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「認知・気づき」について

今回は前回の流れを受けての記事です。
「認知・気づき」について考えてみたいと思います。ここでは「認知」と「気づき」を同義的に扱っていきます。

外界とは皮膚の外のこと-客体その1-

『「認知」とは、外界を認識すること』と単純に辞書には書いています。

いま私の目の前には、パソコンがありワードで文書を書いています。この記事を読んでいるみなさんも、「記事を読んでいる」ということは、noteの記事の白面に描かれている私の日本語の文字を読んでいるということです。

私の場合、いま、左側に首をふり意識を向けると窓があり、光が差し込んでいる光景を見ることができます。時間はもうすぐ昼になります。正面を向くと、TVがあり、右側にはリビング、後ろには寝室があります。もちろん下には床があり、上には天井です。

VRゴーグルをかけたように、左右、上下に向いた方向に応じた光景/現実が広がっています。

ここでTVを付け、ワイドショーを見ます。TVでは、パンデミックのことやウクライナ情勢のことばかりがこの時期は流れてます。
チャンネルと変えて、科学番組を見てみると、138億年前のビッグバンから宇宙が誕生し、今の地球社会ができたストーリーが流れます。

メールの着信音に気づき、そこには、明日行うべき仕事の内容が記載され、明日のことに思いを馳せます。仕事の内容によっては、少し緊張する感覚も芽生えます。そして、明日の昼食は何を食べようかな・・・などと考えたりもします。

メールは、大学時だの古い友人からの連絡も来ており、その時には、私の情緒はノスタルジー的な感覚が生まれています。

ちょとトイレに行きたいので、トイレで用を済ませ、買い物に行くために外出します。自転車に乗って、電車にのり、都内に出かけます。すると当然ですがそれに応じた光景が視界に広がっていきます。

皮膚の外に世界があるという認識

これらは認知革命が起きる30年ほど前は、全て自分の体の外側に実際に現実の世界が存在するということとして認識されている世界です。

外側から来た光を眼球の網膜が受け取り、その信号が後頭葉に届けられ、前頭葉で過去の記憶からフィルタにかけられた情報を「解釈」したもの・・・何を感じるかはその人次第ですが・・・それが「現実」でした。

現実は皮膚の外側にあるという解釈です。
しかし認知革命以降は、それらは全て意識の空間に現れては消える「対象」に過ぎない、ということがわかります。

私の記事で何度も登場する映画マトリクスと同じことを話しています。

それらがこの外側の世界についてです。

皮膚の内側の信号-客体その2-


これまでは、皮膚の外側の世界について考察を続けてみました。次に、皮膚の下にも意識を向けてみたいと思います。

皮膚の下を実際に見てみるにはナイフで皮膚を裂かなければいけません。そんなことはできないので、ここでは思考実験になってしまいます。

皮膚の下には筋肉があり、その下には血管や内蔵があります。頭蓋骨の下には脳が有り、脳の構造として前頭前野、大脳辺縁系、扁桃体、側頭葉、海馬といった部分が確認されます。

胸骨の下には肺があり、その下には心臓という臓器が、が私たちが「私」という認識をもつ以前からずっとその鼓動を唱え続けています。

先ほどTVで写っていたパンデミックやウクライナの情報を見ると、脳の扁桃体が発火していることがわかります。
戦争や災害の映像は、人間の生命を脅かす恐ろしい情報の1つだからです。そのため、その情報に伴った生体反応が起こります。例えば、心臓の鼓動と脈拍は早まり、血圧は上がり、少し発汗もしています。呼吸は浅く、脳派はベータ波を呈します。

左側の窓を見たときは、窓から見た光を見て、少し落ち着いた感覚が出てきます。つまり扁桃体は収まりリラックスしたアルファ派が出てきます。

TVの科学番組を見ているときは、色々小難しい科学用語や論理的思考を求められるので、前頭前野が発火していることでしょう。
明日の仕事に思考を巡らせている時も同様です。少し不安と緊張からか、脈拍は早くなるかもしれません。

