折り紙の芸術性に関する一試論

はじめに

私としては、あまり露骨にこのような文章を記すつもりは無かったのだが、どうやら界隈でこの論題に関する議論が盛り上がりを見せており、なおかつその現象は極めて健全であるように思われる。芸術には思想が常に付属し、あらゆる思想家も美に関して思想しなかった者は無い。私の考えとしては、芸術家は芸術で以て思想を体現すべき、というものがあるのだが、特にこの頃の私は創作の頻度が著しく低下していることであるし、また他者にその解釈を丸投げした結果、曲解されてしまっても私としては喜ばれざる事態であるので、このようにひとつ明文化したものを用意しておくことを考え付いた。これより私が記すのは私の一つの試みであり、これと意見が異なったり、あるいはこれを読んで何らかの嫌な感情を催したりするということは当然のことであり、ニーチェが言うには寧ろそうあるべきというほどのものであるように思われる。私としては、私の意見が普遍的に正しいなどという考えは一切持っておらず、この文章が何らかの形で皆様の役に立ち、またともすれば折り紙というひとつの芸術の促進の一つの小さな要因となることができれば無上の幸せであるが、そうならないとしても特段気にするようなものではない。

私の性質として、直接の連関の無さそうな話から少しずつ論理を構築することを好むので、文章冒頭は一体何に関して語っているのか分からない部分が続くやもしれぬが、もしもその全貌をとらえたいなら、是非とも頑張って読んでいただきたい。また、それほど暇ではなく、余計な文章を読む時間は無い、という人や、あるいは長々と文章を読むのが得意ではない人は、(そのような人はここまでも読まないかも知れないが)見出しを設けるので、それを参考に拾い読みをしていただければ良い。私としても、その時々に必要な基礎部分は逐次補っていくつもりである。


第一部 アイデンティティについて

アイデンティティと科学

SNSとアイデンティティ形成には極めて強い負の相関があるように思われる。現代に蔓延する二ヒリスムスの多くの部分を占めている感情として、自分存在の無価値性があることに間違いがあるようには思われない。アイデンティティ、自己同一性、レーゾンデートル、どのような言い回しを用いても構わないが、「私は存在しなければならない」という思考に至るには、客観的、あるいは普遍的な価値を自身に見出さなければならない(客観性/普遍性に関してはいささか込み入った話があるが、ここで直接かかわる話では無いので、気が向いたら論じることとして、ここでは一般的に想像される意味でとっていただいて構わない)。私の話をするならば、とあるピアニストの演奏を聴いて、ピアノを弾こうという気はサッパリ失われてしまったし、数々の哲学者の言葉を見て、物を考えようという気概も過去には失われていた。それは私がそれをする意味が私には見出せない、という論理に基づく消沈である。
SNSがこれと何の関係性があるかといえば、ソーシャル・ネットワークという名称に象徴される他者と自己の接近である。皆様ご存じの通り、インターネットには怪物がウヨウヨと潜んでいる。中学生でありながらプロ級の技術を持つイラストレーターや小学生で素晴らしい創作を始める折り紙作家など…。かつては、彼らは天才として祀り上げられていた。凡人からしてみれば、「彼らは天才なのだ!我々とはそもそもその生来的性質を異にするがために、我々は彼らにはなれない、それは我々の責任ではないのだ…!」という思考が成り立つ。それはある意味では過酷な差別であり、神格化もまた非人間の宣告である。
恐るべき峻厳さをもつアイデンティティ・クライシス、これはまさしく精神災害と呼べるほどに強大で、圧倒的な存在である。これほどにアイデンティティが我々に牙を剥くのは、他方には科学の発達および浸透がある。
サイエンス・フィクションというジャンルには実に多彩な作品が包含される。私が読んだもので言えば、ジョージ・オーウェルの『一九八四』、スタニスワフ・レムの『ソラリス』、ジュール・ヴェルヌの『地底旅行』、ハーバート・ジョージ・ウェルズの『宇宙戦争』など。その作品の多彩さから、SFというジャンルはほとんど何も意味しないように思われるほどである。しかし、確かにそれは何事かを意味している。「サイエンス」とは何を意味するか。我々は多くの場面で科学/サイエンスという言葉を耳にする。「科学的思考」などはその最たるものである。「科学的思考」とは何を意味するか。物質を原子や量子のレベルにまで細分化して検討することか。ある意味ではそうだろう。しかし、多くの場合、「科学的思考」とは「論理的思考」換言すれば「普遍的思考」を意味するに過ぎない。今の時代にあって、科学は論理のアイドルである。
科学はあらゆる意味で現代人を支配する。何故と言うには、科学は現代の学問を支配し、故に現代の思考を支配するからである。哲学すらも科学に支配された、否、哲学から学問の科学侵略は始まったのである。ここで皆様は「支配」「侵略」といった刺激的な言葉に敏感に、また悪意的に反応すべきではない。その支配は学問に秩序をもたらし、人類に平和をもたらした。その支配は、江戸幕府やローマ帝国と同質の支配である。一方で、その支配は個人に何をもたらしたのであるか。
我々個人を論理的に解剖するならば、その社会的意義は何であろうか。私から皆様に極端で悪意的な結論を押し付けることはしないが、おそらくはこの悲劇的結論が、災害的アイデンティティ・クライシスの根源である。我々は科学に馴染みすぎたが、自分自身を科学で以て焼却処分するほどに馴染んではいない。科学によるアイデンティティ・クライシスの罰は、さながらジャンヌ・ダルクの火刑が永久に続くかのごときであろう。

