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「少子化だから子どもを産んで高齢者を支えてね」と子どもに伝える前に考えたいこと


「少子高齢化」という言葉を初めて聞いたのは、小学校6年生のことだった。


よく晴れた日、教室には大きな窓があって、青空と白い雲がよく見えた。教科書には2つの人口ピラミッド。綺麗な3角形と、鐘のような棒グラフ。昔は子供がたくさんいて、高齢者が少なかった。だから一人の高齢者を何人もの若者が支えられた。けれど今は、高齢者が増えて子供が減っている。このままいくと一人の高齢者を1人か2人の若者で支えなければならない、と。

客観的な事実が載せられた教科書の一ページ。その紙切れ一枚に、私は強烈な違和感を感じた。


なんだこれは、どういうことだ。


この教科書は、この教科書の書き手は何を言いたいのだろうか。高齢者はどんどん増えていくから、若いあなたたちは頑張って高齢者を支えてね。子どもがこれ以上減るとますます支え手がいなくなるから、どんどん子どもを生んでね。じゃないと大変なことになるよとでも言いたいのだろうか、と。


当時、私はまだ小学生だった。初潮もまだだった。それでも自分が生物学的に女であり、妊娠出産する可能性があることを知っていた。10代向けの少女漫画も読み始めていて、そこにはレイプや望まない妊娠のリスクが描かれていた。だから単純に「将来はお嫁さんになって子どもは三人産むの」という幻想を抱くような子どもではなかった。そんな夢見がちな子供ではなかった。

そのせいだろうか。少子高齢化の人口ピラミッドに強烈な違和感を感じた。望んでこの世に生まれてきたわけではないのに、立派な労働者、立派な母親であることを望まれる。産めよ増やせよのスローガンは、明治維新から第二次世界大戦にかけてのものだっと思っていた。出産しない女が家を追い出されるのは、戦国時代や江戸時代の話だと教わった。時は平成、それも21世紀に差し掛かろうとしていた時代。にも関わらず、女性というだけで「労働」と「出産」を誰かから押し付けられているような気がした。



産んでくれなんて言っていない。変えてくれとも頼んでない


10代の頃、ゆとり教育が始まった。

大人たちが勝手に学習カリキュラムを変えた。そしてゆとり教育だと馬鹿にされた。ゆとり教育なんてしたら子どもが馬鹿になると。

知らねーよと思っていた。

ゆとり教育にしてくれなんて子どもは一言も頼んでない。ヒアリングすらされてない。教育カリキュラムはどうですかなんて一言も聞かれたことはない。とりあえず生まれて、小学校に通わせてもらって。それがなんの役に立つのかもわからないまま授業を受けて。わからないなりに理解しようと身につけようと努力していた。

それなのに、やれゆとりだ、やれ馬鹿になるだ、やれ学力が落ちるだ。勝手に外野から言われて、こちらは反論する余地すら与えられなくて。その後10年以上に渡って「これだからゆとりは」と言い続けられるこっちの身にもなってみろよと、ずっと不満を抱いていた。


その鬱屈を引きずっていたのだろう。少子高齢化と言われても「じゃあ立派に子どもを産んで増やします!」などとは到底思わなかった。大人がなんとかしてくれと思った。子どもは子どもである限り、何もできないと思い知らされていた。参政権もなく、教科書に意見をする場所も与えられない。感じることや考えることはあっても、それを汲み上げてくれる大人はいない。だったら権力があって、お金があって、参政権がある大人がちゃんとしてくれ、と。

当時はまだ、大人に対して漠然とした信頼があった。すでに問題が顕らかになっているのだから、きっと大人たちが何かしらの手を打ってくれると信じていた。自分たちが対策をしたから少し状況は良くなったよ、と。自分が大人になる頃、未来はそんなふうに手渡されるとばかり勘違いしていた。


結果、それは勘違いだったわけで。

20年前に見た人口ピラミッドよりもさらに切実なピラミッドが、2022年の日本には存在している。



アイデンティティも自尊心もなかった


釈然とした想いを抱いてから20年。あの時の自分にどんな声をかけたらよかったのか、何が足りていなかったのかを、あれこれと考えている。

一番足りていなかったのは、自尊心だった。自分で自分の人生を決めていいという自己決定権であり、人は幸せになるために生きるのだという大前提だった。

当時12歳だった私は、自分が何者であるかを理解していなかった。人格形成の途中であり、感性ばかりが尖っていた。人口ピラミッドを見ただけで、自分の人生が何かに強制されたような気持ちになった。2000年の日本で生きている私に求められているのは「労働力」と「子宮」だと直感でそう思った。

「少子高齢化だから子どもを産む」という思考を、12歳の私は受け入れられなかった。むしろ「出産すること」が「少子高齢化対策」に直結するのであれば、なおさら産みたくなくなった。