このように目の網膜に映る外界に呼応して、脳内を初めとする神経生理的な変化が起こっています。

あまりTVで戦争やパンデミックの不安や恐怖を煽る映像を見続けると、扁桃体が常に暴走し、副腎から出るコルチゾールというストレスホルモンを体中に生成し続けてしまいます。

そなると、体中に広るコルチゾールは脳や身体の炎症を促進し、免疫力を低下させウィルスに感染しやすくなったり、様々な病気の引き金につながってしまいます。

TVの言うことばかりを間に受け、外出しないことを何年もやっていると、鬱病を患ってしまう人も多くいます。
健康診断で、引っかかってしまうこともあるかもしれません。

皮膚の下の臓器や発汗、脳波、心拍数、呼吸の状態、ホルモンバランスなどは、外側の環境からの刺激に双方向的に関連しています。

ちなみにそれらを脈拍計や脳波計、血液検査、内視鏡や遺伝子情報などの医科学的な数値や画像として、皮膚の外側に認識できるように還元できます。
その数値や値が不健康とされるのであれば、食生活や生活習慣を変えることで普段は見えない皮膚の内側の臓器を健康に保つようにフィードバックします。

私という内面-自分という主体-


目に映る、「皮膚の外側の外界の世界」と、「皮膚の内側の世界」、だけが宇宙の全てではありません。

私たちは、世界をどのように感じているのか?という「解釈」する生き物です。
TVに映る戦争の光景を見て、悲惨な気持ちになる人もいれば、怒りの感情を喚起させる人もいます。懐疑的にその情報を捉える人もいれば、何も感じない人もいます。

それらの人々の解釈によって、それぞれの生体宇宙の反応は異なります。

同じように、パンデミックについても不安や恐怖に感じる人もいれば、冷静に情報を見て分析し、この毒性と致死率を考えるとインフルエンザの方が警戒すべきだという人もいるでしょう。

そもそも、全く怖がらない人も沢山います。

不安と恐怖は扁桃体優位の情報処理で、冷静に落ち着いて分析するのは前頭前野の部位が担います。
脳の起動する部位によって、網膜に映る外界の世界の解釈が異なってきます。

網膜に映る現象は同じ現象でも解釈が違えば、生体に起こってくるホルモンバランスは異なります。

「コップに半分入っている水」を見て、「半分しか入っていない」と感じるか、「半分も入っている」と解釈するかで世界観は異なるということです。

例えば、有名な例として・・・
『夜トイレに起きて寝室に戻ると、自分のベッドの隣に大蛇がとぐろを巻いているのが目に入るとパニックを起こします。

「戦うか逃げるか」という扁桃体優位の思考回路が起動し、それに伴った生理反応が生じます。つまり、視野狭窄になり冷静な思考は不可能になります。瞳孔は開き、手や足裏には汗が出て、呼吸は咲く、心拍数は早くなります。

しかしその時、窓から雲に隠れていた月明かりが蛇を照らしたとき、その蛇と思っていたものは、自分が寝ている時にかけていた毛布が、トイレに行った時に剥がれて落ちていたものを「蛇」と誤認していたことがわかります。

その瞬間に不安と恐怖は一瞬で消え去ります。前頭前野が機能し、「安全だ」と確信したからです。
そして安心してまたベッドに戻り、明日に備えて睡眠をとります。』

このように、目に映った対象をどう感じるか、どう評価するか、どう解釈するかはその人の状況次第です。

また、映画や音楽の好みがある人は感涙するほど好きでも、ある人は嫌いだという情動が起きる違いは、その映画や音楽という対象を評価する「私」の解釈がそれぞれ一人一人違うからです。

