「高血圧治療は薬剤師の方が成績は上」はトンデモである。

 薬剤師の処方権に関する話題をめぐり、「高血圧治療は薬剤師の方が成績は上」というXのポストに対して、僕はトンデモであると主張しました。この記事では、その理由について論じます。かなり荒い文書になっている点はご容赦ください。
 
 「トンデモ」という言い方に語弊があるかもしれませんが、僕はこれまでにも多数のメディアで公言している通り、あらゆる医療言説にはトンデモ性が含まれているという立場をとっています。それ故、公衆衛生の向上に寄与することをミッションとして義務付けられている医療者にあっては、トンデモ性の取り扱いが極めて倫理的な問題であると認識しています。
 
とりわけSNS等で影響力のある方におけるトンデモ性の強い投稿に対して、トンデモであることに留意せよとの指摘を繰り返してきた経緯があります。まずは、以下のnoteの記事をお読みください。

  「あらゆる医療にはトンデモ性が含まれている」というテーゼは、①トンデモ医療と標準医療の境界設定困難さと、②医療介入によりもたらされる効果(有効性であれ、安全性であれ)は理論的構成体である という2つの前提により支えられています。
 
 物事の真偽に対して明確な境界線を引くことは、医療に限らず様々な領域で困難だと考えています。そもそも「真の言明」とは何か、という問いに対して、客観的な基準を設定できない以上、それは人の恣意性に委ねられた線引き基準となるより他ないと考えています。このことは、ニセ医療と並んで批判を受けることも多い、ニセ科学についてより分かりやすい議論が展開されています。
 
 科学と疑似科学の”demarcation problem”は科学哲学のメインテーマであり、その議論も豊富です。カール ポパーの反証主義などがその代表ではありますけど、結局のところ、科学と疑似科学の境界線を明確に設定することは困難であると考えて大きな誤りはないでしょう(伊勢田.2003
 
 こうした議論をトンデモ医療と標準医療の”demarcation problem”に拡張したのが僕の主張の中核です。例えば、『高齢者の心血管疾患一次予防にスタチンを使うべきか?』 『花粉症に小青龍湯は使うべきか?』 『風邪をひいたらビタミンCを摂取すべきか?』 『癌にはビタミンCを点滴すべきか?』 と考えていった時に、どこまでがトンデモ医療で、どこまでが標準医療と呼べるかという問題です。どこで線引きするか、とあらためて考えたときに、「明確にここだ」と指摘しづらいのではないか、というのが僕の考えなわけです。
 
 トンデモ性というのはある種のグラデーションを描いているように思われ、トンデモか、そうでないかというな議論よりも、あらゆる医療(言説)にはトンデモ性が少なからず含まれてると認めたうえで、じゃ、どの程度トンデモ性があるのだろう、と考える方が建設的ではないかと思います。「トンデモ」というのは、種類の差ではなく程度の差というのはまさにこのことです。
 
 僕たちが生活しているこの世界には様々な存在があります。目の前を走る自動車や、グラウンドに転がっているサッカーボールなど、目で見ることができ、直接触ることができる存在から、素粒子など、目に見えないものまで様々です。僕が注目しているのは、目に見えない存在、つまり直接知覚できない存在です。原子や電子は目に見えず、直接知覚できないにも関わらず、僕らはその存在を確信している。なぜか?
 
 それは原子や電子が、物理学という科学理論によって間接的に存在の証拠が支えられているからです。こうした理論によりその存在の証拠が支えられているけれど、直接知覚することができない存在を理論的構成体(theorical construct)と呼びます。
 
 例えば「大学」なども理論的構成体と言えます。「東京大学は存在しない」なんてことはないわけですけど、じゃ、いったいどれが東京大学なのか指をさしてみて、と言われても、少し戸惑ってしまう。東京大学がある土地を指させばよいのか、それとも赤門を指させばよいのか、はたまた、本郷キャンパスに立ち並ぶ全ての建物を指示すればよいのか……。「大学」とは直接知覚できるような存在とは少し異なるのです。それは社会制度の枠組みの中で構成される組織的存在であって、知覚対象ではありません。
 