振り返ればそれは、まだ自覚していなかった「自尊心」のささやかな抵抗だった。自分が自分として生きること。妊娠出産を主体的に選ぶこと。どんな人生であっても人は幸せになる権利があること。当時は言葉にできなかった曖昧な自尊心が、「出産」を明確に拒絶した。



どんな人生でも幸せになれる


少子高齢化は進んでいく。高齢者はますます増える。昔のように子どもが5人も6人もいるような家庭は皆無になる。子供を持たないカップルも、独身のままの人もいる。さまざまな生き方が出てくるし、それを国や社会が一概に否定することはできない。


社会にはまた、昔から、或種の活動に専心して、わざと家庭を作らない男女もあります。何事も個人の自由意志に任すべきものですから、そういう人たちに生殖生活を強要することも出来ません。その人たちは、家庭の楽み以上に、自己の専門的生活を評価しているのです。それでこそ、その人たちの人間性が完全に表現されもするのです。世界人類の中に、そういう人たちの貢献があるので、昔も今も、どれだけ文化行程の飛躍を示したか知れません。私は、人類の中にそういう人たちのまじっていることを例外とせず、望ましい配剤として、肯定したいと思います。
——「女らしさ」とはなにか 著・与謝野晶子


だから従来の、若い人たちだけで高齢者を支えるという社会システムには早々に限界が来る。その中で生まれる子どもたちは、どうすればいいか。

社会の持続という点で言えば、健康に育ち、さらに子どもを産み育ててほしい。けれどそれだと「労働力」と「子宮(もしくは卵巣や精巣)」としての役目を求めているにすぎない。それよりも前に、もっと伝えるべきことがあるはずなのだ。

人は一人の人間として、個人として、自由に人生を選ぶことができる。幸せになることができる。だからまずは自分が幸せになる方法を探してほしい。そのために、自分の可能性を広げるために、学校教育があり、学校の外での学びや経験がある。

一方で、誰も子どもを産まなくなれば、育てなくなれば、社会は存続しない。だからもし子どもを望むのならば、持って欲しい。欲しいと思ったけれど、身籠ったけれども育てられないというのならば、その子たちを預かれる社会でありたい。親のない子が、親とは一緒に暮らせない子が、健やかに育ち巣立っていく社会でありたい。

もしも子どもを持たないというのであれば、社会の中で自分ができる働きをすればいい。働いて税金を納めるのも大事なこと。お店の商品を買うこともそう。どんな形であっても、自尊心を持って生きてほしい。

人口ピラミッドにそんな言葉たちが添えられていたら、もう少し、自分の未来について肯定的な考えを抱いたのかもしれない。



幸せになること、社会で生きていくこと


人は幸せになるために生きている。

当たり前かもしれないが、その当たり前を私は目下、探っている。

10代、20代を「今も辛くて、未来に希望が持てない。生きているだけ辛い。生まれてこなければよかった。なんで他の人は先行きの見えない時代の中で生きているんだろう」を地で行っていた私は、人は幸せになるために生きる、がよくわからないまま30代に突入した。幸せになろうとか、ポジティブになろうとか、上手くやっていこうとか、そういう呼びかけが響かなかった。「生きる」ことが苦しみなのだから、いっとき気を紛らわせたところで、生き続けるかぎり辛く苦しい人生からは逃げられないのに、と。

30代になってやっと、「幸せな人生」がわかるようになった。先の見えない人生の中でも、幸せを感じる瞬間はある。生きる辛さもあれば、生きる喜びもある。人生という箱の中で、その二つは対立しつつ共存するのだと。


女の人生は半分ブルーで半分ピンク、人生の半分はブルーだよ、だからきっとみんな焦ってる、既婚でも、独身でも、子供がいてもいなくても。でもブルーと向き合わなきゃきっと人生は輝かない。
——映画「ガール」


私は子どもを持たないつもりだったし、持っても一人で終わるつもりだ。だから社会の存続という意味では、あまり意味をなしていないのかもしれない。ただ、それでも自分は自分の幸せを追求して良いと考えている。それと同時に、社会に対して自分ができる貢献をしていくことで、自分の存在に折り合いをつけていこうと考えている。



少子化だから、高齢化だからと若い人に言う前に。

あなたたちには可能性があって、私たちよりずっと長い未来がある。その一生が幸せなものにになるように歩いて欲しい。そのための手助けはするし、我々のような「少し年老いた」人間ができることはやっていく。それでも解決できないことはたくさんあるから、ぜひ一緒に考えて欲しい。

そう伝えらえる大人でありたいし、若い人たちの助けとなるような社会を繋げていきたい。





映画『ガール』は、おミツ役の檀れいさんがすごく好きです。あんな女性になりたい。

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