〈逃避的価値Ⅰ〉幻影の普遍価値

普遍的価値があるとすれば、それは如何なるものであるか。善は普遍か。道徳は普遍か。美は普遍か。学問は普遍を希求してやまない営みである。それは、私には殊更にデカルト以後のことのように思われていたのだが、どうやら古代ギリシアから、そのような性質を持っていたらしい。プラトンのイデアは、その最たるものである。イデア論が万物の普遍化でなければ、それ以外になんだというのであろうか。現代人に優しきプラトンは、我々の持つ極めてインディヴィジュアルなものを普遍化し、その価値を我々の元まで届けてくれた。その配達物を打ち壊してしまうのは、我々の理性の罪過である。
我々のインディヴィジュアルなものが普遍化されてしまったとき、我々に固有の価値、我々に独自に残される、「私でなければならない、私にこそ価値がある」という性質のものは一体どこに消えてしまったのだろうか。我々は、”我々”として普遍化されて、人類としてひとまとめにされた。アイデンティティを求める人々は、プラトンの贈り物を頑として受け付けない。なぜならそれは、アイデンティティを剥ぎ取る刃になり得るが故に。しかし、彼らがプラトンを誤解していないなどと、なぜ言えるのだろうか

〈逃避的価値Ⅱ〉鋳型の価値

学生というものは誰しも一度は、鋳型人間になど、成ってたまるものか、と固く誓う。しかし、彼らの聡明な知性は、やがて彼らが毛嫌いしていた鋳型こそが、普遍的価値そのものであり、彼らを普遍化/一般化するものであり、彼らが普遍的に認められる唯一の方途である、ということに気が付いてしまうだろう。彼らの落胆は如何程であったか、しかし、彼らの目にもまだ生気は宿っていた。

〈逃避的価値Ⅲ〉私という価値

普遍価値が個人を擁護しえない、ということが(理性のうちで)立証されてしまったとするならば、我々が個人を擁護するためには、普遍的価値に依拠しない、個別の絶対的価値を見出さなければならない。これはまさしく苦行である。彼らは彼らの信仰を根本から疑い、すなわち自分を疑い、他人を疑い、普遍性を疑い、全てに対して疑いの目を向けることになる。そうして得られるものは、自分自身にしか適用されぬ、誰かからの承認を得るかどうかは博打以上の何物でもない、そういった性質の価値でしか有り得ない。無論、偉大な芸術家にあってはその価値が多くの人間に、生前に、あるいは死後に承認されたのであろう。しかし、彼らはただ単に運が良かったに過ぎないかもしれない

