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「おかしいけどあたたかい」

もう20年以上前のこと。小倉の勝山公園に「トーテンポールの丘」と言う場所があった。10名ほどのホームレスの方々がテントを建てて暮らしておられた。

そこに暮らすAさんにどうしても伝えなければならないことがあり早朝6時「丘」を訪ねた。2月の夜明け前。暗くて寒い小道の先、霜の降りた草むらでAさんは寝ておられた。「奥田です」との呼びかけにAさんは起きてきてくださった。

用事を済ませ「じゃあ、帰ります」と言う僕に「朝飯つくるから食べていかんね」と言われる。「じゃあ、いただきます」と思わず答えてしまった。Aさんは野宿生活で飯を作る鍋窯は見当たらない。前日手に入れたと思われるコンビニのお握りが小屋の横に5つほど並んでいた。一晩中そこに置かれたお握りは半分凍っており、フィルムの内側はお握りから出た水滴が凍ってキラキラ光っている。おいしそうには見えない。

「このままでは食べれないけど・・・」。僕はだんだん不安になりだし「いただきます」と答えた自分を反省し始めていた。そんな僕の気持ちが伝わったのかAさんは「大丈夫」とつぶやき、半分凍ったお握りを二つ取り上げ、おもむろに着ていた服のボタンをはずしファスナーを下げ始めた。重ね着の古層にへとAさんは向かっていく。「えええ、どういうこと」。僕は益々不安になる。Aさんは当然のように作業を進めていく。そしていよいよお腹に到達し時、Aさんはお握りを放り込んだ。「ええええええええええ」。驚いたどころではないが「止めて」というのも失礼だ。驚愕の表情を押し隠し黙って見ていた。「5分ほどかかるけど」とAさんは笑顔で仰る。「人間電子レンジ」。

勇気をだして「あああ、大丈夫。飯は今度で」と言った時には5分が経過していた。Aさんは「じゃあ、持って帰らんね」と笑顔で「調理済みのお握り」を渡してくださった。「あ、あ、ありがとうございます」とあいまいな返事をした僕は「人肌」に温められたお握りを受け取った。確かに「人肌」。Aさんはどや顔をされている。

家に帰り、フィルムを取ると溶けた水滴が流れ出た。水分が出てしまったお握りはパサパサで食べられたものではない。だがAさんにとってそれは大事な食糧だ。捨てるわけにはいかない。我慢して全部食べる。
「人間電子レンジ」は「おかし過ぎる」。あり得ない。しかし、僕はAさんの「おかしさ」を笑いつつも彼の「やさしさ」を感じていた。パラパラのお握りは不味かったけどおいしかった。「おかしいけどやさしい」。人が人と生きる時、そんな思いになることがある。だから簡単に「お前おかしい、間違っている」などとは言えない。

対人援助や支援制度の現場では、支援が専門的になるほどそういう感覚が薄くなる。専門職の倫理規定からすると相談者、つまり被支援者から物をもらうことは許されない。賞味期限が切れたお握りを食べるのも衛生上問題だし、お握りの入手方法もわからない。お腹に入れて温めるのは人それぞれだと思うが、専門職としては最貧困状態にあるAさんに対してどのような支援計画を立てるのかを第一に考えることになる。使える制度は何かと考えるだろう。

当然、それは大事なのだが「おかしいけどやさしい」が僕にとっては何よりも大事だった。この不思議な組み合わせが人を和ませる。支援する側もされる側もない。そんな原初的な関係が楽しい。制度には乗らない人間の「おかしいがやさしい」という現実を僕は大事にしたい。

急に寒くなった先週の炊き出しの夜。今や駐車場になったトーテンポールの丘を眺めながらAさんを思いだした。今頃天国で何を食べているだろう。「父の家(天国)には住処多し」(ヨハネ福音書14章)とイエスは言う。いまごろ天国の住民に「朝飯食べていかんね」と得意の「人間電子レンジ」を披露しているだろうか。寒風に冴えた夜空からAさんの「おかしいくやさしい」声が聞こえた気がした。もうすぐクリスマスだ。

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