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自分、悪くないじゃん。という話

いやなことがあるとおなかが痛くなる。

小学生のころからそうなった。うちの小学校は地域ごとに班として集団登校をしていたため、上級生は下級生を引率しないといけなかった。
わたしが6年生になったころ、おなじ6年生の子は班にいなかった。近所に同年代の子はたくさんいたのだが、同い年の子はいなかったのだ。
何人かいた時期もあったけど、みんな引っ越してしまった。だから自分ひとりで班をまとめ、引率しなければならなかった。

わたしはいい子だった。親や先生から指示されたことはきちんとやりとげなければならないという責任感が強かった。
班長だから、ちゃんと班を引率して毎朝登校しないといけない、という思いがあった。

詳細は覚えていないけれど、突然みんながいうことを聞いてくれなくなった時期があった。
うちから学校までは3キロあり、1時間近くをその子たちといっしょに歩かなければならない。足の速い子もいれば遅い子もいる。
みんな幼馴染で、お互いの家や近所の公園でいっしょに遊んだ子ばかりだった。仲も悪くなかった。深い理由はなかったと思う。なんとなく、でみんないろいろとわがままを言いだした。
今までいっしょに遊んでいた年下の友だちが、みんな急に敵になってしまった。

毎朝、その子たちと登校しないといけないのがいやでいやでとうとう「おなかが痛いから学校にいけない」ということになった。
うちの親はガツンというタイプだったので「登校班のみんながいうことをきいてくれないからいやだ」と伝えたらすぐ他の親にもそれを伝え、まあまあ丸く収まった、ような気がする。
いやだったことと、そのときはじめていやなことがあるとおなかにくるという体質を知ったことしか覚えていないのだ。

子供のころの自分は責任感が強くてまじめだったなと思う。
でもうまくいかないこともたくさんあって、自分がいやになったりとか、適当にごまかしてしまう癖もついてしまった。今は、表面上はまじめにしてるけど、うまいこと手抜きする術も手に入れた。

ただ三つ子の魂なんとやらなので、今もそういう片鱗が残っているらしい。
大人になり職場で上司と面談をすると「まじめだね」とか「責任感があるね」と評されることがままある。
そのたびに「こいつ全然見てねーな」という気持ちになってしまっていた。わたしがしているのは「まじめのフリ」だと思っていた。
だって手抜きするし。今の仕事だって待機中にプロ野球一球速報見たりするし。
わたしはそういうわたしのことを、あんまり好きじゃなかった。悪いことをしている、周りを騙しているような気分だった。

大人になっても仕事でいやなことがあったり、いやな人とどうしても逃げられないところで接さないといけなかったりするとおなかが痛くなる。逆におなかが痛くなると今自分はストレスを感じてるんだなとわかりやすい。

職場でいやなことがある、というのも苦手な業務をしないといけないときと、苦手な人が周りにいることに限られてくる。苦手な業務は仕事なのでまあなんとか折り合いをつけるが、苦手な人間については本当に対応がへたくそだ。

特に上司とか、周りの人に対して「あの人が苦手」ということを表明できない。信頼できないとどうしてもいえない。
これは子供のころに「あの人が好き」とか「苦手」とかを口外したことで様々なトラブルが生じてしまったのがトラウマだからかもしれない。

現に今の職場でもどうしても苦手な人が苦手だと上司にいえるようになるまで1年近くかかった。それまでに何度おなかを痛くしてしまったことか。
しかも言ったところで即時改善されないことも多い。そうすると、言うだけ損だったという気がしてしまう。おなかを見せて弱点をさらしたのに、それだけでなにもされないなんてどういうことだとおもってしまう。
今も、改善されていないから結局どうしたらええねんって感じでおなかが痛くなっている。

どうしたらいいだろうか。
苦手な人、というのもべつに自分に対して意地悪をしてくるとかではない。
ただ悪態をつく声が大きくて、それが耳に入ることでいやな気分になる。悪態をつきたい気持ちはわかる。でもそんな周りに聞こえるような声でいう必要はないだろうとおもってしまう。

わたしは耳から入ってくる情報に心乱されやすい。
見ないようにしたいことは情報を遮断できるのだけど、聞こえないふりをしても耳から入る情報でよくいやな気持ちになる。
散々悩まされた上の部屋の騒音だって、正体がわからない謎の音だからいやだった。不安で不安でしかたなかった。

悪態をつく人も、自分に対してではないことはわかっているけれど、攻撃性のある言葉を撒き散らされるはこわい。
攻撃性のある言葉を平気で頻繁に発せられる人は、たとえ対象がわたしじゃなくても、なんらかのきっかけであの攻撃性をこちらに向けられる可能性があるということだ。
そんな人がすぐ近くにいるのなら、自分を守りたいと思うのは当然だろう。シフトでその人がいない日、わたしの心がどんなにおだやかなことか。

今の職場でも、上司との面談で「まじめだね」という評価をされた。
上司には高く評価されていたようで将来的な社員登用の話もされた。(今は派遣なので)年末に面談したときも軽く話されていたのだけど、全員にしてるんだろうなと思って話半分で聞いていたからガチで改めて話されて驚いた。

わたしは今まで自分のことをまじめのフリ、いい子のフリをしただけの怠け者だと思っていた。
大人になってから、一心不乱にがんばったことといって思い出せるのは仕事ではない。自カプの同人誌を作るためにお話を書くことくらいだ。
仕事も、そのときはそれなりにがんばっていたと思うのだが、やはり「それなりに」としか思えない。
でも「まじめ」とか「しっかりしている」とか「責任感がある」とかの評価を受ける。

もしかして、わたしが「ふつうに」「それなりに」やってきたことって、わりとハードルの高いことだったのでは?

いろいろとおなかを痛くしながら、いやだなあなんとかごまかしたいなあってちょっとずるしたこともあったけど、わたしはよくやってきたのではないかなと、今は思う。
なので「ふつうに」「それなりに」しかやってないのに評価されてるわたし、悪くないじゃん。というふうに思えるようになった。

わたしが100%、一心不乱に仕事をがんばったら一体どうなるのだろうか。
でもそれは今の会社ではないよなとも思う。
なんだかんだ10年くらい今の会社に携わってきたし、たぶんこの先10年20年はかんたんにつぶれたりしないと思うけど、そこまでしてしがみつきたいほどこの会社が好きかといわれるとそうでもない。
福利厚生もいいほうなんだとは思うけど、わたしはせっかくがんばるのなら「これのためなら死ねる」と思えるものにがんばりたい。(でも死なない程度に)

結局身の回りの問題は解決していないし(上司には苦手な人の声が聞こえないところに席を変えてくれと訴えている)、おなかは痛くなるんだけど、前回の転職はいろいろと追い詰められた状態でしてしまったので今の精神的にも元気な状態で前向きに転職考えるか、と思っている。

しかし自分のアピールポイントというものはよくわからないのだ。
わたしが誇れるものって、好きなもののためなら全力で本気で命かけられることかな。同人とかずっとそんな感じだったし、ホークスのために縁もゆかりもない福岡へ単身引越したし。そのあたりってなんて説明すればいいのだろう。

自分のことももっともっと考えていかないといけないなあ、と思う脱稿後の今日このごろです。

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