第二部 宣言について

何事かを宣言するということ

あらゆる宣言は原理的に排他的である。また、自身以外のあらゆるものに対して排他的である。何故ならば、「私は○○である」という宣言は、換言すれば「私は××ではない」「私は△△ではない」という宣言の無数(無限ではない)に続く列である。何かを宣言するには、それ以外のすべてを排斥せねばならない。ゆえに、「私は全てである」という宣言は何も意味をなさないか、あるいは「私は何者でもない」という宣言と同義になる。これが宣言、あるいは一般的なアイデンティフィケイションの持つ性質である。納得できない方がいらっしゃるようであれば、この性質の発揮されるところの最たるものである「主義」に目を向けるがよい。例えば、「全体主義」は全体でないものを排斥するものであり、「写実主義」は写実でないものを排斥するものである。主義と宣言は本質的に近似しており、宣言されたものが主義である。ここで再び注意を差しはさみたいのだが、皆様は「排斥」という言葉を狭窄な視野で捉えるべきではない。あらゆる語には前提条件が存在するが、その前提条件が必ずしも堅固であるとは限らない。今回の例に照らし合わせるならば、「何から」排斥するか、という視点が重要である。

注釈:宣言によるアイデンティフィケイション

前段でアイデンティフィケイションと宣言の連関をいきなり前提にしたのはいささか不親切であったかもしれない。そこで、ここで少し紙幅を割いて説明することとする。ゆえに、前段でその連関を十分に理解した方は、当段を読む必要は無い。
宣言とアイデンティティには極めて強い連関がある。というのも、我々は宣言なしにアイデンティティを形成(アイデンティファイ)することができない。宣言というのは、必ずしも公共性を伴うものではなく、また明示性を伴うものでもない。すなわち、我々は「私は何某である」という内的/外的な暗示的/明示的をともなう宣言をすることによってはじめて、私が何者であるかを明確にする。このとき、スラッシュの前後で分けられた性質によって、宣言の対象および性質が変化することに関しては注意が必要である。

宣言の合成

上段で、私は半ば意図的に、宣言に関して誤解を生みかねない表現をしている。それというのは、「○○である」という宣言がそれ以外のすべてを排斥する、という表現である。この表現は、まるでたった一つの宣言が我々を他者から区別し、孤立させるように思わせるが、実際は、一つの宣言が区分できる数というものはたかが知れている。また、一つの宣言でたった一つのものを指定するような性質を持つ宣言は、無意味な宣言である。例えば、「私は私である」という宣言は無意味な宣言である。また、一つの宣言で何物をも指定しない性質を持つ宣言も、無意味な宣言である。例えば、「私でないものは私である」という宣言は無意味な宣言である。
故に、我々は、一つの宣言を使って我々を特定の範囲の中に投げ込み、複数の宣言を合成して各自を独自のものとする。

宣言と芸術

芸術は一つの宣言である。そもそも、尋常なる判断力を持つ人間が自発的に独自の作品を作ろうなどという精神を起こすはずもなく、何らかの作品を世に生み出す以上は、作品が生み出される以前の世に不満があるか、あるいはそうでないにせよ、何かしらの強いエネルギー源を要する。芸術とは、そのような意味で宣言であり、また、強いエネルギーを持つ宣言である。宣言が強いエネルギーを持つ、というのは、そのエネルギーの方向を指定しないことに注意をしたうえで、芸術の宣言というものが持つエネルギーを、芸術作品を見て、聞いて、読んで、その上で我々に与える感銘、我々が被る影響、換言すればインスピレーションの数々を思い浮かべると良い。
私がここで語っている「芸術」というものの範囲に関しては、かつて私が公表するのを控えた小品内に詳細に書き出したのであるが、私がその内容を不正確且つ不十分であり公表するのに足りないと判断したために未公表となっているので、その参照元は存在しないし、私自身としても依然としてそれを公表する気にはならない。ただし、一般的な「芸術」よりもある程度の広範さを持つ「芸術」という概念であると理解していただければそれでよい。

