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もっと本気で、真剣に。

 「もっと本気でやれ」とか「真剣に取り組め」なんてよく言われてきた。ハングリー精神がないと怒鳴られたことも。確かに貪欲さみたいな感情は、どこかに置いてきたと思う。だけど、お腹が空いたら食べるものはあるし、雨風をしのげる屋根もある。着るものまであるんだから。飢えようがない。

 こんな感じだから、どうしても手に入れたいものもない。むしろ長いこと「人生は消化試合」とさえ感じている。それも試合にも出られず、ベンチを温めながら、こうして管を巻いてるというわけ。
 それでも、生まれてきちまったからには、生きるしかないよね。スタートラインがそこだから、みんなと感覚が違いすぎて、ついていけないと感じることがよくある(きっと、向こうからもそう思われている)

 仕事でもそれは同じで。ここ数年は昇進試験を巡って色々言われていて。やれ気概が足りないだの、示しがつかないだの。通過儀礼みたいなもんだ、能力は評価しているんだぞ、なんて言われるけれど。もう勝手にしてくれ、好きなように言えばいい。そう思っている。

 多分、これまで否定されすぎて、どうでもよくなっちまったのだろうと、自分では分析していて。だけど他人から見たら、甘やかされて育ったとか、頭の中がお花畑に見えるらしい。もちろん、どう見るかはその人の自由なのだし、それを覆してやろうとも思わない。でも箸の持ち方が悪いと、罵声とともに茶碗が飛んでくる食卓で育ったことを思い返すと、そこまで幸せじゃなかったと思う。
 もっとも、ご飯がもらえるだけまし、ミサイルが飛んできたわけじゃないでしょって言われたら。何も言い返せないのだけど。

 程々に働いて、自分の時間を大切にしたい。誰かに振り回されるなんて、もううんざり。好きなように写真を撮って、好きなことだけ書いていたい。そう思っているくせに。ときどきは誰かと話をしたいとか、声を聴きたい、なんて思ってしまう。

 先日、縁あって写真展に参加させてもらった。はじめての経験ばかりで、すごく良くしてもらって、楽しいこともあったけど。写真家になりたいとは思ったことがなくて。それじゃあこの企画に参加している自分は何なんだ。その席、誰かに譲ってやれよって声が、ずっと頭の中で鳴っていた。
 これをチャンスと捉える人もいるだろうし、成し遂げたって喜ぶ人だっているだろうけど。自分にとっては疲れの方が大きくて、しんどかったなって思い返している。

 まったく、らしくない。自分らしくないことを、するものじゃないんだ。それでも続けたのは途中まで関わってしまったから。後には引けなかった。また最後まで続けられたのは、独りではなかったから。協力してくれる人がいたから、祝福してくれる人がいたから。苦しかったけど、うれしいこともあった。
 こうして相容れない気持ちがぶつかり合い、自分が張り裂けそうになる。

 こんな風に、思うことを、好きなように書きながら。僕はわりと真剣に、自分の気持ちと向き合っているよ。
 どうしてそう感じるのか、本当はどうしたいのか。そうやっていつでも、自分のことだけ考えている。まるで、血を吐くような気持ちで。


写真:西印旛沼の朝焼け

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