 さて、薬の効果がある、という時の「ある」はどうでしょう。それは手のひらに載せて、直接眺めることができるでしょうか。そんなことはないでしょう。薬剤効果は薬理学理論や疫学的・統計学的データ等によってその存在の証拠が支えられている理論的構成体と考えた方が良いように思います。
 
 繰り返しますが、理論的構成体は僕らが直接知覚できるものではありません。つまり、その存在に厳密な仕方でアクセスできないのです。薬剤効果や医療介入の効果そのもの自体を僕はカントの物自体にならって「効果自体」と呼ぶことがありますけど、人間は薬剤効果自体にはアクセスしようがありません。その効果の存在は、統計学や薬理学や薬物動態学などのから得られた知見、つまり間接的証拠によって支えられているにすぎないのです。
 
 そして、統計や疫学、薬理学などを使って解釈された薬剤効果は、薬剤効果自体そのものではありません。僕らが認識もしくは把握できる効果には、プラセボ効果が紛れているかもしれないし、研究デザイン上のバイアスがかかっている可能性もある。あるい交絡の影響や統計的過誤が発生している可能性もあるわけです。
 
 したがって、どれだけエビデンスレベルが高いからと言って、現象の厳密な因果性を直接的に認識することは不可能です。そういう意味で、客観的に正しい医療なんてものにはアクセスできない、つまり、あらゆる医療(言説)には程度の差はあれトンデモ性を含まざるを得ないと僕は考えるわけです。
 
 では、本題です。「高血圧治療は薬剤師の方が成績は上」という主張はトンデモ解釈であり、注意すべきという僕の主張は、何をもって成績とするのか何を根拠に上としているのかについて、曖昧なまま議論が展開される恐れを孕んでいるとの指摘に他なりません。注意が必要なのは、本主張は構造的という意味において、新型コロナウイルス感染症に対するイベルメクチンに効果がある……と言っていることと変わりません。
 
 なぜなら、薬剤師によるケアと医師によるケアを比較して、患者の臨床的な予後を検討した質の高いエビデンスが存在しないからです。むろん、血圧が下がるとか、費用対効果がどうの、という研究は探せば見つかることでしょう。
 
 しかし、例えば費用対効果があると言っても、社会の立場なのか、患者の立場なのか、保険者の立場なのかで議論の方向性は変わります。そもそも、費用対効果を検討するための割引率は、合理的な予測および仮定に基づいているか?と批判的に吟味すれば、その批判に耐えることができるエビデンスなど存在しないでしょう。
 
 血圧が下がる云々は、もはや代用のアウトカムですし、その統計学的な差異は生活レベルでは誤差範囲では?と批判されて、合理的な回答が返せるとは到底思えません。
 
 このように仮説検証型のエビデンスが存在しない状況は、新型コロナウイルスの感染が拡大した当初に報告され始めたイベルメクチンの境遇と似ています。当時のイベルメクチンの有効性に関わるエビデンスは、エビデンスの質という観点からは薬剤師の高血圧治療の有効性に関するエビデンスと同質のものです。

それゆえ、「高血圧治療は薬剤師の方が成績は上」という発言は新型コロナウイルス感染症に対するイベルメクチンに効果がある、といっていることと何ら変わないということです。

 二酸化塩素の除菌グッツにだって、それなりにエビデンスがあります。空間中の浮遊ウイルスがへったとか、マウスが長生きしたとか……。でも、そういうことではないですよね。

 つまるとこころ、エビデンスの使い方がおかしい。これは、エビデンスの使い方を丁寧に模索するEBMの考え方とは相いれないものです。エビデンスを恣意的かつ雑にあつかうことこそ、トンデモ医療の本質と言っても良いかもしれません。
 曖昧な事象に対してエビデンスを雑に扱わない、エビデンスで殴ることはしない、そういうことがトンデモ性から逃れるための、ほとんど唯一の手段と言ってよいように思います。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?