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爆誕する永久機関『るろうに剣心』 -beginning to beginning-

2021年6月4日、私が10年間に亘って愛し、情緒もオタク根性も封印されし腐女子精神もとにかく私の人格を形成する何もかもをめちゃくちゃにしていった映画シリーズがついに完結した。


実写版『るろうに剣心』シリーズである。




2012年8月、第1作『るろうに剣心』を友達と観に行ったあの日から、私はのちにシリーズへと進化するこの作品に魂を売り渡している。いや対価ももらっていない、ただただ魂を捧げてしまった。一介の佐藤健推しがヤッタゼ佐藤健でるろ剣だってよヴィジュアル完璧じゃん最高行く行くみたいな適当なノリで劇場に足を運び、そしてあの日の彼女は爆死してしまったのである。

ただ佐藤健を目当てに観に行っただけだったこのシリーズを、「映画」として、佐藤健推し力もオタク根性も封印していた腐女子精神も、とにかく私が持てる趣味嗜好と性癖全てを最大出力で燃やし続けてこの10年間、愛しに愛することになるとは思ってもいなかった。


その愛しに愛したシリーズがついに完結した。今こそ持てる能力と最大出力で燃やし続けた愛全て使ってこのシリーズをプレゼンする時が来た。


好きなように、10年分の気が済むまで語らせてもらおう。これは感想文であり推しプレゼンであり私が10年間生きたという記録である。好きなように好きなところから語らせてもらおう。
なお、腐女子精神まで動員してこの映画を愛してきたので、一応中の人がいるということで腐女子的プレゼン部分は有料とさせていただく。別にお金が欲しいというわけではないが万人にオープンにできる類の話ではないので、マナーとして非公開にさせていただく。もちろん無料部分だけで十分人を疲れされるほどの量は書くつもりだ。(とか言って蓋を開けてみたら半分以上が有料部分になってしまったということになったらどうしよう)

なお、私の他の映画感想文のようにThe Beginningまで含めてネタバレには一切配慮しないので、そこはご承知願いたい。しかもおそらく最新作The Beginningのネタバレが一番多くなる予定である。



1. 『るろうに剣心』シリーズの構成

実写『るろうに剣心』は全5作から成るシリーズである。vs武田観柳・鵜堂刃衛戦の初作『るろうに剣心』、vs志々雄真実戦の2部作『京都大火編』『伝説の最期編』、そして2021年公開のvs雪代縁戦の『The Final』、人斬り抜刀斎時代の緋村剣心と雪代巴の過去を描く『The Beginning』である。

私はこの全5作は前期3部作+後期2部作の構成だと思っている。

{『るろうに剣心』+(『京都大火編』/『伝説の最期編』)}+(『The Final』/『The Beginning』)

こんな感じである。もともと製作側としてもvs武田・鵜堂戦の初作で終わらせるつもりではなく、そもそも志々雄真実戦までの3部作としてこの映画を作るという意図はあったようだ。しかし、それが実現するかどうかは初作の成績次第だった。幸いなのか当然なのか、初作『るろうに剣心』は成功し、製作陣は2部作「京都編」へと乗り出していくことになる。


ぶっちゃけた話、私はこの3部作でこの映画シリーズは完結したものと思っていた。というか、完結でいいと思っていた。もちろん原作でもアニメでも志々雄真実以降も物語は続いていくわけだが、伝説アンド最強の悪役志々雄真実戦をクライマックスに映画としては完結させるという選択も全然、ありだと思っていたし区切りとしても綺麗であると思っていた。

というのも、ここからはアニメTVシリーズの話になるが、志々雄真実戦以降のTVシリーズは原作とは異なるオリジナル展開に進んでいく。つまりは原作とアニメTVシリーズにおいても「京都編」が分岐点なのだ。TVアニメとしても「何が何でも作っておかなくてはならなかった」のは京都編までなのだ。となれば映画版でも京都編を完成させられたら及第点となり、アニメTVシリーズと肩が並ぶことになる。結果としてアニメTVシリーズでも最大の山場となった京都編(そしてそれ以降TVシリーズは失速していくことになる)を映画版でも区切りに置くことは私は正しい選択だと評価していた。


