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時代の針が前へ進んだ出来事

CryptoNinjaのNFTに関して、DAO設計士なる崇高な肩書を掲げている以上、『人それぞれ』『当事者の問題』という当たり前の解答だけではなく、自分なりの考え方を整理することが大事だと思い、日記代わりに投稿しておこうと思います。

問題の整理も必要ですが、界隈ではX(旧ツイッター)で様々なプロジェクト関係者やNFTクリエイター、コレクターが意見を表明しており、その中には
”日本NFT界全体”
という視野で意見表明をしている投稿も散見されました。

今回、問題とされているのは大きく分けて2点

・コミュニティに対する不利益をもたらした行動に対する是非
・コントラクト移動による強制的なNFT没収の是非

tomy調べ

投票を行ってほしい

勝手な外部からの勝手な希望を述べるならば、今回の件を投票してほしい。
『日本NFT界全体』
という視点で考えるならば、そこに関わる人たちが、一連の問題に関してどのような意見や感情を持っているのかも重要だが、投票によって意思の明確化を行い、それが未来永劫残るブロックチェーンに刻まれてほしいとすら思います。

横のつながりを重視し、全体での成長を本気で臨んでいるなら、自然発生的に投票を促す動きが第三者から発信されるのではないか・・・とすら考えています。
なので、今回の件に関する問題意識は、
『それぞれ個々人が持つ意見表明』
以上の問題にはなっていないと仮定して、わたくし個人も勝手に内容整理を行います。

DAO設計士的に

技術で間に合わない部分を、『信用』という口約束を担保にプロジェクト進行した結果起きてしまった齟齬

と考えると、この部分は
『トラストレスなブロックチェーン技術』
という技術的進化によって今後防ぐことができることを、今回の問題は教えてくれました。
行動した人間が罪なのではなく、その環境だったことが問題なのだ
という、とてもドライですが重要な要素なのだろうと思っています。

今回の問題は、将来的な技術の進化とともに、未然に防げる問題もあったかと思います。
・大量出品によるプロジェクト価値の棄損
・購入時の個数制限を口頭による依頼ベースで行われていたこと
・コントラクト移動によって所有権的なものが変わると考えられてしまうこと

当然、新しい取り組みである当時のNFTプロジェクトでは、現在当たり前の技術的な知識や環境がなかったため、上記のような問題発生に対して対応しきれていなかった。
何が問題となり、どんなトラブルが起こりうるのかを網羅しているコストは、すべての関係者への還元率を減らす全体コストだと考える必要がある。
慎重に、あらゆる事態を想定して対処するのは、暇で金余ってて、そのコストを外部に押し付けることができる存在がやってればいいことで、そんなものは既存の資本主義経済圏でやられ続ければ良いのだと思います。

一方、法律的に未成熟な環境下で
・口約束も契約のうち
・NFTは金融商品ととらえるか

これらの問題も、NFTの取り扱いが法律的に明確化されることで、後付けによる『こうすべきだった』が出ると思います。
問題は口約束を反故にした件が意見分かれそうなところ。
※実際のやり取りを知っているわけではありませんスイマセン

善悪や正否を基準に考えること自体が、web3的ではないことを前提として、あえて言うのであれば、コミュニティ側から『悪影響』と認識される行動を起こした弊害としてデメリットを被った事例・・以上のものではない。
それが実質的なコレクション強制没収という出来事であり、妥当性は別問題として議論すべきことですが、自らの行動に対しレスポンスが返ってきただけの事象ともいえます。

ここでの学びは、人間が中心となり、中央集権的な権限によって、多数の幸せを守るために一部の人間を強制的に切れる『環境』に、今後のDAOやコミュニティの在り方を再考する必要性を感じます。

自分たちだけの価値観や価値基準を生み出せる


既存の価値観や価値基準によって、選択の予知なく経済活動を行い、その仕組みに違和感を感じつつ、生きるためには迎合しなければならない現代社会は、生ぬるい地獄だと考えて生きてきましたが、DAOやweb3の思想は、そこに変化をもたらせるかもしれない一縷の望みを見せてくれた。

新しい自分たちだけの価値観や価値基準を中心として、既存の価値観から逸脱しても生きていける環境を自分たちで作れるかもしれない
というロマンこそが、僕がDAOに没頭している全てです。