第三部 芸術の宣言とアイデンティティ

我々は如何様にしてアイデンティティを得るのか、ということに関して私は私の意見をまだ明らかにしていないし、できるとも思っていない。しかし、ここまでの叙述で、私の個人的意見に関してはある程度推察されるところであると思われる。その意見が一般に正しいとはどうにも思われないが、今回の論題に関しては何事かを語ることができるように思われるので、極めて狭い範囲でのアイデンティティ確立に関してのみ述べようと思う。

私は芸術の哲学に関しては全くの無知であり、せめて一遍でも読んでから改めてこの項を見直そうと考えている。そのため、最初の執筆日時(20231113)から加筆・修正が加えられる可能性が最も高いのは本部である。ただし、加えられない可能性も依然としてある。

芸術の特殊性

芸術は極めて長い間人類と共にあった。ラスコーやアルタミラといった太古の芸術(ここに関しても、前述の注意が適用される。私は「芸術」の取る範囲を明らかにしない。ただ、「芸術」は極めて広範に指定し得るということを記すのみである)の実在をみるに、おそらく言語よりもなお古い時代から、少なくとも現代の視点から芸術的であると認められるものが存在した(ヴァルター・ベンヤミンが古代芸術に関して触れている文章はまだ通読できていないので、通読し次第加筆するつもりでいるが、その気分は長くは持たないかも知れない)。
古代より芸術が存在した故に、その分化も極めて高度に進んでおり、あらゆる時代の芸術家たちは自身が自身たる所以を探ることに必死だったのではないか。しかし、それは他の極めて多くの分野、特に学問においても同様のことが言える。これは芸術の特殊性ではない。
人類は長きにわたって多様な営みを実践してきたが、極めて大雑把な分類をするのであれば、それは支配活動と合理化活動に二分される。
合理化活動は、大きくは学問と宗教である。現代において学問と宗教は対置されることも多いが、本当に学問と宗教が相容れない存在であるとすれば、なぜ神学という学問が成立するのであるか。これら二つの活動は、ともに人間存在の外部者である自然を合理化するものであり、それが真に合理的であるとか合理的でないとかいうのは現代人の傲慢のなせる業である。
支配活動は、その他多くの活動、例えば生殖や製造である。生殖が支配的であるという論理はダーウィニズム的な論理に基づいたものであり、ここにかかわる問題ではない。製造が支配的であるという論理は、一概には語れず、細分化しなければならないが、ここにかかわる問題である。
ひとつの支配的製造は、産業革命に代表されるような、自然物を我が物とするためにそれらに対して驀進するような製造である。他方の支配的製造は、自然物を我が物とするために、それを模倣し手元に置く、換言すれば原始的芸術である。これほど言い古されたことも少ないが、芸術は原初模倣であった。

芸術と模倣

これに関しては、本来ならばアリストテレスの『詩学』や、その他多くの哲学者の書物を読まねばなるまい。しかし、今回はその過程を省略させていただく。この文章は試論に過ぎない、という言い訳で勘弁していただきたい。
芸術は原初模倣であった。ラスコーやアルタミラに描かれている牛や鹿は実に写実的である。写実とは自然の模倣であるがゆえに、原初芸術たるラスコーやアルタミラは自然の模倣である。
原初、芸術は模倣であった。すなわち、今は模倣ではない。少なくとも、模倣だけではない。では、芸術の脱模倣化は何によって促進されたのか。
連綿たる芸術の歴史において、一つの注目すべき流派が発生する。それがキュビスムである。写真術、すなわち視野の複製技術は、風景画や肖像画を圧迫した。従来、絵画においては風景画に対して歴史画や宗教画がより上位であると位置づけられてきたが、それに対して人々の娯楽の中に、風景画はその命をつないでいた。写真技術は過去を移すことができない故に、歴史画はその意義を失うことは無かったと思われるが、もはや芸術界は古今東西の真なるものを写し取る技術において、写真術のそれに絵画のそれがかなわないことを察知していた。キュビスムが切り開いたのは、論理的に構築される新奇なる視界であり、物の形をとどめぬ特殊性であった。