さて、アニメTVシリーズは京都編以降オリジナル展開に進むと書いた。つまりTVシリーズは原作の人誅編(vs雪代縁戦)を描かない。となればアニメにおけるこの部分は存在しないのか?といえばまたちょっと違う。オリジナル演出が施されたOVA『追憶編』『星霜編』がそれに当たるのだ。


ということで、映画の前期3部作と後期2部作はそのまま「TVシリーズ」と「OVA」に対応しているとも書けるのだ。

しかしここで押さえておかなくてはないのは、「人誅編」がオリジナル演出のOVAで制作されたということだろう。ご覧になった方ももちろんおられると思うが、OVAで描かれる人誅編は原作とも一線を画している。それまでのTVシリーズの絵柄でもなく、たまにギャグ担当も兼任させられていた剣心のキャラクターもドシリアスなものに変わり、涼風真世の芝居ですらTVシリーズとは全く違う。このOVA2作のうち人誅編は『星霜編』に当たるのだが、結末は視聴者の予想の斜め上を遥か遠くに飛んでいくオリジナル超絶鬱エンドなのだ。(気になる人は観て)


このたび人誅編と追憶編がThe FinalとThe Beginningで映画版が再始動するという知らせを聞いた時、友人ヨシザワ(仮名)と「もしやあの星霜編をやるつもりか?」と二人でLINEで延々喋りながら戦々恐々としていたが、無事にそうではなかった。『The Final』はオールスター勢揃い、エンターテイメントにステータスを全振りした10周年アクション大感謝祭という仕上がりだった。神木の隆ちゃんまでサプライズカムバックを果たし、アドレナリンしか出なかった。(そ、宗ちゃん1ミリも反省してないウケる〜!からの共闘には震えた)

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ということで、実写と原作そしてアニメの関係性はこう表せるだろう。

{『るろうに剣心』+(『京都大火編』/『伝説の最期編』)}+(『The Final』/『The Beginning』)
「アニメTVシリーズ」+(「原作?」/OVA『追憶編』)


ちなみに『The Final』は私は両親と3人で観に行った。過去作一つも追いかけてない+原作読んでない(アニメの記憶がかろうじてある程度)の両親がいきなりfnalを観て楽しめるもんだろうか…と思っていたが、観終わって話を聞いてみると「なんかとにかくいろんな人が出てきて(誰が誰かはわからんけど)剣心に『ここは俺に任せて先に行け!』って言ってくれる展開に胸がいっぱいになってまっけんが本当によく頑張っててあの子の姿になんか感極まっちゃって途中から話とかどうでもよくなった」と言われた。

パーフェクトな感想じゃないか。

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という『The Final』に対し、『The Beginning』はかなりOVA『追憶編』の面影を残す仕上がりだったと言えるだろう。


これまでの映画『るろうに剣心』シリーズは「だいたいいつも状況は悪いけど仲間もいるし皆でブチかましに行ったろうぜ」的な、それこそ少年漫画のテンションの高さが土台にあった。

しかしこの『The Beginning』だけは物語の内容から、そのテンションではどうしても作れなかったに違いないと思う。だってそもそも全員めちゃくちゃテンションが低いからだ。
そして暗い。とにかく暗い。性格も暗いが映像も暗い。常に薄暗いというか常に夜の映像にこれまでのシリーズとは比較にならないほどの血飛沫が飛ぶ。それもそう、緋村は同じ飛天御剣流を使いながら、逆刃刀ではなく真剣をブンブン振り回しているからだ。もともとは一対多数のための剣術である飛天御剣流に真剣を使えばそりゃあそうなる。一対多数の「多数」は須らく皆殺しにされる運命にある。