私たちという内面-機能と過程-

私という個人が固有に感じる感覚や感情は、実は自分で自由に感じているものではありません。

例えば今起こっているウクライナとロシアの戦争の光景も、ウクライナ側から見た場合と、ロシア側から見た場合とで、感じ方や、起こってくる感情は異なるでしょう。

また、先ほど夜寝ている時の蛇の例ですが、その人が蛇使いの家系に生まれ育ち、蛇なんて全く怖くない人だったら、何も感じずそのままベッドで寝ていたかもしれません。
また、蛇を神聖視する文化や宗教で生まれ育った人なら「神の使いが来た」と感極まって感動するかもしれません。

TVに映る科学番組も、もともと科学に関心があり、予備知識があるから宇宙の神秘に思いをはせ、感嘆と畏怖の念でこの宇宙の神秘に思いを馳せるかもしれませんが、

小学校低学年の科学の予備知識しかなければ退屈な学校の授業のように感じてしまうでしょう。

また、この私の記事だって日本語が読めない人にとっては全く無意味な文字の羅列です。そう、私のこの記事は日本語が読めない人には、何も共鳴することがなく、つまり意味をなさず、その個人に何もエネルギーを生じさせることができないのです。

要するに目に映る外界の現象の評価は、その個人が抱いている、文化的、宗教的、言語的な背景と、そしてもっと細かく言えばその個人の感覚的、生理的要因が大きく影響しています。

そして、それらの背景はアルゴリズムで構成することが可能であるということは、なんとなく理解できるかと思います。

例えば日本人ならば、「クリスマスはパーティーを開き、正月は初詣、盆は実家で親戚と顔を合わせる」という平均的な風趣はパターンであり、アルゴリズムだからです。

夜に遭遇する蛇に恐怖を感じるか否かは、その個人のもつアルゴリズム(宗教、家系、文化的パターン)で出力される感情パターンが異なります。

そしてそのアルゴリズムは無意識であり、その個人が意図的に選んで培ったものではありません。起動すると既にインストールされているパソコンのソフトのようなものです。

サンヒター

これまで、
①皮膚の外側の世界と、皮膚の中の世界という物質の世界で主に表される「客体-その1、その2-」。
②その物質の世界どのように感じるかという「自分」という「主体」の世界。
③その主体である自分を歴史的、文化的に決定する、私たち人類か築きあげてきた集団的な世界背景であり、主体と客体を繋ぐ「機能と過程」。

の三つについて話をして来ました。

私たち人間が「認知・気づき」を行うとき、必ずこの①~③が同時に双方向的に現れています。

素晴らしい夕日の眺め(客体その1)に気付く時の、生理反応(客体その2)状態と、道端に死んでいる動物の死骸(客体その1)に気付くときの生理反応(客体その2)とでは、想像するに異なります。
前者はポジティブな感情(主体)で、後者はネガティブな感情(主体)が想起される可能性が高いでしょう。

しかしながら、明日、嫌で仕方がない仕事がある場合(機能・過程)だと夕日を見て明日を思い憂鬱になるかもしれません。動物の死骸も、自分の畑を荒らし収穫の邪魔をしていた野生動物である状況であれば(機能・過程)、その市街を見て、単純にネガティブな感情は出ないでしょう。

そして、今この瞬間の認識している世界は、素粒子だろうが宇宙の果てという大きさや距離にかかわらず、そして過去や未来という時間にかかわらず、全て①~③の領域で同時に現れています。

VRゴーグルであの前に映る光景が超ミクロでも、超マクロでも、過去でも未来でも、現在でも、異世界でも、全て①客体、②主体、③主体と客体を繋ぐ過程で分類ができます。

スピリチュアルと宗教の確信といわれるヴェーダ


宗教の確信と言われるヴェーダの哲学では、サンヒターと言われるものがあります。
それは、万物の過程はリシ(主体)、チャンダス(客体)、デーヴァター(観る過程・働き)という三位一体という統合する総称がサンヒターというわけです。
それぞれについて、簡単に見ていきたいと思います。

『物質という客体』
先の皮膚の外で起きている世界、皮膚の中で起きている世界は両方ともに、物理的なものが主な客体です。文書化されることができる制度や法律、規則もこの分野に入ります。

