見出し画像

32歳、ギャルになりたい。


「若者」の定義は国と時代によって変わるらしい。

2014年版「子ども・若者白書」では若者は「15歳〜34歳」だった。それからさらに少子高齢化が進んだ2021年、若者は「40歳未満」にまで広げられることもあるらしい。

人生100年時代。労働者年齢と同じく、若者の年齢も引き上げられていく。そう言えば、「30代なんてまだまだギャル」とおっしゃっていたワーママさんがいたと思い出す。


30代はギャル。


その言葉が出てきた瞬間、なぜか私は猛烈に願った。ギャルになりたい、と。



ギャル。"girl"の俗語である"gal(ギャル)"に由来する外来語。1980年代から日本でも一般的になり「イケイケ」な若い女性を指すようになった。私が学生の頃は「コギャル」ブームで、ルーズソックスや短いスカートが流行した。真っ黒に日焼けした「ガングロギャル」や、金髪の「ヤマンバギャル」が青春を謳歌していた。

一方で私は、そんなギャルとは無縁の、地味を絵に描いたような学生生活を送っていた。あまり手入れのされていない黒髪で、少しぽっちゃりした、歩く支柱のような女子学生だった。ギャルになろうと思ったこともなければ、ギャルの友人もいなかった。そもそも、ギャルが生まれるような都会にも住んでいなかった。

それから二十年経った今。なぜか猛烈に「ギャルっていいな」となっている。自由で、楽しくて、主体的で、底抜けに明るくて、元気なギャルが羨ましい。学生時代には抱かなかった違う種類の憧れが、胸の奥でふつふつと高まっている。


ギャルは自己主張の塊だ。友達がしているからとか、流行だからとか、そういう理由もあるかもしれないが、あれだけ個性的なファッションと生き方をするにはかなりのエネルギーを必要とする。髪を染めて、セットして、メイクして、制服を改造してギャルになる。自分を装うための労力を自分だけに注ぎ込む。それはとても贅沢で、凄い。少なくとも、日々ぎりぎり家事育児仕事をしている30代ワーママにとっては目が眩むほどの眩しさだ。

ギャルになりたいと言っても、金髪にしたいわけではない。ルーズソックスを履きたいわけでもない。自分が気に入ったものを、誰がなんと言おうと、自分が好きなように身につける。その生き方が、なんとも潔くて清々しく思えるのだ。彼女たちは世界の主役で、誰がなんと言おうとそれは揺らがない。それくらいの熱量を持って、自分自身に向き合えたらきっと楽しいだろうと思ってしまう。子供のよだれで汚れるとか、外遊びで砂がつくとか、動きやすいとか家事をしやすいとか、そんな基準ではなくて、ただ純粋に自分が着たいものを着る、自己表現をする。それはとても素敵なことだ。


もう一つ、私の頭の中にいる「ギャル」たちは、底抜けに明るくて元気だ。学校帰りに友達と遊びに行って、ささやかだけど大切なことを何時間もおしゃべりする。未来がどうなるかは分からないけれど、不安を吹き飛ばすほどの楽しさが目の前にある。きっとなんとかなるだろうと、若さを武器に、鬱屈しながらも楽観的に自分の人生を見つめている。若さは希望でもあり、力でもある。

自分が大事な人を大切にして、一緒に時間を過ごす。会いたい人とだけ会う、話したい人とだけ話す。それがとても贅沢で限られた時間であることを、「大人」は誰もが知っている。

今の自分に全力投球で、今の時間を楽しいものにするから、未来にワクワクできる。人生に主体的だからこそ、ギャルはとても楽しくて元気だ。


考えれば考えるほど、ギャルはとても楽しそうだ。10代の頃には縁がなかったギャルに、30代の今になって挑むのもおもしろい。気を抜けば自分以外の価値観に流され、日々の生活に追われ、なんのために生きているのかと問うてしまいたくなるような32歳にとって、ギャルの生き方は主体的で芯が通っている。主体的な人生なんて、気を抜いたら簡単に手の中からこぼれ落ちてしまうもので、それを無意識に力強く体現している生き方に憧れしかない。


自分が好きな装いをする。
自分が大切な人と時を過ごす。
自分の時間を楽しいものにする。
そして、未来に希望を持つ。


2022年は、もっと「ギャルな」生き方をしてみたい。






お心遣いありがとうございます。サポートは不要ですよ。気に入っていただけたら、いいねやコメントをいただけると、とても嬉しいです。