見出し画像

雑記 形にすること、しないこと。外在化と内在化について 

忘れるということは、平和にとって重要な意味合いがあるのではないだろうか。

というようなことを、シラスの動画の中で東浩紀さんが言っていた。僕も、ロシアウクライナ戦争が起こってから戦争や平和について考えて、似たようなことを考えていたので、車を運転しながらいつもより集中して聞いていた。
 東さんが喋っている動画を見ていると、大気圏を突き抜けて地球の重力に縛られないくらい、遠くに離れて思考しているような感覚になってくる。そういった時は、いつもよりも記憶の片隅にあるような情報が引き出されやすくて、全く関係のないような事柄の連続性を見いだすことができるような状態になっている気がする。僕は東さんの話に深くうなずきながら、チベットの砂曼荼羅と、アイヌの紋様を子供が砂で遊びながら描いている場面を思い浮かべていた。
 
 僕の曖昧な記憶では、アイヌの独特の紋様は昔は砂で描かれるものだった。それが織物や彫り物という形を持って現在は受け継がれている。昔は道具や技術がなかったが、それが導入されることで紋様を描くメディアが変わっていった。形に残らないものから、残るものへ移り変わっていった。それはただ技術が発達したからなのだろうか?僕は、残すことにモチベーションがなかったことが、残っていない最大の理由なんじゃないか。むしろ残さないという指向性があったのではないか、と思う。
 チベットの砂曼荼羅は壊すことまでが制作の過程に組み込まれている。ネットでちらっと調べると「諸行無常を表現するため」と説明してあることが多いが、なんかちょっと説明的な気がする。何かを描くというのは内在的な行為だけど、完成したものは自分から切り離された存在になる。砂曼荼羅は表現のための行為ではなく、内在化を強化するための行為なのではないか。自分の中に神と呼ばれるものを見出したり、自分と神を乳化させる行為なのかもしれない。
 アイヌの紋様も同じように、流動的で、忘れ去られて、形を変え続ける「モチーフ」のようなものが、人という生き物にとって重要だということが、共同体のシステムの中に織り込まれていたんじゃないか。外在化させずに、抽象的なままで存在することで、むしろそれぞれの世界に内在化していく。それによって文化や世界観はその時を生きる人々の中に息づいて継承していく。

 僕はロシアーウクライナの戦争で、所有することが争いを起こしているように見えた。だから所有しない仕組みが必要なのではないだろうか、と考えた。そのことについて書こうと思っていたんだけど、どうしても重ったるい文章になってしまうのでこれでやめることにした。遠く大気圏まで思考は広がったけど、どうやら地面に着地してしまったみたいだ。むしろ飛んでいたのは一瞬で、書き始めた時にはすでに着地していたのかもしれない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?