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プライドPRIDE のこと、自分のこと

以前も少しお話ししたとおり、私は日本でLGBTQに関わるボランティアをしている。https://note.com/star_star84/n/n93bae1136e95

私は今、ニューヨークにいる。
主に欧米では、毎年6月はPRIDE(プライド) monthとされ、LGBTQ+のことを考える。考えるだけではなく、この季節になると、街ではレインボーの旗や装飾が飾られ、レインボーがあふれていく。
とても高級そうなビルでも、さりげなく、しかし目立つように、普段は黒色の建物名のボードがレインボーになっていることも見られる。地下鉄の入り口の階段の前にレインボーなステッカーが貼られたり、道行く人がレインボーでPRIDEと書かれた服を着ていたり、お店の外も中もレインボーになっていたり…言い尽くせないけれど、レインボーを掲げることで、街がお祭りのように賑わっている。

そのうちひとつの目玉が、パレードである。クイーンズ、ブルックリン、マンハッタンなどとニューヨークシティの各地でパレードが行われる。
そのパレードは、最も人々の服装が鮮やかになると言っても過言ではない。そこはレインボーだけではなく、透け透けの服を着る人、上半身裸の人、大きな羽をつけた人、リオのカーニバルでも出ているのかと思わんばかりの雷神の背負っているような輪を背中につけた人、レイザーラモンHGのような人(これはかなり似ていた)。
私も、ニューヨークのパレードで、とある団体に混ざって歩いた。広い大通りを貸し切って歩くのだが、ただ歩くのとは違う。いくつかの団体はそれ用に改造したトラックにコンポ、スピーカー、アンプなどを積み込み、爆音で音楽を流してゆっくり走る。その陽気な音楽に乗せられて、リオのカーニバルがどんなものかは知らないのだが、街行く人も行進する人も自然と体が踊り出す。

私にとって極めて新鮮であったことは、通行人が極めてフレンドリーであること。立ち止まって、安全のために歩道と車道の間に臨時で設置された柵から身を乗り出して、笛を吹いたりレインボーフラッグをはためかせたりして、盛り上がっている。無関心な人もいるし、パレードで迷惑をしている人だっている。そのことを忘れさせるほどの熱気と盛り上がりがあった。
恥ずかしながら私は日本のPRIDEパレードに参加できていないのであるが、このように街が一体になって楽しんでいるようなパレードを日本でも見たいと思った。
いや、きっと日本のパレードもフレンドリーで、盛り上がっているだろう。そのことを知るためにも、ぜひとも参加したい。
余談だが、日本風のレインボーは、十二単(じゅうにひとえ)で表せたら素敵だなといつも思う。

もう一つ、最近、今いる会社の中で、プライドイベントがあった。
このご時世らしくオンラインのイベントで、パネリストが、プライドが自分にとってどのような意味を持つか、と言うことを話し合っていた。
そのパネリスト全員が、LGBTQの当事者であったり、その親であったりした。
私はそのどれにも当たらない(少なくとも現状で当てはまらない)身として、カテゴリーにあてはめるならば、Ally(アライ)だろう。
しかしなんだか、私がいていいのかなという気持ちにもなってしまう。私が関わって迷惑じゃないかと常に思う。
当事者の人は、それはいろいろな経験をしてきているだろう。そのような経験を私はしていない。そんな私が、LGBTQのボランティアなんてしていて、果たしていいのか。
私が経験したこと、それは固定観念で仕事をしすぎたこと。男で弁護士だからと、先輩たちがみな家庭を顧みずに働いていたからと、自分もそうならなければならないと思って自分を追い詰めて勝手に苦しんでいた。
一番自分を追い詰めていたのは、他ならぬ自分であった。その背景には、こうあるべき、という価値観が強烈にあった。思えば自分のやりたいことには蓋をして生きてきた。他人に評価されることを中心にやってきた。それが嬉しいから。いつからか、自分が何かを見失っていた。
そういう経験をしている人もいるだろう。それは、LGBTQの人たちとはまるで違う経験であるだろう。
私と他人は違うということがわかったここ数年間。他人の感じていることを私が感じるわけではないし、逆もそう。それでも他人のことに思いを馳せるならば、なんらかの苦しみを乗り越えて生きている他人しかいないようにも思える。その苦しみを外に言える人もいれば、外に言えない人もいる。自分で自分を許せる人もいれば、自分を許せない人もいる。あることでは自分を許せる人も、別のことでは自分を許せないことがある。

多様性なんて唱えて、他人を評価したり自分を評価したりすることから離れようと外では唱えている自分が、疲れているときに家の中で子どもが騒いで牛乳をこぼしたら、子どもを評価して怒るようなことをしている。そんな自分を見て、とても虚ろな気持ちになる。自分の二枚舌が嫌になる。どこまでいっても比べてしまう自分がいる。私は私でしかないことを認められない自分がいる。

人のことをどう思うか、それよりも、自分とどう付き合うかが難問であることに、思い及ぶ。今日もまた思うのだ、ああ、こんな自分がこの引き出しに隠れていたのか、と。毎日日記を書いていると、自分の気持ちの揺れ動きに目がいくようになり、書かなければ見落としたようなことにもめぐりあう。私は私だと、私がとらえる。

私にとって、そんなことを考えさせてくれた、それが私にとってのプライド。

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