『私という主体・心』
そして「私」がどう感じるか、という喜怒哀楽というものは心と呼ばれる情報的なものです。
一般的に言われている「私」というものは、喜怒哀楽という感情を伴うものとして「自分自身」と認識されますが、それらは全て時間とともに移り変わります。

(※ちなみに私は嬉しい、楽しい、怒っている、悲しい、というのであれば、「私」が感情を対象として見ているわけで、私という究極主体は感情でありません。)

『物質や心を成り立たせる働き・機能』
感情は先ほどの例で言うように、文化、宗教、国籍、言語的な背景によって異なります。また、その個人の状況や状態であっても異なります。

恋愛映画を見て憧れの人を思い出し幸せな気分になる時もあれば、恋人と別れた直後では幸せな恋愛映画を見ても、苦しいだけです。
つまりその個人の「状況」によって、情動は支配されます。

 そして前述した「深夜の蛇」の例では、その個人の文化的、宗教的背景によって湧き上がる情動は異なることをみました。

では、それらの個人の状況や文化、宗教などの「状況」とは「私」自身のことでしょうか!?文化、宗教、国籍、言語、自分が恋人と上手くいっているかいないか、ということはその人そのものではないのは明白です。

これらの状況は個人を超えた範疇のことです。

これらの状況を過去から紐解くと人類史を遡ってしまいます。状況によってはビッグバンにまでその因果をさかのぼってしまうでしょう。

文化や宗教、国家というものは人間が脳と心で作り出したものです。そしてそれは私たち人類が巨大に繋がるネットワークの関係性という歴史の中で紡ぎ出されたアルゴリズムです。
自分が恋人と上手くいっているかいないかということは、二人の間の関係性によるということです。

それらは全て関係性であって、「自分」と呼ばれる感情や思考、その個人のホルモン状態を決定させています。
宇宙が誕生し現代の地球文明に発展するまでには、10の4万乗分の1になります。この確率は、とても偶然でできた確率ではなく、物質の様々な衝突だけでは無理です。その背景には何らかの意思がないと私たちは、存在し得ないと言われています。

 これを仏教では縁起と呼び、神道では「働き」と呼び、キリスト教では「精霊」と呼んでいると考えられます。

三位一体の融合で同時にあらゆる存在は成り立っている


物質(客体)―自分(主体)―私たち(機能・役割)という三位一体は、ケンウィルバーが「万物の理論」とういう思想の中核思想です。

これはは、西洋科学と東洋思想を癒合し、統合した中で見えた一つの「絵」です。

進化とは、バラバラに見え、矛盾する事象に関連性を見出し、法則性を見出すことです。そしてそれらがお大きな意味ある一つの絵としてみることができます。

西洋思想と東洋思想、そして科学と宗教・スピリチュアルは、一見矛盾し、互いに相容れない存在通しのように見えます。しかし、20世紀の後半から私たち人間は知識と技術を得ることによって、それらを融合し、統合できる予感を感じており、21世紀ではそれらは常識の範疇に入ってくるでしょう。

メタバースやVRゴーグルの普及によって、今、自分が「私」と信じて疑わない自分という存在は、仮想世界のアバターという可能性は捨てきれません。

実際に現実がVRゴーグルで創造されているかどうかは別として、過去も未来も、ミクロ宇宙、マクロ宇宙、宗教、科学、オカルト、歴史、芸術、音楽などの様々な学問など全て映画館のようにホログラフィックに現れた対象であり、上記で話した①客体としてカテゴライズできます。

では、そのホログラフィックを構成しているアルゴリズムは何らかの数学的な方程式で記述可能なのでは?と考えるのが自然です。

超ひも理論のように、ひもの振動具合によって出てくる素粒子が異なるように、方程式の入力しだいで、出てくる値が様々な時空間として出力されているというわけです。

であるならば、私たちは宇宙という巨大な方程式という関数の、入れ子の中の小さな、関数というわけです。
マトリショーカのような構造になっているというわけです。

次に続く。

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