ここで私が参考にしたのは、ヴァルター・ベンヤミンの「パリ──十九世紀の首都」という文章であるが、実際に参考にすべきは同著者の「複製芸術時代の芸術作品」であろう。いずれ時間と人数の都合がつきそうであれば、この「複製技術時代の芸術作品」の精読会を、折り紙創作者という立場から行いたいと思っている。

写真術は平面世界において視界の模倣を実現した。しかしながら、折り紙作品の多くは立体造形であると思われるので、これ以降は立体造形に触れることとする。
立体造形の模倣技術は依然として完成していない。このことは芸術の在り方に決定的な影響を与えるか。ウンベルト・ボッチョーニの『空間の連続性における唯一の形態』が写実的であるように見えるならば、そう思うのがよい。要するに、複製技術は芸術に決定的な影響を与えたが、それは芸術を根本から揺るがす影響ではない。芸術は、それそのものとして、模倣には収まらぬ性質を持っているのである。
そもそも、自然物を模倣するとて、「なぜそれを模倣するのか」「どのような視点からそれを模倣するのか」という人間の思想が介在されないことは無い。人間の思想が介在すれば、対象物は歪められた形で模倣されることとなる。この歪みこそが、芸術の芸術たる所以であり、このわずかな歪みをめぐって、人類はその長きにわたって芸術に関する議論を深めている。
純粋な模倣が、模倣元よりも劣らぬものである、ということが果たしてあり得るだろうか。模倣元が無ければ模倣先もまた存在しないのであれば、その模倣の過程で新たな価値が付け加えられなければ、模倣したものは模倣されたものに対して原理的に劣った価値しか持ち得ない。芸術が自然よりも劣った価値しか持たない程度のものだとは、私には思われない。

芸術としての折り紙

これはどれそれという芸術である、という宣言がアイデンティフィケイションの一つの過程であるのと同様に、これは芸術である、という宣言もまたアイデンティフィケイションの一つの過程である。宣言にはまた、意思決定的側面もある。創作の難しさは意思決定の難しさであり、その中の最たるものが宣言の意思決定である。
名は体を表す、という慣用句があるが、むしろ名付け親が体を決定するのが宣言であり、その意味で我々は折り紙をその宣言によって如何様にも変質せしむる。折り紙は遊びである、折り紙は人生である、折り紙は芸術である、どれも同等の意思決定の結果であり、折り紙は遊びでしかない、等という言葉遊びで責任を感じないように努めている者もいるように思われるが、その責任逃れも結局は一つの宣言の形式であるという点で原理的に失敗が約束されている。私は私による宣言に私の思考と価値観を支配されるほかないのである。
「折り紙は芸術である」と宣言することが何を表し、折り紙をどのように変質させるか、という話は、第三部のこれまでの文章を読んでいただければ明晰に導かれるものである。同様に、「折り紙は(芸術以外の何物か)である」という宣言の意味するところもまた、明晰に感覚されると思われる。我々は、価値判断を迫られる。いかなる価値を選択し、いかなる意味を表明するか、我々が折り紙に関して何事かを語るとき、根本的に重要であるのはここである。

