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東京ポッド許可局リスナーがマキタスポーツの番組を作ることになった話


今日もSNSでは誰かが何か大きな成果を出したり、ずっと憧れてた人物と仕事したりして「タイムマシンに乗って中学生の自分に伝えたい!」みたいなことを興奮気味に書き込んでいる。自分もたまに気分が乗ってタイムマシン構文を使いたくなる夜もあるが、もう一人の自分が「その感慨知らねーよ」と突っ込んでくるので、自意識が邪魔をしてなかなか使えない。でも、今回ばかりは思わずツイートしてしまいました、どころかnote公開してしまいました。

この記事を書いているのは2020年8月3日(月)午前2時27分。あと数時間で、僕がディレクターとして参加したドキュメンタリー番組「パパがうちにいる。」が放送される。

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この番組は、コロナ禍における芸人・ミュージシャン・俳優のマキタスポーツと、その家族の生活を追ったドキュメンタリーだ。

今回、番組のプロダクションノート的な文章を残しておこうと思い、キーを打ち始めた。この記事では企画から撮影までについて書こうと思う。ネタバレは無いので観る前に読んでもらっても大丈夫です。

4月8日、7都府県に緊急事態宣言が発令された翌日。時代劇の番宣番組でお世話になったプロデューサーから「マキタスポーツさんでNHKに企画を出したい」と連絡が来る。こんな状況下でも撮影できる企画を一緒に考えてほしいという。電話を切った後、思わず遠い目になった。

学生時代、「東京ポッド許可局」を聞きながら、あてもなく街を歩き回っていた日々を思い出す。ポッドキャスト時代の「好きなファミレス論」から欠かさず聞き続けてきた。マキタスポーツが『苦役列車』に出演すると知った時は、自分の好きな人たちがジャンルを横断して繋がっていく様に興奮したし、番組の地上波進出が決まった時は自分のことのように喜んだ。草月ホールのイベントに足を運んだり、「思わずツイートしてしまいました」という短文を送るコーナーでメールが読まれ、ステッカーをもらったこともある。20代の思い出すべてに接続されるラジオが許可局だった。

そんな感慨にふけりながら、企画を考える。まず、いちファンとして「語らないマキタスポーツ」を見たい、と思った。そういえば、マキタさんには大学生になる娘さんがいたはずだ。娘に対して見せる父親の顔は、どんなものだろう。『男はつらいよ』の最新作を見ようと父に誘われても「見たことないから」と冷たくあしらい、その態度に憤慨する父を「ローガイ」と呼び、ベッキーの不倫騒動に対して「善悪」ではなく「下品」という尺度で見解を述べたという、あの娘に。ラジオやコラムを通してエピソードだけは知りつつも、顔は知らない彼女に父・マキタスポーツの姿を撮ってほしいと思った。企画書に「パパがうちにいる。(仮)」と娘視点のタイトルを入れる。

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その後いろいろあって企画が通り、撮影が始まる頃には緊急事態宣言は解除されていた。とはいえ感染リスクを考慮し、定点カメラと家族の手持ちカメラによるリモートでの撮影となった。撮影中はカメラを預けっぱなしで特にやることがないので、DVD『マキタスポーツの上京物語』を見返す。長渕剛に強い影響を受けながら、なかなか上京しない男をマキタスポーツが演じるフェイクドキュメンタリー…という作品の“ガワ”を、現実が食い破っていく怪作。「誰もパパのキャラクター知らないんだから…」と妻(パートナー)・希さんがつぶやくラストシーンを見て、僕は今回の番組を『上京物語2』にしようと、勝手に決めた。

撮影中は、希さんや長女・乃望さんと連絡を取りながら「誰も見たことのないマキタスポーツ」を捉えようとした。それは彼女たちにとっては見慣れた日常だったろうし、カメラを向けられるマキタさんにとってはなんとも手応えのない“密着”だったかもしれない。こうして生み出された数百時間の素材から、番組を構成する要素を見つけ出していく。マキタ家の皆さんの「普通の生活」を追体験する日々。その中で僕は、自分が許可局の「思わずツイートしてしまいました」のコーナーに送った一文を思い出していた。

「ビデオの“PLAY”を“再生”と訳した人は、ロマンチストだと思う」

つづきは放送が終わってから書きます。

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