見出し画像

プラーナと「生命素粒子」ーその2ー

※前回の記事からの続きです。

生命素粒子と「気」

苫米地博士の「超情報場仮説」においては、情報空間と物理空間は連続的であり、情報空間の抽象度の低い部分を物理空間と呼びます。

つまり目の前に広がる物理宇宙は、どれだけ広大で、どれだけミクロにわって広がっていても、それらは情報空間における最も抽象度の低い一部分でしかありません。

物理学者のカルロ・ロヴェッリは著書「世界は関係性で出来ている」において、物理現象はすべて、独立して存在する固有の物体があるわけではなく、すべて関係性で出来ている、と述べています。

すべての現象は、目の前にある物体が存在するというよりは、「昨日海辺で体験したキス」というような出来事というようなものだと言います。

昨日のキスを目の前に出せ、といっても不可能です。

ところで関係性とは、仏教における縁起のことです。カルロ・ロヴェッリはこの著書の中で数千年前の仏教徒ナーガルジュナの思想に大きな影響を受けています。

関係性とは、父、母、子ども、昆虫、動物、星、銀河などという概念はすべて関係性というネットワークで紡ぎ出された存在で、つまり情報であるということです。

縁起によるネットワークで生まれた関係性(例:家族という関係性の父や母、子ども)で、目の前の物理現象が生まれます。

つまり情報空間の中のプログラムで出来たネットワークの結果から、VRゴーグルの中のキャラクターや様々な光景が展開されることと考えていただければと思います。

コンピュータの関係性ネットワーク(プログラミング)の結果によって、この目の前の宇宙が広がっている。それは、極小の素粒子も同様であるということです。

そして、その素粒子の元となる情報空間の中での粒子があり、それを苫米地博士は「生命素粒子」と呼んでいるということだと思われます。

前回の記事にリンクした動画にあるように、生命素粒子には不確定性、不完全性が働き、何もないところから生命が発生する原理だと述べています。
(※参考動画 (31) ホーキング博士は真の物理学者ではない!! Dr.苫米地 2018年4月2日 - YouTube
(9:30~あたりから生命素粒子について言及)

そして、その生命素粒子は生命情報場や情報空間、物理空間を横断するといいます。
苫米地博士は、これらの説明は、難しいので、一言で言うと「気」だと述べています。

生命素粒子と「気」

「気」という言葉は元気、やる気、勇気など、なじみのある言葉です。

中国の気功でも「気」という言葉が使われ、ちょっと調べてみると「気」はインドのアーユルヴェーダでは「プラーナ」とも呼ばれているようです。

そこで「プラーナ」について調べてみました。

すると有名な「あるヨギの自叙伝」においてプラーナについて面白い記述があったので紹介します。

「プラーナ」
原子よりよ り精妙な知性的エネルギーの光の粒で、ヒンドゥー教の経典では概して「プラーナ」といわれ、パラマ ハンサ・ヨガナンダが「ライフトロン」としたもの。その神髄は、凝縮された神の思念で、物理的宇宙の生命原理である。物理世界では、プラーナには二種あ る。(1)大宇宙に遍在する宇宙の波動性のエネルギーで、万物を構成し維持する。(2)特定のプラーナ、エネルギーとして、五つの流れの形態とそれぞれの 働きをつうじ、個としての肉体にいきわたり維持する。「プラーナ」の流れは凝縮化の働き、「ヴィヤーナ(viyana)」の流れは循環、「サマーナ (samana)」の流れは消化吸収、「ウダーナ(udana)」の流れは新陳代謝、「アパーナ(apana)の流れは排泄の働き。


また、「あるヨギの自叙伝p431注(3)より」では、

「プラーナ(創造的生命エネルギー)」
「原子や電子は盲目的な力であるが、プラーナは固有の知性を持った力である。例えば、精子と卵子の中にあるプラーナは、胎児の発育をそれぞれもつカルマに従って誘導しているのである。」

「あるヨギの自叙伝p431注(3)より」

とあります。つまり、精子と卵子が受精卵になり、どの部位が頭で目になり、足になり、指先になるか、ということは現代科学では解明出来ていませんでした。

物理的な要素で受精卵が頭や足という部位に分化し発育していくならば、その条件はおそらく重力が大きな影響を与えているでしょうが、それだと逆子の説明がつきません。

受精卵が重力を感知して、受精卵の下の方が頭として育ち、上の方が足として分化し育った場合、途中で逆子になると、足に育っていた部分が頭として発育しなければなりませんが、すべての生物においてそのような現象は起きていません。

原子やそれを構成する素粒子のような盲目的な力であれば、そのようなことはあり得るかもしれませんが。そこにプラーナという創造的な知性を持った力が働き、発達を促しているというわけです。

つまり人間の発達でもプラーナの力がなけれは発育と成長は説明がつきません。
この力が、素粒子から原子を発生させ、原子核、生命、動物、人間へと進化・発展させてきた力だと考えられます。

前にも書きましたが、素粒子や原子のランダム性では、138億年という短い期間で生命が誕生することが不可能です。
その短期感での進化という不可能を可能にしている粒子が、現代風の言葉で言えば「生命素粒子」であり、ヴェーダの言葉で言えば「プラーナ」、中国や日本の言葉で言えば「気」ということになります。

「エントロピー」

宇宙に存在する物理現象は、エントロピー増大の法則に従います。つまり、宇宙に存在すると、バラバラに分解していく方向性に宿命づけられています。
物理現象は秩序的な状態から無秩序の方向性に向かいます。