上記の観点から、CryptoNinjaは、自分たちだけの価値観や価値基準を醸成し、その価値観を魅力と感じる人たちとコミュニティを育てている。

これも善悪や正否の問題ではなく、DAOやweb3の思想が教えてくれた生き方を実践している一例であると考えます。

本来あるべきDAOの在り方や、中央に存在するのはプログラムとすべき、非中央集権的な組織であるべき、・・・
など、理想的とされるDAOの未来に向かっているかは一旦置いといて、まず大切なのは
”自分たちだけの価値観や価値基準”

DAOかDAOじゃないか
という視点以前に、コミュニティを先導する存在として行動をしている運営者と、善悪や正否を通り越して『仮に悪だったとしても最後まで味方でいる』というコミュニティメンバーは、子どもが悪さしたときに見限らず一緒に生きていくことと同じ。

”味方である”ということは、そういうことでもあると思うので、安易に否定すること自体が悲しいことだと思っています。
当然、親なら躾をしろとか、改善を促すのも味方の役割だ
という別議論はありますが、コミュニティメンバーの行動や、それをさせている運営のこれまでの功績が、否定されるものではないと考えます。

そのうえで
『コントラクト移動による実質的なNFT没収』
について考えてみると、一部では語られている
”何に対して価値としているのか”
という問題になるのだろうと思います。

NFTという存在に対し、どこに価値を見出し購入や保有をしているのかは人それぞれで、その理由は現在のNFTが持つ特性の複雑さにある。
・ファングッズ
・有価証券的な要素
・パスポート的な要素
・証明書的な要素
・権利的な要素

様々な要素をNFTという技術に載せて流通させることができるようになった反面、その複雑性によって誤解や齟齬が生じてしまう過渡期。
バラバラな価値観を持つ個人が、それぞれの価値観でNFTに何かしらの価値を見出している。

何を価値としているのか

そんな中、今回のNFTに対し、多数が価値と感じている内容が
コミュニティへの参加感
だった場合、その参加資格が失われたNFTに対して、価値を感じなくなった人があふれ、結果として『無価値』と思われる旧NFT作品が残った。

人それぞれの価値判断だし、現時点での価値判断として不特定多数が出した
”現時点での価値”
であると考えます。

しかし、ここで失われているのは
・ファングッズ→失われていない
・有価証券的な要素→失われたが、すべてではない可能性
・パスポート的な要素→失われた
・証明書的な要素→失われた
・権利的な要素→失われたが、すべてではない可能性

現時点でなんと言われようと、過去は変わらない。
そして未来の価値観や価値判断要素は誰にもわからない。

そういった観点で言うと、権利関係全般は失ったものの、過去の思い出や金銭的価値が、必ずしも完全に失われたとは言い切れない。

本当にCryptoNinjaが中央集権的な組織で、かつ金銭目的のみの活動者として集まっている集団だとしたら、すべての価値は失われるのでしょう。
しかし、NFTという技術によって生み出されているCryptoNinjaのNFTが非中央集権的で永続性を帯びた存在だった場合、ファンであった過去は失われないし、イレギュラーな出来事の証明として文化的価値を帯びるかもしれず、それが金銭的な価値に変換される可能性すらある。

DAOは手段であって目的ではない

自分たちの価値観や価値基準を醸成していく上で、DAOとして機能するために現時点で必要なことは、
・自由参加、自由退場
・透明性
・意思決定プロセスの明確化

にある。

上記を技術的に実現し自動化するのが、DAOを成立させるのに欠かせない。

しかし、そもそもコミュニティ運営を、DAO的に運用するか否かは、コミュニティ側が選択する問題。
現在、DAOは定義が曖昧という認識の未成熟さから、ディスコードかテレグラムでコミュニティ運営を行っている=DAO
程度で認識されている可能性すらある。

大衆が認識したら、それが真実である
ということで、自由に認識し、自由に言葉を使っているだけなので、一言でDAOといわれたときに、どのような組織化勝手な解釈をしないよう気を付ける必要があります。

