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本のカバーをキャラ絵にするアプローチって出版社として正しいの?


興味深いnoteを読みました。

ざっくりまとめるとこのwithverneさんがSFの文庫にキャラ絵が多くない?と思ったのをきっかけに、なぜ自分がそう思うようになったのかの分析と、マーケティング的に各出版社さんこれでいいんですか?と疑問を覚えた、という記事です。

そしてその疑問がこちら

・「キャラ絵がついてくることで買ってくれる新規消費者」の想定ターゲットが、その中のさらに特定の層に偏っていないか。そのことによって、短期的には市場規模が大きくなったとしても、それが長期的に維持できるものなのか。

・また、それらの想定ターゲットへのアプローチ手法がそもそも本当に必要なものなのか、かつ、その手段が画一的になっていないか。

そしてその2つを、今一度出版社の方々に確認して欲しいです。現状を総合的に判断した上で、「大丈夫」という結論になったのであれば自分は安心します、ということでした。

というわけで一応「出版社の方々」のひとりでありさらにはSFも出している竹書房の人間が今一度確認して答えちゃったりしようかなと。突然勝手にすみません。

一つ目の疑問ですが、字義通りに答えると

「想定ターゲットは特定の層に偏っている(偏らせている)と思います」

「逆にこれをしないと市場規模は長期的に維持できません」

となるでしょう。

一口に本といってもいろいろな本がありますが、みなさんがご存知のような本、文芸で言えば村上春樹さんとかビジネスで言えばチーズはどこへ消えた?とか漫画で言えばワンピースとか、そういった知名度の高い本はセグメントがものすごく大きいですが、およそこの世で発売されている本の大半はそもそももっのすごく狭いセグメントを想定して編集されていると思います。

竹書房のエンタメ系文庫の初版数は今だいたい7000から8000部です(業界的にこれでも少ない方ではないと思います)。で、我々が最低これだけは売れて欲しいと思う部数がその半分くらい。まずは4000人が買ってくれればいい、というイメージで本を作ります。

だいたいこれぐらいの規模感の本が配本されるのは2000軒くらいの書店になります。もちろん1冊だけのところから10冊入るところなど差はありますが、均していうと書店1軒につき4冊が入荷して2冊が売れればいいというイメージですね。

つまりセグメントのボリューム感としては1軒の本屋さんにつき2人です。昔は街に一軒の本屋さんという時代もあったでしょうが今では近くの大きな駅とか商業施設に1軒、みたいな時代ですよね?日本の駅数は9492軒くらいとのことなので2000軒でカバーできる駅数は5駅ずつ。

5駅ごとに2人

これが文庫のまず狙うべきセグメントのボリュームです。もうね、今の文庫のカバー作りでも全然絞れてなくない?くらいのゲキ狭っぷりですよ。5駅に2人好きな人がいればいいんだから。

まあ、もちろんこれは数字遊びなのですが、それぐらい狭いのは確かなので何か本を見た時に「こんな狭いターゲットでいいの!?」と思うのは逆にごく正常な気持ちだと思います。そうです。そんなに狭いんです。偏っているんです。

そして市場規模の維持ですが、今度はこの5駅に2人いるファンの方がどういう風に生きていくかという話になってきます。たとえば今10代の男の子である2人のうちのひとりはキャラ絵のカバーを好んでいますが、10年後そうとは限りません。もう歳を取ったのでSFは読みたいけど落ち着いたカバーがいいな、とか思うようになったりしますよね。そうやって読者は変化してゆく。

もう一人はなんなら時が経ってもうSFは読まない、となっているかもしれません。すると結果、キャラ絵のカバーのSFはその5駅の中から好きな人がいなくなってしまいます。

ここで新しい読者が入ってきてくれればいいですが、往々にしてその時好かれているジャンルは新しい人が入ってこない傾向にあります。どうしても閉鎖性があったり新鮮さが薄れたりしているからです。

このように同じことを続けていけば市場規模は維持できません。ですので我々は変化しなければいけません。この読者さんの変化を感じ取り、落ち着いたカバーに変えたとしましょう。でももうSFは読まないと思った読者は帰ってきませんので、結果今までより半分しか売れない本になっています。

ですのでここはいっそのことその時流行っている新鮮な要素をそのジャンルに吹き込みます。たとえば人気のある漫画家さんに絵を描いてもらうことにしたりしましょう。そうするとまた新しい5駅に2人が現れて現状の売り上げが維持されるかもしれません。ただしもうSFは読まないと決めた読者さんは帰ってきてませんし、もっと落ち着いたカバーがいいと思った読者も帰ってこないでしょう。だから、読者目線から見るとこのジャンルとかレーベルは変わっちゃったなあ、こんなので大丈夫なのかなあ、と感じると思いますが、逆にそう感じることで市場規模は維持されました。僕らがやっているのはこういうことです。

言い方を変えると「誰にでも必要な本」っていうのはそもそもあまり想定されてないと思うんです。だから市場規模を拡大…というイメージよりも、ニーズのある方へいかに効率よく届けるか、ということをメインに考えているんだと思うんですよね。だからそもそも幅広い層にアピールしよう、というやり方を目指してない。カバーがキャラ絵になる時は、そうやって届くであろう読者さんに届けばまず良いとする。