人物たちのテンションの低さと容赦ない血飛沫、そしてセリフもまた少ないというのはこれまでのシリーズにはなかった要素だ。それこそが『The Beginning』を追憶編たらしめている。これまでのシリーズのテンションを封印し、徹底して人の心の闇、ささやかな愛の果てに迎える悲劇を描くのに、映画が原作の方ではなくOVA『追憶編』を参照したのはごく自然なことだったと言える。

実際、『The Beginning』ではOVA『追憶編』のオリジナル演出がいくつか採用されている。私は『追憶編』の大ファンなので、死に瀕した巴が小刀を剣心の頰に当てて十字傷を完成させ、「ごめんなさい、あなた」と呟いたあのシーンには監督ありがとぉおおお〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!!!!と心の中で絶叫せずにはいられなかった。できればその直前の目隠しをされた剣心に巴の声が走馬灯のように降り、彼が目隠しを取って振り返るというあの演出もやってほしかった。もっと言えば桂小五郎が池田屋事変の直前に酒を飲みながら「もってのほかだ、京に火を放つなど」という台詞も高橋一生に言わせて欲しかった(短い一言でありながら、あの関智一の渾身の芝居を聞いてくれ〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!!!)。もっと言えば(まだ言うのか)最後に巴と住んだ家を彼女もろとも燃やして緋村が去っていくときの音楽は映画メインテーマじゃなく追憶編のあの音楽が良かった。巴のストールを首に巻いて戦いに赴く緋村を描いて欲しかった。巴のストールを首に、刀を抱えて一瞬の眠りにつく緋村を後ろから抱きしめる巴のシーンにかぶせて「雪代巴 有村架純」というクレジットを出して欲しかった。

言い出したらきりがない。喋り出したら止まらないのがこの映画『るろうに剣心』なのである。

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2. 実写『るろうに剣心』キャラクター論

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実写『るろうに剣心』のキャラクター造形はちょっと不思議だ。そして、そのちょっと不思議なところこそがこのシリーズの最大の魅力だと私は思う。

まずは佐藤健からいこう。

原作が連載を終えてから10年も経ってなんで今頃実写『るろうに剣心』をやるのかという話で「剣心を演じることができる佐藤健という俳優がようやく現れたから」というのはよくパンフレットとかで書かれていることである。まあそうなのである。外見の完コピ指数が振り切れているのもさることながら彼はとにかく運動神経が人の皮を被っているようなド級の身体能力の持ち主で、一対多数の激ムズ剣術飛天御剣流もこの世に再現してしまう。彼の運動神経が良すぎてカメラが彼の動きについていけなかったという話もですよねとしか思わない。佐藤健はなるべくして緋村剣心になったのだ。

でも大事なのはそこではないんだな。

大事なのは、原作ではどうしてもギャグ担当も兼任しなくてはならなかった緋村剣心というキャラクターからその要素を一切取り払ったとき、佐藤健が彼自身で半分オリジナルの緋村剣心をこの実写版で作ってしまったことで、その彼のキャラクター造形には佐藤健自身の人格(と顔立ちの影響)が多分に組み込まれているところにある。

原作およびアニメTVシリーズの緋村剣心は、まあ実際どの程度心を開いているかはどうあれ、とりあえず自分の目に映る範囲の人には平等に興味がありますというスタンスと態度があった。原作の緋村剣心は少なくとも「他者に興味がある」人だった。

が、佐藤健の緋村剣心、緋村=佐藤・剣心は(英語名みたいにしてみた)少なくともあれは根本的に他者にそこまで興味がないし、あまり心も開かない。神谷道場に居候して家事をしているときは道場の生徒たちや同居人たちに笑顔を振りまいてはいるが、もともと温度の低い顔立ち(と目)のためにエッ本当は何考えてるの?と思ってしまう。彼の笑顔を見ているとなんだか心配になってくるのだ、ああこの人、笑ってるけど別にそこまで楽しいとか思ってないね…?!

