コミュニティと排除と孤独について
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コミュニティって日本語にすると「共同体」っていうんだと。いや全然驚きではないけど日本語で敢えてあんま言わないよね。
自分は昔から一つのコミュニティに属しきるのが苦手で、コミュニティを円で例えたときに真ん中の方には行かずに、外側に留まる癖がある。
多分コミュニティは排除を伴うことを無意識に知っていて、後から排除された時にショックを少なくするように自己防衛でそうなってるのかなと大人になった今は冷静に考察できる。ただ、ありがたいことに今までの人生で明確に排除されたことは1度だけで、あとは出会う人全員がこんな自分を受け入れ続けてくれる人ばかりでありがたい。
その1度だって、決して理不尽なものではなかったし、拠り所はあった。かなり恵まれてる人生だなと思う。ありがたい。
残りの人生、この偶然恵まれた命の使い所はどこなのかなと考えてみると、ここ5,6年はざっくり社会の中の孤独や孤立を減らしたいな〜となる。
孤独や孤立を減らそうと思うとどこの誰にとってもコミュニティとの繋がりは必須で、とにかく人と繋がっている事はとても重要。
でも今の時代、人と繋がるの面倒くさいよね。コンテンツが多様化しすぎて共通の話題を探すのすら難しい。昔は昨日のめちゃイケの話しとけばよかったんでしょ?(多分違う)
しかもどこかのコミュニティに属するってことは同時に必ず排除されるリスクも生じる。
属するコミュニティを自由に選べたらいいんだけど、多くの人にとってコミュニティはそんなに自由に選べるものではないということも事を複雑にしている気がしていて。
その人が数少ない選択肢の中から選んだ、もしくは誰かに選ばれた共同体の中でそこから排除されないように生きることがもし今苦しいなら、そんなに辛いことはないなと。
さらに自分が排除されないために誰かを排除しないといけない状態になってしまうのはもっと悲しい。そういうことが今起こってしまってる気がしていて。
またその個性から馴染めるコミュニティが限りなく少ない人と、どんなコミュニティでも調和できる人の格差が気になる次第です。
社会の精神的な豊かさの偏りを、足りてない所に再分配できたらいいのになと心から思うなぁ。
自分が安心できる共同体を見つけるまでの間の期間に所属しておける繋ぎのコミュニティがあると安心できるコミュニティを探しやすくなるのかな?
終わり
適当な排除はコミュニティにとって必要だという前提の話
大人になると排除がうまくなるんだよなぁとも思う。排除という言い方がそもそも強い言葉なのであまり良くないんだけど、やんわり拒絶したり距離を置いたりするのが社会性の高さの一つの要素になっているよなと。
さてこれからどんな大人になっていこうかな
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