こう書くと昔からファンだった人を切り捨てているような感じにも見えますが、その方には他の編集部や他の版元が今のその方に必要な作品を用意していると思います。そうやってこの業界全体で読者を支えていく構造ですが、業界の縮小に伴ってこういった方のカバーがどんどんできなくなっているのもまた事実。負のスパイラルにハマっていっているなあ、と業界の一員としても一読者としても思いますね…。

なので、ことの起こりのwithverneさんは最近のキャラ絵が多い(と感じた)SFに疑問を覚えたことに対し、なんか最近そういう感じじゃないカバーばかりのSFを出してる出版社があることをご案内しておきます。

……手前味噌ではありますが、このようにいかにもキャラ絵を使いそうな出版社(竹書房はマンガ中心の出版社なのでこういうの以外の作品にはもちろんキャラ絵が溢れ倒しています)がそうしなかったり、逆に今までキャラ絵を使わなかったような出版社が使ってみたり。これが出版界の多様性というもので、空いたゾーンにはどこからともなく誰かがやってきて埋めていったりするのが出版界なのだとも言えたりするのかもと自分は思ってます。勝手にですけど。

さて2つ目の疑問です。

・また、それらの想定ターゲットへのアプローチ手法がそもそも本当に必要なものなのか、かつ、その手段が画一的になっていないか。

これはもちろん(今の)竹書房に限った話ではありますが、読者へのアプローチはまず作品の本質があって、マーケティング的なアプローチの選択はその作品の本質の範囲内で行われるものなんじゃないかと思っています。

というとなんだか難しいですが簡単にいうと「この本はこういうカバーにしたい!」という担当編集の強い気持ち(もちろん作家さんの気持ちも合わせて)がまず根っこにあるわけです。そのイメージをもとにこういうデザイナーさんに頼んで、こういうイラストレータさんに頼んで、こういう写真を使って…とカバーを組み上げていく。

その作業の中で「ここの言い方はこうした方がライトユーザに届くよね」ぐらいのアプローチの調整はしますが、この本は高校生に売りたいから高校生に人気のこのイラストレータを使いなよ!みたいな指示や提案をマーケティング側からすることはないかなあ。この本はキャラ絵のカバーがいちばんいいんです!って担当編集がいうならそれは正解でしかないと思うんですよね。逆もまた然り。

なんだかんだで本を作るって抗い難い初期衝動だと思うんです。こういう本が作りたい!っていうのはだいたいどういうカバーにしたいまで含む。その初期衝動に逆らった本づくりをしてもいい結果は出ないんじゃないかなあ、と自分は思います。

ただ、その初期衝動が今の社会に対して自覚的であるべきでは?というご指摘(多分そう言う指摘なんだと思いました)はそれはそうだよなあと思います。作家さんの初期衝動によって描かれる作品世界を商業的に本のマーケットへ落とし込むのが編集の仕事だとも言えるのですから、当然、今この瞬間にどう振る舞えばその作品が最も輝くのかということには編集も営業もそして出版社として自覚的であるべきでしょう。

でさらに「手段が画一的になってないか?」の部分ですが、これは前段でも書いた通りもう少しマクロに捉えていただいて、出版市場そのものの中で画一的でなければいい、というご理解をいただければありがたいなあ。編集部レベル、出版社レベル、ジャンルレベルと大きな階層で見るとむしろ全然画一的になってなくない気がするんですよね。

だからむしろ「画一的になりたいけど難しい」みたいなところがあります。

あるひとりの編集がいるとしてその編集の作ったある本がいい感じで売れたとします。そうするとその編集は気を良くしてその売れた本に類する本をたくさん作り始め、出版社もそれを応援しますし、書店さんもこの出版社のこのジャンルはいい感じだな、となってその編集の作った本がどんどん発売されてゆきますし、ピックアップされやすくなる。

こういった場合、あまり分担してって感じじゃないんですよね。そんなに都合よく同じような本を作れる編集がその瞬間、その出版社にいることって特に中小ではそうそうないだろうから。

だからそのジャンルはまず読者さんからみて画一的に見えると思います。なぜなら一人でやってるから。もしくは何人かの人数でやっていてもそのノッてる編集の出している作品数が多いから。一人の人間がやってるからそれはまあ画一的になっちゃいますよね。

ですが、むしろそこからさらに画一的にするのは逆に難しい。その編集の作れる本の量に上限はあるので、他の誰かにその人間が作ってるような感じで作りな!と言ってもそれこそ言うは易しでなかなかうまくいかないですよねえ。

まあまだギリギリ自分がこの出版業界を眺めている上ではまだまだ多様性は保たれているようにみえます(当社比)のでその視点からは大丈夫だと言えると思います。もちろん両手をあげて…というほどではないですが。これからもその多様性が保たれる業界であって欲しいものです。自分も読みたい本が出なくなるの嫌だし(ソニマガさんの恐竜探偵の続き出ないかなあ、とか)自分の好む装丁で出て欲しい気持ちはありますし。

もしかしたら電子書籍だけ出る本と似てるかもしれませんね。自分が紙で買いたかった本が電子書籍だけしか出ないと悲しいけど、それでも電子書籍も出ない事態よりはマシだと思うかどうか。

と長々と書かせていただきましたが一応これが自分からのwithverneさんの疑問への回答です。もちろんですが自分の見解なので竹書房の見解であるかどうか既に怪しいですしましてや他の版元さんがどうなのかは自分の全く預かり知らぬところなので悪しからず…。しかし答えになってるかなこれ。まあいいか。

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