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畏怖【短編】

こんな話を聞いたことがあるだろうか。

三重県の某団地前の公園に佇む池には、人喰い人面魚が出るという言い伝えがある。池に入った子供をばくりと飲み込み、以後、魚の顔が飲み込んだ人間の顔面のように変貌するというなんともグロテスクなものだ。
言い伝えというよりも小さな噂でしかなかったのだが、その公園に遊びに出かけたひとりの少年が行方不明となって果たして帰宅することはなかった出来事があってからというもの、団地の少年たちはみなその噂を信じ、最もホットな話題として狂乱狂唱していた。

僕もそのうちの一人だった。
典型的な「団地の少年」であった僕は、放任の自由を謳歌していた。母親は僕がとっくに寝静まった深夜に帰ってくる。父親は、帰ってこない。

その日もいつものように学校から帰宅する。さびついたドアを開けると、ちゃぶ台の上にコンビニ弁当が置いてあるのが見えた。変哲ない光景だ。
宿題として出された算数のプリント一枚を終わらせ、録画していたアニメを見始めた。僕はいわゆる「おたく族」で、恥も外聞もなく言えばそのころは小学生でありながら、らきすたに耽っていた。

近くにはヨウちゃんが住んでいた。
彼は親分肌で、ガキ大将的なポジションだ。僕とは対極の存在のように思えるが、実のところ彼もおたく族のひとりであり、学校でひょんなことで話が合ってからというもの、仲良くしはじめた、そんな関係だ。
とはいえ彼の少しばかり横暴な態度は、得意なほうではなかった。

その夜はなんだかいつもよりも幾分か長かった。
コンビニ弁当をレンジに掛ける音が寂しい。慣れっことはいえ、やはりこの瞬間だけはため息をついてしまう。強く吹き込む風が窓枠を揺らしている音が聞こえた。

僕は夕食を済ませたあと、布団に潜りこみ、眠たくなるのをひたすらに待った。いつもならバラエティ番組を見るような時間帯だったが、その日だけはもう眠りにつきたかった。がくがくと震えていた。

だしぬけにインターホンが鳴る。
だいぶん昔に設定されたであろうしがれた音は、無機質さがその張り詰めた空気を築き上げ、独創的かつ荒廃とした世界を創生する。
心臓が小さくなる感触があった。
僕はおそるおそるドアを開ける。
そこには、ヨウちゃんがいた。

「いきなり悪かったな。ヒマだし、池、見に行かん」
「探しに行こ、人面魚。みつけてやろうぜ。」

僕は断ろうとした。
彼と二人であの池に行くのは嫌だった。若干だがたしかに秘められているヒステリックさやスプラッタな本質を、幼いながら僕は見抜いていた。
ふと、自分がドアまでに歩いてきた道を振り返る。いやに暗かった。
僕はこのままでは二度と布団へは戻れないのだろうな、と思った。

彼と他愛もない会話をしながら池のある公園に向かう。ふたりが好きなアニメの話、最近学校であった事件、それから好きな人なんかについても話した。僕は少しばかりよそよそしくしく接していた。
街灯が二人を照らす。伸びた影は、ふたりが大人になったときの姿をそのままうつしているかのようだった。大人になっても、ヨウちゃんのほうが背は高かったが、不思議と悔しくはなかった。

彼もまた、団地の少年である。どういった家庭環境であるかなど知る由もない。悪い噂を少しばかり耳にしたことはあるものの、そんなことに興味をしめしてしまうほど噂好きではなかった。
ただ、ぶっきらぼうに笑う彼のその笑みの奥に潜む行き場のない寂寥感は、無論、彼自身のものではなく僕に向けられたもので、とはいえ、そうとは言わない彼の妙な優しさは感じ取ることができる。その優しさを受け、寂しさだけが僕に乗り移った。

公園までの道のりは意外に遠い。夏が終わりを告げたばかりの季節、汗がまばらに溢れ出る。僕らは気づけば無言になってしまった。途端に気まずくどんよりとした空気が流れ出す。池まではもう少し歩かなければならない。僕は後悔しながらも、この異様で独特な空気感を半ば楽しんでいた。

不意にヨウちゃんの足がとまった。
僕は汗を拭っていたためか、しばらくの間、それに気づくことができなかった。左側がやけに広々としていることに疑問をおぼえ、振り返る。
そこにはとてつもなく真剣な眼差しで僕を見つめるヨウちゃんの姿があった。まるでワニが獲物を虎視眈々と狙っているかのようなその出で立ちや目力に、僕は少し後ずさりをしてしまった。

「田村の家ってさ、片親だったよな」
「母ちゃんが言ってたんだけどさ、あのさ、お前のお母さんってさ、その、水商売して、稼いでる、らしいよな」

息を詰まらせながらもそう言い切った彼に返す言葉を僕は持ち合わせていなかった。
彼はいささか内面的、かつ本質的なところを訊ねているのだろうが、そんな僕は外面だけでなく中身さえなかった。彼自身もそんなことはわかっていた。わかっていながら訊ねるのだ。さらに自分が情けになるとわかっているようだった。それでも僕は彼を優しい、その言葉で綴ってしまうのである。

しばらくして、ようやっと池にたどり着いた。そこまで一切の会話はなかった。ふたりとも、もう黙っているしかなかった。
池に近づく彼。よいしょと手すり用の柵をのぼり、木と木のスキマに足をかけながら池を覗き込む。
街灯が池や周辺の草花、柵、そして僕たちを照らしていた。汗が目の中に入った。からだ中が充血している、そんな気分だった。足元はいつも柔らかく、どこを踏みしめてもなんら手応えもない。それどころか嫌な感触が残った。それは今この現状、刹那にのみ適応した論理によって理由付けられている。いつも通りの世界(現実)に出会ってもいいかげん不気味だろうが、ここでしか通用しないその論理がやけに生々しく、迫力に満ちていた。月がちょうど真上に出ていた。それは確かに満月だった。

次の瞬間、自分がゆっくりと、かつ着実に彼の背中に歩み寄っていることに気がついた。また、震えた腕が彼の背中を押そうとしていることにも気がついた。無意識に息を殺していた。背中につたう汗が気色悪い。僕は乾ききった目をかっぴらき、彼を池へ突き落とせる距離まで近づいた。顔面は汗と涙でぐちゃぐちゃになっている。それはきっと、彼もそうであったに違いない。

それからまもなくして、僕は3つ隣の町に引っ越した。母親は歳からか水商売から足を洗い、パートを掛け持ちしながらぼくを育ててくれた。依然として、貧しいことにかわりはなかったが。

引っ越してから、ヨウちゃんに会うことはなかった。結局あの夜、人面魚を見つけることはできないまま、ふたりは解散した。
僕は、彼のように生きてみたい。しかし、そう願ったとことで自分には何もできないのはわかりきっていた。本当に願っているのかさえ確信が持てないのである。何かを恐れているのではなく、そもそも恐れることが僕になできなかった。

帰路をふたりである程度歩いたあと、僕は自身の家へ向かっているヨウちゃんの後ろ姿を見送った。大きな背中が街灯にてらされるたびに小さくなっていく。
その光景を今でも鮮明に覚えている。

一人暮らしとして、都会に移り住んでからもう4年ほど経っていた。
ビルとビルの隙間の影で、周囲を見渡した僕は煙草に火をつける。
もう二度と会うことはないであろう通行人の後ろ姿に彼を投影する。それらが振り返えらないことを僕は知っていた。

「お前の父さんだって、強盗でムショ入りのくせに。」

呪文のように唱えたその言葉には、意味もなければ、なんの思想さえありはしなかった。


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