私が10年愛してきた緋村=佐藤・剣心は人に興味がないし、あまり心は開かないし、自分の生を冷めた目で見ている。究極のところ全部どうでもいいと思ってそうな緋村=佐藤・剣心を私は心底愛している。



緋村=佐藤・剣心だけではない。そもそも、この実写るろ剣キャストたちは皆似ているようで似ていないのである。

外見については佐藤健や神木隆之介のように完コピ指数を振り切ってくる人もいるがそれは全員がそうできるというわけではない。外見を原作に似せるのにはどうしても人それぞれ限界がある。しかし今ここで私が言いたいのは外見の話ではなくて、各人のキャラクターの作り方である。


佐藤健は自分の中に緋村剣心を作るにあたって自らの人格を少なからずそこに反映させたと書いた。しかしそれは佐藤健だけではないのだ。この実写るろ剣キャストたちのキャラクター造形は、誰を見ても半分以上はその俳優本人が本質的に持つ性格や気質が入り込んでおり、それで良しとされているのである。

例えば原作では空気を読まないオラオラ系斬馬刀男子だった左之助は青木崇高が間に入ることによって常に周りを見て自分の最善を行動し、他人に対しては思慮深くて優しい気遣いの人になる。
原作では大人のお姉さん代表みたいなポジションであり薫の恋敵でもあった恵は蒼井優が間に入ることで内面に自分の芯を確固として持ち、自分の尺度で正義と悪を判断し、時には警官相手に怒鳴り倒せるほどの気性を持つ人になる。
氏族の誇りを決して心から捨てない弥彦は初代、2代目、3代目で皆違う性格をしている(私の推しは2代目大八木凱斗くんだ)。
蒼紫様好き好き大好き超愛してる〜〜!だった操ちゃんは土屋太鳳が間に入ることでそのオラオラ恋心は稀釈され、もはや恋を自覚していないのでは?と思うレベルに淡く、初心で無垢な京都弁の女の子になる。そしてバキバキに動きまくる。土屋太鳳の身体能力もまたド級なのだ。
喜怒哀楽の楽以外の感情が欠落した瀬田宗次郎は神木隆之介が間に入ることで(外見は完コピ)The Finalにカムバックして緋村と共闘するほど緋村と精神的距離が近い(神木の隆ちゃんは佐藤さんちの健くんが大好きである)。

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大友監督はこのシリーズを必ずしも「原作に忠実」にはしようとしていない。それは物語についてもそうであるし、上述したキャラクター造形についてもそうだ。監督はあえて、俳優にその俳優のままそこに立たせようとしているのではとまで思える。少なくとも、各俳優本人たちの性格が多分に反映されたキャラクターたちをそれで良しとしたのは監督だ。それは俳優への信頼の表れでもあるし、原作への挑戦状でもあったのかもしれない。


2-a) 「反対側のもう一人の自分」としての沖田総司

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『The Beginning』にて、新撰組きっての剣の達人沖田総司として村上虹郎がシリーズに初参戦した。


いきなり個人的な話になるが私は1990年代初めの生まれである。その私の中の沖田総司のイメージは9.5割が漫画『新撰組異聞PEACE MAKER』『PEACE MAKER 鐵』の彼であり、残り0.5割は大河ドラマ『新撰組!』の藤原竜也である。

他にも『風光る』とかありますでしょうがと言われそうだが私が通ってきた沖田総司はこの二人しかいないのでご容赦願いたい。

この、私のイメージの中にある沖田総司は基本的に優男である。PEACE MAKERの沖田に至っては女の子?と思うようなヴィジュアル設定だし、『新撰組!』の時の藤原竜也も割と純真な好青年だった(ような気がする←ゆうてちゃんと見てない)。おそらくだが、他の新撰組マンガや映画、ドラマを見ても沖田総司は基本的に「夭折した天才美青年」というイメージのもと作られているのではないだろうか。

