「将来なりたい仕事」を考えることの危険性

最近、どんな職業なら今後も安泰なのか、といった論点に関して、様々な人が分析・予測されていますね。

こういった人たちには大変申し訳ない言い方なのですが、これらの予測はまず間違いなく外れるので、そういった予測にあまり振り回されないようにした方がいいでしょう。

なぜそのように断言できるかというと、二十年後には、労働人口のかなりの比率が「いまは存在しない職業」に就くことになるからです。

米デューク大学の研究者であるキャシー・デビッドソンは2011年8月、ニューヨークタイムズ紙のインタビューで「2011年度にアメリカの小学校に入学した子どもたちの65%は、大学卒業時に今は存在していない職業に就くだろう」と指摘しています。

この数値自体はかなり眉唾で、デビッドソンも数値の算出根拠を明らかにしていません。まあ一種の都市伝説みたいなものですが、数値はともかくとして、現在の私たちの社会で存在感を放っている仕事、例えばYoutuberやAIエンジニアといった仕事が二十年前には存在しなかったことは確かです。

私たちの生活は緩やかに変化しているように思われますが、後で振り返ってみると実は結構な勢いで変化していることがわかります。たとえば私たちの生活に欠かせないものと成っているスマートフォンですが、アップルが最初のスマートフォンである初代iPhoneを発売したのは2007年6月のことで、たった17年前のことなのです。

それ以前の世界にはいわゆるソーシャルメディアもグーグルマップもなかったわけですから、世界の風景は20年と経たずに一変してしまうということなのでしょう。当然ながら、世界の風景が変わればその中で求められる仕事も変わってくることになります。

「今は存在しない仕事」こそ輝く

キャシー・デビッドソンの指摘する65%という数値予測が当たるかどうかは、あまり問題ではありません。多少のズレはあれ、とにかく「いまはその存在すらイメージできないような職業」が、近い将来で多くの労働需要を生み出すだろうということです。

この点を少し深く考えてみると、「今は存在しない仕事」が将来において生まれるのであれば、当然ながら、その仕事の労働市場は大きく「売り手市場」に傾斜することになることがわかります。

なんといっても「今は存在しない仕事」が、将来において新しく生まれるのであるとすれば、それは非常に大きな労働需要があるにも関わらず、供給が追いついていないことを意味するからです。

したがって「今は存在しないけれど、将来生まれてくる仕事」のほとんど全ては、全般に労働市場の水準とは比較にならないほどの高給になる傾向があります。

現在の社会で言えばAIエンジニアなどは典型でしょう。すでにGAFAをはじめとしたグローバルのIT企業では、AIエンジニアの初任給は日本の水準から大きく乖離し、数千万円がスタンダードになっていますが、なぜこういうことが起きるかというと、労働市場において極端に需給のバランスが崩れているからです。

予測はそもそも当たらない

では「今は存在しないけれども、将来生まれてくる職業」を予測できるか?ということになるわけですが、これはそもそもナンセンスで、予測などできるわけもありません。

そもそもからして、社会的な予測の多くはこれまでに外れています。例えば、様々な社会的予測は、「日本は少子高齢化社会で人口は今後も減少し続け、必然的に国内市場は縮小し続ける」という予測を前提においています。

こういった前提は、誰もが口にするのでさも「既定の真実」のように扱われていますが、とんでもありません。他国における過去の少子化による人口減少の予測はこれまでほとんどが外れたということをご存知でしょうか?

例えばイギリスでは20世紀初頭に出生率が大きく低下した時期があり、政府や研究機関は様々な前提をおいて人口予測を作成しました。彼らが作成した17パターンの人口予測を現在振り返ってみると、そのうち14は人口減少を予測していて完全に外れ、残る3つも人口増を予測したものの、その増加は実際の人口増を遥かに下回るものでしかありませんでした。結果から言えば政府やシンクタンクがまとめた17の人口予測を遥かに上回って人口は増加した、というのが20世紀初頭のイギリスのケースです。

また、アメリカの出生率も1920年代に低下し始めて1930年代まで下がり続けました。この事態を受けて1935年に発表された人口予測では、1965年には米国の人口は2/3まで減少しているだろうと予測されたのですが、この結果も大幅に外れました。第二次世界大戦が始まると急に結婚率が高まり、それにつれて出生率も大幅に上昇した結果、1965年には人口が減るどころではなく、逆にベビーブームが到来したわけです。

先述のキャシー・デビッドソンの予測もまた予測なのだから、これも外れるのではないか、という反論を頂きそうですが、全くその通りで、つまり「世のなかがどうなるか」などという予測は、当たるも八卦当たらぬも八卦のギャンブルみたいなものだということです。

予測に頼らないという「構え」が重要

重要なのは、こういった予測に安易に依存してしまう、という知的態度を改めることです。子供の時から学校で「正解探し」を求められてきたお勉強エリートの多くは、社会に出ても同じように「正解」を探しにいってしまう傾向が強い。

少し残酷な言い方をすれば、この「正解探し」のモードを改めない限り、自分らしい才能を発揮して成功するというのは、まず不可能だと思います。

 私自身の話をすれば、まず慶応の付属高校から大学に進学する際、「文学部は就職で不利だから経済学部か法学部がいい」という風評などは気にせず、自分が一番面白いと思える学問だった哲学と美術史を学ぶために文学部を選びました。

また大学に入ってからも同様に「就職ではまずは体育会が有利だけど、仕方なくサークルに入るなら大手のサークルで中心的な役割をしないと内定は取れない」という強力な空気が流れていましたが、これも「バカバカしい」と相手にせず、部活やサークルには一度も所属することなく、ひたすら読書と作曲の勉強に打ち込んでいました。

それで結果的には第一志望だった電通に入社し、さらに言えば、その時に乱読した様々な分野の本から得た知識が、現在の仕事をやる上で大きな糧になっているのですから、まあそれで良かったのだということなんでしょう。
 
先述した通り「世の中はこうなる。だからこれが重要だ」という予測は、これまでに外れ続けてきました。 そのような予測に振り回されて、自分の軸足の定まらない20代を送れば、中途半端な時間の過ごし方になるのは当たり前のことです。

まずは、予測に頼らない、自分の感覚に頼るという感性を身につけるようにしましょう。

「まずは五年」でいい

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