しかし、それに反して、生命現象はエントロピーとは逆行する方向に向かおうとします。つまり、無秩序から秩序の方向に移行しようとする働きがあるということです。

肉体的な死を迎えると、おそらくプラーナが抜け落ちるのでしょう。すると肉体はもう物理法則にしか従うほかなく、腐敗し、塵となり、無秩序の方向性へと向かいます。

反して生きるということは、無秩序から秩序を見いだし行為です。ランダムで無秩序な状態、例えば争いや問題、病や障害といった状況から法則性(秩序)を見いだし、応用し、より効率的な運用を行います。

そこで見いだした法則が格言や哲学、宗教、スピリチュアルの法則などとして子孫に受け継がれています。

私たちという身体を持った存在は、エントロピーの増大する物理的な現象と、エントロピーが縮小する生命現象の狭間でこの世界に存在します。

人間は年を取るごとに、エントロピーは増加します。反対に、身体は老化していきますが、生き抜く知恵は豊かになっていきます。それはエントロピーが凝縮し、結晶化された知恵として、子孫に受け継がれていきます。

個という存在ではなく、種としての人間は物質的な世界ではますます混迷を迎えてもいますが、生きる意味やより調和し、平和に生きるための知恵のような、情報空間的な知恵や叡智もITの普及で誰でもアクセスが可能になっています。

プラーナ・生命素粒子は時空を超える

数千年前に書かれた旧約聖書や新約聖書は今でも西欧社会のコアであり、多くの人々に大きな影響を与えているのは言うまでもないことです。

地球温暖化の未来予測から、現代の文明のあり方を見直し行動を変えようとします。

これらの例は過去や未来の情報が、現代の私たちの物理的な身体を持つ人間の心と体に大きな影響を与え続けているということです。

そして、それは宗教や科学的・学問的な予測だけではありません。

シェイクスピアやゴッホ、ダヴィンチのモナリザ、などの作品はフィクションであれ何であれ、時間を超えて私たちの個人のみならず文明にまで大きな影響を与えます。

個人個人の水準で言えば、漫画やアニメ、映画はフィクションですが私たちの人生になくてはならない存在で、大きな影響を与えます。

わざわざ時間とお金を、沢山費やしていることが私たちが生命情報的な存在であると言うことを意味しています。

もっと身近な例で言えば、そもそも紙幣という物理的な金ではなく「国家の信用」という関係性(情報的なもの)を担保に、私たちの経済と生活は回っていることが私たちが物理的な存在というよりは、物理を含んで超える生命情報的な存在であると言うことを意味しています。

物質的な欲望を追求すると、その欲望は歯止めがききません。それは情報的な欲求でも抽象度が低いので、ある一定に向かうと崩壊を迎えます。
つまり、心理的にも一瞬の刹那的な快楽はあるでしょうが、永続する安定した幸福ではありません。それは抽象度が高い世界にあるからです。

つまりお金を追い求めすぎると法則上、崩壊するしかないというわけです。それは遅いか早いかというだけです。

反対に、抽象度が高い叡智は軸を超えて大きな影響を持ち続けます。例えば、どれだけの人類が正確に理解をしているか別ですが、キリストの愛や仏陀の縁起の思想は、伝承者が異なるだけでその智慧は受け継がれ、なくなることはありません。

それどころか最新量子論と縁起や愛の概念が同じ概念であることが、時代とともに理解されています。

ヴェーダ、神、縁起

最後にスピリチュアルなことにふれタイたいと思います。

仏教とキリスト教が根本的なところにおいて共通するということには触れました。

そもそも仏教は、釈迦が当時あったバラモン教のカースト制度などを否定したところが有名です。

バラモン教はヒンズー教の影響があり、つまりヴェーダ哲学の影響があります。

ヴェーダは何かというと、知識のことです。

「ヴェーダとは」
知識は、知る者、知る過程、知る作用の対象が一体になることで生じます。知識は、知る者、知る作用、知られる者が一体である状態において開花します。したがって、知識は、知る者と知る作用と知られる者の統一場です。

ヴェーダの術語では、統一場はサンヒターと呼ばれ、知る者はリシ、知る過程はデーヴァター、知られる者はチャンダスと呼ばれます。

マハリシヴェーダ科学

・知識(ヴェーダ)=知る者(リシ)、知る過程(デーヴァター)、知る作用の対象(チャンダス)が一体(サンヒター)

という関係性(仏教の縁起)は、

=父(主体)、子(客体)、精霊(関係を取り持つ存在)というキリスト教で言う三位一体を想起します。

そして、それは認知の構図に一致します。

このような三つの関係性には実は神道にも見受けられます。

神道には造化三神という概念があります。

造化三神とは、高天の原(たかまのはら)に最初に成り出た独り柱で、アメノミナカヌシ(天之御中主)、タカミムスヒ(高御産巣日)、カムムスヒ(産巣日)を言います。

それぞれの三神は、
・タカミムスヒ(高御産巣日):未来を司る
・カムムスヒ(神産巣日):過去を司る
・アメノミナカヌシ(天之御中主):中今という「今ここ」を司る
                   
                 
といわれます。

つまり、それぞれの造化三神の神とは、「認識」が過去に向くか、未来に向くか、それともバインドフルネスのように、「今ここ」という中今に向くか、ということを指し示しているように感じます。

過去も未来も、そして「今ここ」も、すべて意識の中で生じており、それぞれのエントロピーのバランスの中で万物は存在しているということのように感じます。

その中で、どの方向に意識を向けるかで、生命素粒子が通信を始め、目の前の世界が変わっていきます。

つづく


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?