が、今私が言いたいのはやっぱり外見のことではなくてですね。

私が今まで持っていた、通ってきた沖田総司はPEACE MAKERの彼も藤原竜也も共通して「死にたくない人」だった。ここが今重要なのだ。


さて話を戻そう。

この初参戦してきた村上虹郎が作ってきた沖田総司を観たとき、「似てる」と思った。彼は緋村=佐藤・剣心にかなり近いものを持ったキャラクターだと感じたのだ。
というのも、村上虹郎が作ってきた沖田総司(以下「沖田=村上・総司」)は言動も少しスカしているし、立ち振る舞いもどこかフラフラしていて何を見てもあまり興味がなさそうだった。仕事とあらばどこにでも押し入るし人も斬るし、自分の仕事はきちんとするのだが、どこか地に足がついていないような、究極全部どうでもいいと思ってそうな、緋村=佐藤・剣心と同じ顔をしているように私には見えたのだ。全部どうでもいいとまで思っているかは怪しいかもしれないが、少なくとも自分の生、彼の場合は病に侵された自分の生まで含めてあまり興味がなさそうだった。自分がいつまで生きられるのか、生きたいとか死にたくないとか、そういうことにもさして関心がない様子だった。その「自分の生を冷めた目で見ている」のは緋村=佐藤・剣心と同じアプローチをしていると私は感じたのだ。


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池田屋に向かおうとする緋村とそれを食い止めようとする沖田は夜の神社で斬り合いになる。これは『The Beginning』オリジナル演出だ。

この二人の斬り合いは、維新側最強の剣客vs幕府側最強の剣客という構図ではなく、「ともすれば立場が逆になっていたかもしれないもう一人の自分との戦い」として組み込まれたのではないだろうか。そう思ってしまうほどに今作の沖田=村上・総司と緋村=佐藤・剣心は似ていた。立場は真逆であれ、「生」への捉え方は完全に一致していたというのが私の印象だ。


この「生きるも死ぬもどうでもいい」沖田総司を作ったのは数ある新撰組作品たちの中でも村上虹郎が初めてなのではないだろうか(知らんけど)。
私は村上の虹くんも大好きなので、沖田役で参戦すると決まった時はそれはもう嬉しかったしもう監督、どんどん彼の出番増やしちゃって…と祈っていたら思った以上に虹くんが出張ってくれてさらに嬉しかった。虹くんはいいぞ。美人だし、何より母親譲りで声が良い。虹くんはいいぞ(大事なことなので2回書きました)。



2-b) 有村架純しか勝たん

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私は有村架純という俳優が未だに分からない。

雪代巴役に有村架純と聞いた時は、正直「有村架純?」と首を傾げていた。まあでも映画『何者』で佐藤健と共演したこともあるし、そういう繋がりもあるのかな、でも巴と全然顔似てないけどなと思っていた。巴はあんなに目がぱっちりしてもないし、あんなに頰もふっくらしていないし、うん、顔のどのパーツを見ても似てないけどなと思っていた。

が、何度も書いているように、実写るろ剣キャストは似ているようで似ていないし、似ていなくていいのである。

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実際、『The Beginning』を観終えた帰り道は「有村架純〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!!(号泣)」状態だった。もうとにかく有村架純の雪代巴は私には良かったのである。
しかし不思議なのはなぜ自分がこんなに有村架純に心を動かされたのかが自分で分からないことなのである。

けれど観る前までは全然似ていないな〜と思っていた彼女の顔も、観終えた後は「いや有村架純以外に考えられん」と思っている。光に当たると濃い青緑色になる髪、薄めに描かれた眉、チークゼロの真っ白な頰、そしてあの大きな目も、今思い返しても「これこそ雪代巴だ」と思ってしまう。なぜだろう、分からない。分からないから不思議なのだ。有村架純だけが使える魔法だとしか思えない。

