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育児が私を置いて行く


とある夜の一コマ


息子は寝相が悪い。

寝かしつけの最中から、これでもかというほどゴロンゴロンと移動する。布団の端から端まで、立ち上がっては歩き、寝転がり、体の上に乗り、乗り越え、また立ち上がり。
完全に目を覚ましているのではなく、うとうとしているようにも見えるのに、足取りは意外としっかりしている。「よく動く」赤ちゃんだった息子は、幼児になった今でも、一日の終わりのその瞬間まで動かずにはいられないらしい。

その活発な寝相は、ときどき、私にえらく深刻なダメージを与える。

ぶつかるのだ。体が。
意外と固い頭や、ふくふくと力強くなった手足が、時速何メートルかのスピードで加速度を伴って体の上に落ちてくる。お腹やお尻で受け止められたらまだ幸いで、額や、顎や、目元に降ってくることもある。骨と骨がぶつかると意外と痛い。そしていつも負けるのは私の方だ。

ワンオペの夜。暗くした寝室。いるのは私の息子の二人だけ。静かにして、できるだけ興奮させないように動き回る息子を適度に宥めながら寝かしつける。

それなのに。

不意に息子の体が豪速球となって降ってくる。
ぶつかったら最後。悶絶するしかない。


とはいえ、ぶつかったからといって「痛い!」と大声を出すことも、まだ3歳の息子に「痛いよ!」を咎めることもできない。息子に悪気はなく、ぶつかったのは本当に偶然で、だからそれは不幸な出来事に過ぎない。誰が悪いわけでもなく、ただただ不幸だったというだけだ。
だから痛みを噛み締めながら「大丈夫? お母さん、少し痛かったよ。いきなり乗らないでね」と嗜めるのが精一杯だ。

頭をぶつけて痛いという瞬間を、気がすむまで味わうことは難しい。



過去と未来しかない


少し前に、知人から「まるであなたの人生には過去と未来しかないようだね」と言われたことがある。同時に「今、ここを生きている感覚がとても薄そう」とも。

それを言われたとき、不思議と腑に落ちるものがあった。毎日が忙しないのだ、とても。

朝の仕事が一息ついたら、昼の仕事の段取りを考える。昼の仕事が落ち着いたら、帰宅してからの段取りを考える。家で息子と食事をしながら、寝かしつけた後にやることに思いを馳せる。

目の前に現れる「今」が猛スピードで「過去」になっていって、視線はどんどん先の「未来」のことばかりに行ってしまう。マインドフルネスで使われる「今、ここ」の感覚とは真逆だ。それくらい、私にとって「今」は薄く、軽く、儚い。


「この時間がずっと続いてほしい」と願うような感情を、久しく味わっていないように思う。どんな時間でも、それがどれだけ楽しくても、あるいは辛くても、いつかは必ず「終わる」のだ。そして終わった先にも日常は続く。友人と楽しく飲んでいても「でも明日は予定通り朝から仕事だ」とか、なにか趣味に没頭していても「家族の食事を用意しておかないと後から困る」とか。とにかく「今」のその先ばかりに気持ちがいってしまう。

私は別に極端なリアリストではないし、時間をすごく大切にできるわけでも、段取りを考えるのが好きなわけでもない。むしろ侵食を忘れて好きなことに没頭したいし、自分が「尊い」と感じることには永遠に浸っていたい。それが信条だったし、そんな人生を送っているはずだった。それなのに今、なんでこんなにも理想と現実に差が生まれてしまったのか。


数日考えて、わかった。
育児が始まったからだ。



育児はどんどん変化していく


気がつけば、子育てを始めて3年が過ぎた。仕事でもなんでも、3年も経てばたいていのことには慣れるものだが、こと育児に関して、私は未だにまったく慣れていない。如何せん、子どもの変化が早すぎる。

生まれてからずっと、私は息子オリジナルの子育てマニュアルを頭の中に作ってきた。眠たいときほど不機嫌になって寝たがらない。バナナが好き。朝ごはんは少なめ。晩ごはんはモリモリ食べる。自宅のトイレは好きじゃない。なぜかいきなりオムツとズボンを脱ぐ。お湯で遊ぶのが好き。でもお風呂に行くのは苦手。最近は保冷剤を持って浴室に行くと、割と機嫌良くついてきてくれる、などなど。
このマニュアルが、日々、凄まじいスピードで書き換えられて行く。

ある日突然「台の上に乗れば高いところにあるものに手が届く」と気づき、流し台にある包丁に手を伸ばす。椅子から椅子に飛び移るという謎の遊びを発明する。好きだったヨーグルトを食べない。
その早さこそが乳幼児の成長の証なのだと言ってしまえばそれまでだが、にしても追いかける親としては中々、ハードだ。