どちらにしろ、名称として『DAO』を標榜することと、DAOとして形成されていることは別であると。

重要なのは

・自由参加、自由退場
・透明性
・意思決定プロセスの明確化

これに対し、
・何を透明化する必要があるのかの必須項目
・意思決定プロセスとともに、意思決定内容も明確化
・自由なのは参加不参加で、活動内容がすべて自由なわけではない
・活動は自由だが、当然自己責任

上記のような様々な要素を、ブロックチェーンによる高い改ざん不可能かつ透明性がある状態にしておくことで、人間が監視管理しなくても済むのが望ましいとしつつ、
・人間に管理された方が安心
・プログラムに支配されるのは嫌だ

などの人間心理が発生した場合、そのコミュニティの意思に応じて自由に仕組みを設計すればよい。
そのほうが良い人間はそこに集まり、賛同できない人間は参加しない選択をするだけのことだと。
それぞれの組織をDAOと呼ぶか否かも、これから大衆が決めていくことなのだと思います。

ただし、目的に到達するためには外せない仕組みが存在する

人間が人間を評価判断し、それによって人間同士が疑いあい、恨みあい、非効率な生き方を選択しなければ生存すら出来ない環境を、DAOという形態によって改善できるかもしれない。

それが、DAOのもつ大きなポテンシャルの一つであり、僕がDAOによって実現したい未来です。
そのためには、再三言っている『自分たちだけの価値観や価値基準』を生み出す際に、外してはならない仕組みが下記だと考えています。

・それぞれのDAOが定義する前提条件こそ透明化されること
・それぞれのDAOが定義する前提条件こそ改ざん不可能状態とされること
・それぞれのDAOが定義する前提条件こそ非中央集権的に管理されること
・それに対して自由に参加でき、自由に退場できる環境であること。
・参加者によって既存の前提条件をより良いものにアップデートするための提案を参会者全員が提案できる環境とし、関わる人たちが意思決定に参加できる仕組みとすること。
・活動に対するレスポンスは、透明化されたプログラムに基づき自動執行されること


今回のような問題は、善悪や正否の問題は判断しようがない、立場によって変わってしまう問題であることは言うまでもありません。

web3が見せてくれた理想は、善悪や正否が自分以外の人間に既定され、それに合わせることでしか生きることができない現代社会へのカウンターカルチャー要素が強い。
だからと言って、現代社会の仕組みで活動する人間や仕組みが全否定される理由にはならず、それぞれが希望や理想を持って自己判断で活動していると考えるべき。

ただ、どちらの価値観であっても、それぞれの立場で『正しい』という行動をした人間同士が対立してしまう構造は、少しでも減らして未来に託したい。

全ての立場で活動する個人や組織が、責任やリスクを相手に押し付け、権利だけを主張する。
それが現代社会で生きていく上で称賛されるテクニックであり生き方。
それを証明しているのが財産の量。

例外も存在するものの、多くの場合に当てはまるものだと考えています。
それは、その行動をとっている人間の善悪問題ではなく、間違っていたという問題でもなく、もっと理想的で改善し成長できる要素があるのではないか、ということです。

常に全体最適化を基準として進化発展してきている社会に対し、DAOやweb3をきっかけとして新たな進化の方向性と思想が浸透しており、この流れが止まることはないでしょう。

全てにおいて、目的達成のための必要要素は
『目的を掲げるものが決める』

それ以上でもそれ以下でもない。

現在DAOがこうあるべきだ
という議論に対し、思うところはある。

透明性は担保されるべきだし参加の自由は尊重されるべきだし匿名性を導入することも重要な要素だと思う。
ただ、それが『正しい』と言っているわけでも、そうあるべきだ、と言いたいわけでもない。
”そういう環境を自分たちで自由にカスタマイズできる”

という環境に対しての前提条件であって、その環境を活用して何をするかは、やはりそれぞれの自由。
自分たちだけの価値観や価値基準

これを自由に表現できる環境に対しては、参加自由で『あるべき論』も必要。
ただ、それを活用したコミュニティとしてのDAOは、その純度や理念や価値観を自分たちで表現し、それに賛同する人たちがそれぞれ集まって勝手に自由に生きることを謳歌できる環境になってほしい。
そんな未来を残すことを、DAO設計士として模索しようと改めて考えさせられた出来事でした。

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