雪代巴としての芝居も良かった(以下「雪代=有村・巴」)。無表情で返り血を浴びたり、無表情でお店を手伝ったり、無表情で緋村=佐藤・剣心に「平和とは」「正義とは」と問いを持ちかけたり、少しずつ笑顔を見せるようになっていきながらも何より、最後に辰巳を押さえつけ、諸共斬られる時のあの完全な無表情には鳥肌が立った。あの一瞬のカットで有村架純は自らの雪代巴を完成させたように、私には見えたのだ。

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そしてOVA『追憶編』を踏襲した彼女の最期には改めて「監督ありがとぉおおおお〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!(号泣)」と叫ばずにはいられないしやっぱり巴のストールを首に、刀を抱えて一瞬の眠りにつく緋村を後ろから抱きしめる巴のシーンにかぶせて「雪代巴 有村架純」というクレジットを出して欲しかった。(同じ話を何度でもしてしまうオタク)

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このポスターヴィジュアルはなんと美しいのか!!!!!!!!!(絶叫)



3. ONE OK ROCKが描いた『るろうに剣心』

さて実写るろ剣シリーズを語るには彼らのことも避けては通れない。主題歌5曲で伴走し切ったONE OK ROCKのみなさんである。

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ヴォーカルのたかぴんとたけるが大の仲良しということはとりあえず置いといて、ONE OK ROCKの音楽がこのシリーズでどう立ち回ったかを考えてみたい。

まずは、実写るろ剣が目指した和洋折衷の世界観の補完が挙げられるだろう。
大友監督も自身で「これは時代劇ではなくてマーベル」と語っているように、実写るろ剣は舞台・時代設定こそ幕末〜明治であるが、舞台セットや衣装には洋風や現代らしさが取り入れられているし、『The Final』までいけばその雰囲気はいよいよ顕著である。そして毎回派手オブ派手な殺陣アクションに建物系は大体ぶっ壊れる。その豪快さは監督の言う通り時代劇ではなくてマーベルなのだ。

そんな映画のエンドロールに必ず流れる彼らの音楽。

正直な話、私は初作『るろうに剣心』で「The Beginning」を聴くまでONE OK ROCKというバンドを知らなかった。洋楽かな?と思っても日本語も聴こえてくるし、へえ〜なんかLINKIN PARKみたいな人たちが日本にも出てきたんだなと思ったことをよく覚えている。エモ系というか。

彼らの音楽が最後に鳴ることによって、このシリーズの和洋折衷感は上がるし、ついでに「洋画っぽさ」も出てくる。ONE OK ROCKがこのシリーズに提供した第一であり最大の功績はそれだ。


では、各曲ごとにどうだったかを見てみよう。

冒頭でこのシリーズを前期3部作+後期2部作と分けたように、ワンオクの主題歌も前期3曲+後期2曲に分けられるし、さらには前期3曲+final+beginningまで細分化できると思っている。

前期3曲:The Beginning / Mighty Long Fall / Heartache
Final  :Renegades
Beginning :Broken Heart of Gold

私が思うに、前期3曲は完全に3部作を念頭に置かれて制作された音楽であり、且つ、これで映画は完結のつもりで提供された3曲だ。

と思う根拠は3曲め「Heartache」にある。これはかつて大切だった、そして今はもういなくなってしまった人のことを歌った音楽だ。

僕の心を唯一満たして去ってゆく君が
僕の心に唯一触れられる事が出来た君は
Oh baby もういないよ  もう何もないよ
Yeah I wish that I could do it again
Turnin' back the time back when you we mine (all mine)