芸術一般の持つ私的性質

あらゆる宣言は、宣言主の思想を母体とするため、私的にならざるを得ない。それは芸術に関する宣言も同様である。ここまではこれまでの文章から十分に解釈可能である。そのうえで、芸術の持つ私的性質のそれは常軌を逸している。
芸術は私的性質を色濃く受け継いだものである。芸術作品を生み出すにあたって、あらゆる意思決定、価値判断を迫られるのがその所以であり、意思決定と価値判断は私を顕在化させる媒体である。
芸術が公共に奉仕することは十分に考えられるが、芸術の性質として公共の奉仕があるということは有るべきではない。共産主義リアリズムは公共に奉仕する芸術を夢想したものであり、退廃芸術とは公共に奉仕しないと思われていた芸術である。いずれの方針を定めた国家も、現在ではどの様な評価を受けているか、ということを考えるならば、芸術の非公共性を頑として譲らぬことがどれほどに重要であるかも自然と感覚されることである。「書物を焼く者は、やがて人を焼くようになる」とハインリヒ・ハイネは言ったが、これは書が人の魂の最後の一滴まで注ぎ込まれたものであるからにして「人を焼く者は、やがて人を焼くようになる」と言うに過ぎず、またこの魂を注がれた物というのが芸術一般を表し得るからに、芸術の破壊は人間の破壊である。逆説的に、人間を破壊したいのならば、まずは芸術を破壊するとよい。価値判断と意思決定は、物に魂を注ぎ込むことに等しい。芸術とは実に、魂の注がれた事物に他ならないのである。

折り紙に関する各種論題について

私がこれまで個別具体的なことを排除し、より一般的な話しかしていないのは、個別具体的なものが極めて役に立つとは思われず、一般的な論を展開すればあらゆる具体に到達できるのであれば、具体の論を無数に展開するよりも一般の論を一つ展開する方が功利が大きいと考えたためである。折り紙に対するあらゆる考え方は、以上の文章から完全に表明することが可能である。

冷笑主義者諸君に

私は冒頭で、議論が盛り上がることは健全であると記したが、ある特定文化に大きな熱量を伴ってかかわる人間が増えれば必然発生する現象であるためであり、熱量は換言すればエネルギーであるがゆえに、盛り上がった議論はその特定文化を駆動する。
このような活発な議論を、まるで子供のお遊戯にしか見えぬような目で、極めて否定的に、ニヒリスティックに見つめる者がある。そういった者は、沈黙することを意見を持たぬことと取り違え、意見を持たぬことこそが自身を賢明に見せる最良の方途であると勘違いしているに相違ない。何者かに対して軽蔑するような視点を向けることで、あたかも自分は彼よりも賢しい存在であると盲信し、事物全体の駆動を妨げる。以上の私の見解に対して何か思うところがあった諸君は、諸君の見解を述べるか、それとも諸君の冷笑主義を貫くか、選ぶがよい。先ほどまで私的性質を述べていた私がこのようなことを言うのは甚だ可笑しいことのように思われるが、諸君が”賢明なる”沈黙をする以上は諸君の思想は外聞せず、私がものを語る以上は私の思想は外聞する。諸君がどう考えるかは勝手であるが、諸君が熱量を持たぬからと言って、その事実に他人を巻き込むべきではない。諸君が熱量を持つ者を冷笑的に侮蔑する態度を崩さないか、あるいはその論理を示さない限りにおいて、私は諸君を軽視するだろう。

おわりに

以上が私の折り紙に対して抱く一般的議論である。この文章は私の個人的試論でしかなく、当然のことながら普遍的真理を述べたものではない。
当初、私はこのようなまとまった形での文章を公表するつもりは無かった。現状では知見が十分ではない以上、なおさらである。それでもこの文章の講評を急いだのは、議論の盛り上がりの勢いを可能な限り持続するべきだと考えたためである。SNSによって、コンテンツの総量の増加に比例してコンテンツの消費速度も高まり、今や一日もすれば昨日見たコンテンツは忘れ去られるほどである。そんな中で、ことさらに触れづらいトピックであると思われるこのような議論は、少しでも延命措置を講じなければ、付いた火も表面には残らず、土の下で燻るのみになってしまいかねない。而してこの種の文章を稚拙なままにしろ公表する決意をするに至った。
文章、内容の稚拙さは改めて確認するまでもなく、速度を意識するあまり誤字の除去でも十分ではないかも知れない。青臭い餓鬼の文章だ、と思われても仕方のないような文章である。ゆえに、思ったこと、気づいたこと、あれば是非とも声をかけていただければそれは私の利益になるため幸いである。

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