子どもと一緒にいる「今」を大事にしたいと思う反面、この「今」が予想外のことばかりで落ち着かない。気がつけば「今、目の前にいる息子」を必死で追いかけるあまり、一緒に過ごした「今」の記憶が抜け落ちてしまう。


冒頭に話を戻せば、息子との「寝かしつけ」も、私にとっては「落ち着かない」事柄の一つだ。
息子の頭が私の目元に突っ込んできたとしても、私にはその痛みを十分に感じる余裕がない。痛みに顔を覆う私を見て「大丈夫?」と声をかけてくれる第三者もいない。痛い痛いと思いながらも、痛い痛いと口にはしない。過度に大きな声を出さないように心がけ、息子に声をかけ、寝かしつけを続けることばかりに思考が飛んでいる。

子どもはどんどん私を置いて行く。私は必死に追いかける。追いかけて、追いかけて、ようやく追いついたと思った時には、子どもはまった違うところへ走って行く。その繰り返し。いつまで経っても追いつかない。いつまでも不完全で、未完了な感覚ばかりが残ってしまう。



「自己犠牲型のギバー」の難しさ


『GIVE & TAKE』という書籍では、人間は三種類に分けられていた。「Giver(与える人)」「Taker(受け取る人)」「Matcher(その両方)」だ。そして「Giver」はさらに「自己犠牲型」と「他者思考型」に分けられていた。

育児は、多かれ少なかれ、相手に「与える」行為がある。もちろん、子どもと一緒にいることで自分が何かを与えられることもあるから、一方的な「give」ばかりではないだろう。だが、そうは言っても、「与えなければならないこと」が桁違いに多い。

さらに言えば、子育ての「give」は評価されることが少なく、また、思うような成果(評価)を得られないことも多い。その状況で与え続けようとしても、心が折れてしまったり、上手く現実と向き合えなかったりすることもある。

ギバーが燃え尽きるのは、与えすぎたことよりも、与えたことでもたらされた影響を、前向きに認めてもらえっていないことが原因なのである。
ギバーは、与えることに時間とエネルギーを注ぎ込みすぎるせいで燃え尽きるのではない。困っている人をうまく助けてやれないときに、燃え尽きるのである。

『GIVE & TAKE〜「与える人」こそ成功する時代〜』

育児というのは、おそらく「自己犠牲型のギバー」になりがちな行為なのだろう。親から子への無償の愛とはいうけれど、実際にそうでありたいとは思うけれど、それでも愛は無限に湧き出してくるものではない。どこかで補充するか、溢れ出すのを止めるか、どちらかをしないと、すぐに枯れてしまう。

やってもやっても、不完全感が拭えないのは、そもそも育児が「そういうもの」だからなのだろう。今を噛み締める暇もなく、労力の割に報われない虚しさを感じてしまうのも、いくらやっても一向に満足できない、これでいいと思えないのも。だからある程度、それこそ「子どもが手を離れるまで」は仕方がないのかもしれない。


ちなみに書籍では、心身をすり減らさないための「give」が紹介されている。ひたすら相手に尽くすのではなく、「自分が元気が出る」ような「give」をする。「他者思考型のギバー」としての在り方だ。

自分の努力を確認できるようなもの、楽しいと思えるようなもの、きちんと計画して与えられるもの。そういった、自分でコントロールできて、かつ達成感を感じられるような「give」であれば、自分自身を思いやることができる。そのgiveを増やしながら、「自己犠牲型になりがちなgive」を行う気力を取り戻していく、あるいはその「give」を自己犠牲からより建設的なものにしていく。

子育てをしている人が「育児だけはない何か別のもの」を追い求める心理の根っこは、これなのかもしれない。



それでも育児は続く


とはいえ、相変わらず育児は私を置いて、明後日の方向に走って行く。あっという間に「今」が「過去」になって、次々と新しい、予測もできない「未来」に直面する。

子どもと一緒にいられる時間は短い。10年もすれば、友達と遊んで、好きなことをして、親元を離れて行く。

そんなことを言われても、素直に納得できない。なぜならその10年は、私がこれまで生きてきた時間の1/3に相当するほど長い時間で、その長い時間を「そのうち」と捉えられるほど、私は成熟していない。

だからしばらく、育児との追いかけっこは続くだろう。絶対に追いつかない。追いつくとか追い越すとか、捕まえるとか捕まえられないとか、そういう話ですらないはずなのに、それでも育児を追いかけようとして、今を振り切りながら走るのかもしれない。


いつか「今、私は、育児をしている」と感じられる日が来るその時まで。







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