Heartche / ONE OK ROCK

これは京都編の後編『伝説の最期編』の主題歌である。そして、本作は剣心が薫に「ともに見守っていて下さらぬか」とプロポーズめいた発言をするところで幕が下りる。原作を全く知らない観客にとっては、ここで映画が完結するということは雪代巴のことを一生知る機会がないまま終わることを意味する。

もちろん原作ではまだまだ物語は続く。本当は剣心にはかつて大切だった人がいて、その人にはもう二度と会うことができないということも原作を読めばわかる。けれど映画がここで終わってしまうとそのことはこの先ずっと描かれることはない。

だからこそ、ワンオクは『伝説の最期編』にこの「Heartache」を提供したのではないかと思うのだ。映画の物語はここで終わるし、剣心はこれからきっと薫と一緒に生きていくけれど、その剣心にはかつて大切だった人がいて、本当は今でも忘れられない人がいるのだということを、ワンオクはこの音楽で密やかに観客に伝えようとしたのではないか。エンドロールのこの主題歌を最後まで聴かせることによって、ワンオクは『るろうに剣心』という物語全ての要素を取り入れた完結を目指そうとしたのではないだろうか。


しかし数年経って事情が変わる。『The Final』と『The Beginning』の再始動である。ここで人誅編と追憶編が描かれるとなれば、「Heartache」は完全にフライングになってしまった

さてどうする。そこでワンオクが新2部作のために提供したのは「Renegades」「Broken Heart of Gold」だった。


どちらも興味深い曲なので、順番に見ていこう。

まず『The Final』の主題歌である「Renegades」反逆者という意味のタイトルだ。

まず歌詞を抜きにして音楽だけを聴いてみると、これは凱旋の音楽のように聴こえる。10年に亘り伴走し続けてきた映画が堂々完結する。『The Final』を観ればわかる通り、その完結は華々しい。アクション大感謝祭で華々しく終わる映画のための凱旋曲のようにも聴こえる。

だから最初、この曲も映画を念頭に置いて、いわば映画の物語に沿うように作られた音楽なのかなと思っていた。けれど歌詞を何回か読むうちに、この音楽のベクトルは映画の方には向いてないなとぼんやり思うようになった。

I'm not afraid to tear it down and build up again
It's not our fate, we could be the renegades
I'm here for you, oh
Are you here for me too?
Let's start again, we could be the renegades

Renegades / ONE OK ROCK

剣心と縁の歌詞かなとも思ったけれど、この歌詞はもっと「どうとでも読める」。それこそ『るろうに剣心』が描いた明治が終わり、それが今の令和に接続してきているように、この歌詞は映画の中だけに収まっていない。この音楽は映画の主題歌ではあるけれど、今この時、2021年の私たちへ向けて接続された音楽だ。

と、思っていたら、ちょうどいいインタビューを見つけたので貼っておく。私の感覚は大体合ってたみたいだ。


対して『The Beginning』の主題歌である「Broken Heart of Gold」。

これはすごい。まじで追憶編のため、追憶編に捧げられた音楽だ。

今までのシリーズを伴走してきたワンオクの音楽も、基本的には映画のテンションと同じで「だいたいいつも状況は悪いけど仲間もいるし皆でブチかましに行ったろうぜ」的なノリがあった。ということはワンオクはずっと映画の中の誰か一人を見つめるのではなく映画自体を俯瞰して音楽を作ってきたということだ。結果映画と音楽のテンションが同じになる。

が、ここにきて、初めてワンオクは映画ではなく「緋村剣心」に明確にフォーカスした音楽を作った。

Sometimes I just wanna quit
Tell my life I'm done with it
When it feels too painful
Sometimes I just wanna say
I love myself but not today
When it feels too painful
I smash my broken heart of gold
I smash my broken heart of gold

Broken Heart of Gold / ONE OK ROCK

追憶編の、もう色々とやばい、しんどいことが起こりすぎる、正直もう無理しんどすぎ、もう人生やめていい?というところまで鬱に落ちる剣心に、「じゃあ俺たちも一緒にどこまでも落ちてってやるよ!!!!」と肩を組んで心中せんばかりの音楽だ。これはこれでワンオクの気概である。

