見出し画像

死んだ状態をあらわす

 大江健三郎と古井由吉の対談本『文学の淵を渡る』(新潮文庫)には、文学の本質についての示唆が多く含まれている。

 この本の冒頭近くで、「死んで在る」という状態をどのように描くかという問題がとりあげられており、大江健三郎は次のように述べている。

高校生のときに頭のいい先輩と話していて、その人が、死を恐怖することは無意味だ。die(死ぬ)という動きがあって、その後には自分は存在しないのだから、存在しないものを憂えてもしようがないし、死ぬという行為以前には生きているのだから、まだやってこない死を恐れてもしようがないということをいわれた。周りの友人たちはみんな感心したんですが、僕はそれは間違っているのではないか、死んでいるという状態があるのではないか、と思ったものでした。

大江健三郎・古井由吉『文学の淵を渡る』

 大江健三郎のデビュー作である『死者の奢り』において、主人公の一人語りという形態をとりつつも、脱走兵の死体に語らせるという発想には、死んでいる状態の人間と生きている状態の人間はいかにしてつながれるのか、というモチーフがすでに表れていて、それは大江の作品にかなり長い間貫流していたテーマであったように思える。

 『文学の淵を渡る』では、死んでいる状態を表現している小説としていくつかの事例が挙げられており、たとえば大江は梅崎春生「幻化」を挙げ、古井は同じ梅崎の「風宴」を挙げる。

 梅崎春生の「幻化」には、病院を抜け出した主人公が阿蘇山の火口に旅行し、たまたま知り合った男が火口の周りをよろめきながら歩くさまを見て、励ましの言葉をつぶやいている様子が描かれる。大江はその描写が、死者が生者を見つめて励ますような気持ちが投影されて、見事であると述べている。

 「幻化」にはその他さまざまな生と死にかかわる比喩表現が提示されているが、個人的には以下の一節が気になった。

 入院中に見たテレビの一画面を、彼はふと思い出した。宇宙船から乗員が這い出して、空中を散歩するのである。アナウンサーの解説では、人間史上画期的な瞬間だそうだが、彼にはひどく醜悪なものに見えた。ぶよぶよした貝の肉のようなものから、畸形の獣めいたものが出て来る。這い出るのに苦労をするらしく、しきりにもがいている。やっと出て来ると、そいつはへんな動き方をしながら、宙に浮く。彼は視線を外らそうと思いながら、やはりその時眼が離せなかった。
〈病院からおれが脱出したのも、これと同じではないか。むりをして、もがいて、苦しんで――〉
 しかも醜怪なものに変形するという犠牲まではらって、おれは何を得たのか。現実に角を突き合わして、手痛い反撃を受けただけの話だ。
 歩いている町のところどころに、はっと記憶をつついて来るような眺めがあらわれる。神社の鳥居とか、質屋の白壁の土蔵とか。そこだけが昔の形のままで残っている。それを取巻く風景には馴染がない。彼は首を傾ける。道筋もすこし変化したらしい。たとえば昔は曲っていた道が、今はまっすぐになっている。さびれていた道がにぎやかになり、魚屋や八百屋が店を開いている。

梅崎春生「幻化」

 この小説の全体を、「死の状態にある人間の感覚」だと捉えれば、上記の「宇宙船から出て来る乗員」はまさに生まれ出てくる者であり、出産のメタファーであると読める。主人公は死んだような気持ちで東京の病院から脱け出して、そのまま飛行機に飛び乗り九州までやってくるのだが、生れ出てくることの醜悪さ、奇怪さを描くことで、この主人公にとっての死んでいる状態の心地よさが浮かび上がる。

 ここで実際に主人公が生きているか死んでいるかは、実は問題にならないのかもしれない。死んだ状態が心地よい、という認識こそが問題である。死んだ状態が心地よいわけは、死者の経験を共有して一体化することができる、すなわち死者の語りを通じた自己同一化の快楽が満たされるからではないだろうか。たとえば大江健三郎は、『新しい文学のために』(岩波新書)において、小説を書く心がけとして「死者と共に生きよ。」と述べている。すなわちそれは、生まれ育った谷間において、土地の伝承を語り継ぐという営みを通じて、死者との共生をはかる、あるいは死者と時間を共有するということを意味する。

 『文学の淵を渡る』で、さらに大江は古井の専門でもあるムージルの『特性のない男』に触れて、そこに示された死んでいる人たちが考えるような社会こそが究極の小説であり、その行き着く先は「聖譚」ではないかと述べているのである。ここに小説の至る先の神聖性と、それがゆえにはらむ魅惑的な危険性とが両義的に発生してくるように思える。

 また、伝承が生者と死者をつなぐ接点であるという認識は、歴史というものの文学的な捉え方にも関係してくるだろう。古くからの言い伝えは死者からの伝言である。他方で死者はその伝承に新たな注釈をつけることはできないので、必然的に生者の側で好きなように解釈するという「捉え直し」の芸当も可能になってくる。

 そうすると問題は、生と死をつなぐことによる自己同一化とその快楽が、死者に対する尊重や畏敬をはみ出して、自ら死ぬことへの渇望や賛美につながっていくという問題へ拡大してくるし、あるいは自己同一化欲求を民族空間的に拡大したナショナリズムの問題までも広がってゆくように思われる。
 





この記事が参加している募集

読書感想文

新書が好き

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?