だ!ねえワタソン、僕とドライブをする気はあるかい?なに、明日の昼にはここにもどってこれるさ」

 私たちは月面車を借りると運転席にルナーラクーン用のアタッチメントを取り付け、ドアユニットの気密性と燃料および酸素の量を念入りに確認した。いまから飛び出す月の荒野に大気はない。マシントラブルは死に直結する。

「そう緊張するなワタソン。こうみえて僕にはプロ並みの運転技術がある」
「はあ、それはなによりです」

 わたしの笑みは引きつっていた。顔だけでなく肩や腰の筋肉が緊張で固まっている。ルモニエからドーズと呼ばれるクレーターの影にある小規模な地下都市への長時間ドライブも憂鬱だが、それ以上にわたしが恐れているのは、街の東端に口を開けたゲートから、なだらかな螺旋をえがいて地上に向かうトンネルの存在だ。
 月の重力は地球の六分の一しかないが、地下都市の中に限っては違う。長く地球の生き物が暮らせるようにと、地球と同じ重力になるようテクノロジーの力で調整されているのだ。ルモニエも例外ではなく、町中に重力調整パネルが敷き詰められている。だがこの街では工場からの粉塵や地上から運ばれ来た細かい月の砂塵にパネルが埋もれており、普段はその技術の結晶をほとんど意識することもない。

「うえええええ」

 月面車がゲートを通り抜け、上り坂のトンネルの天井にいくつも取り付けられた光の輪がくぐるたび、わたしは無様な悲鳴をあげた。青から始まった光の輪が水色、緑と順々に通り過ぎていく、そのたびに慣れ親しんだ地球の重力が徐々に月の弱い重力に変わっていく。内臓が浮かぶような感覚に口から悲鳴がとまらない。わたしの右側でハンドルを握るロンドンが声を上げて笑っていた。

「さあワタソン、あれをみたまえ!もうすぐ月面だ」

 ロンドンがハンドルを掴んだまま身を乗り出す。ぽっかり開いたゲートの向こうに宇宙の黒が見える。完璧な暗闇の中、瞬かないダイヤモンドのような星々が輝いてた。
 色彩のない月の荒野から突き出たルモニエのレンガ工場の煙突群を背に、我々の月面車はこまかい砂塵を巻き起こしながらひたすら走る。ドーズの街まではサーペンティンリッジ長い尾根を遠目に見ながら、ひたすら南下すればよい。ドーズの名前の由来となったクレーターの影にあるという小さな地下都市まで、われわれの小旅行は続く。

「時間はたっぷりあるんだ。君にわたしがシャーロック・ホームズ氏から学んだこと、たとえば探偵術……いやまずは生き方そのものについて……少しかいつまんで話そう」

 わたしはこの短い旅で嫌というほど思い知ることとなる。隣でハンドルを握る、きわめて可愛らしい顔をした探偵があきれるほど多弁であることを。
 

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