この音楽もまた『The beginning』が前4作と一線を画す映画に仕上がっているのに一役買っている。だって"I'm in hell"とまで歌っちゃってるからね?!いやまじでhellだったよ追憶編の緋村を取り巻く諸々は。まじでまごうことなきhellだった。

けれどこの音楽の面白いところは、こんなに鬱なのに、立ち戻って過去作の主題歌を聴き返すとその曲たちが息を吹き返すところなのだ。
例えばこの「Broken Heart of Gold」から「The Beginning」につなげると心がめちゃくちゃになる。一度は鬱の底に落ち、10年を漂流した人が、新しい人たちとの出会いと懐かしい(とはあまり思いたくない)人たちとの再会を経て、再び心にエンジンがかかる曲に聴こえてくるのだ。

このままじゃまだ終わらせる事は出来ないでしょ
何度くたばりそうでも朽ち果てようとも
終わりはないさ
So where do I begin

The Beginning / ONE OK ROCK

また、「Heartache」もこの音楽によって息を吹き返す。もう二度と会えない大切な人を今でも恋しく思う、けれどそれは「だから生きるのが辛い」ということではない。あなたに会いたい、あなたが恋しいけれど、それでも私は生きていくよと、I miss youは前向きな言葉になる。

So this is heartache?
So this is heartache?
拾い集めた後悔は涙へとかわり oh baby
So this is heartache?
So this is heartache?
あの日の君の笑顔は想い出に変わる
I miss you

Heartache / ONE OK ROCK

「Broken Heart of Gold」はいわば「Heartache」の下に入り込んでその足元を支える音楽だ。それまで1曲だけで立つには少し心もとなかった「Heartache」がこの曲のおかげで見据えるべき方向が定まったように私には感じられた。これは前へ進もうとする音楽だ。私は「Broken Heart of Gold」のおかげで「Heartache」が5倍くらい好きになった。

ああ心がめちゃくちゃになる。やってくれたなワンオクよ(イメソン厨は爆死する)



第一部 終幕の挨拶

さて、第一部はここで終えよう。この時点で13000字書いてしまった。ハアやれやれ。
ここまででもかなり書きたいことは網羅できた。実写『るろうに剣心』シリーズ、もう全人類に観て欲しい。え〜漫画の実写化でしょ?それはちょっと趣味じゃないかな〜と、言わず。漫画の実写化というのは今はちょっと置いといて、ここまで書いてきたように、この実写版の最大の魅力は「キャストは似ているようで似ていないところ」なのだから。

だから大丈夫。全然人間に興味ない緋村剣心が冷たい目で神がかったテクニカルアンドテクニカルな殺陣で大人数の敵をバキボコに逆刃刀でぶん殴るあの快感を見て。京都弁が可愛い操ちゃんがバッキバキに走り回りぶん殴り四乃森蒼紫名代を宣言する誇り高さを見て。いや出オチじゃね?と思われても仕方ない比古=福山・清十郎の登場シーンを見て。瀬田宗次郎がfinalにカムバックしてきたときの鳥肌を感じて。頑張るまっけんに感極まって。

全人類、観て(語彙はついに消失する)


『The Final』と『The Beginning』が両方上映されているうちに、一日使って限界まで往復する永久機関の日を作りたい。そうでなくとも、今ここに永久機関は完成されたのだ。2021年6月4日、私はきっと永遠に抜け出すことのできない無限ループの世界へと、今度こそ放り込まれてしまったのだ。これからの私の人生は、この永久機関と常に共にある。私はいつまでも、永遠に、彼らと共にまわり続ける。そして、永遠に、同じ話をし続ける。

プレゼンし続ける。何度でも、初めからでも途中からでも、何度でも、心が高ぶる限り、永遠に。



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