教科書はなぜ学び終えた人間には素晴らしく見えるのか、なぜ予習には不向きなのか

私は受験勉強に関しては教科書主義。参考書は特定のもの以外は手を出さない、問題集に至っては手を出すな、という指導スタイル。教科書はいろいろ批判されるけど、後から振り返るとこんなに見事にコンパクトに必要十分な内容を網羅してるものがないから。

でも、「後から」って?

よく子供時代には「予習復習をしっかりやりましょう」と先生や大人たちから言われた。自ら勉強するようになった私は、何度も予習にトライしたが、歯が立たなかった。ワケわからん。何も理解できない。これならまだ理解の浅い分野の復習をした方がマシ。結局、予習の習慣は全くつかなかった。

授業を聞いてようやく理解の筋道が見え、でも授業を聞いただけでは筋道をたどるだけで精一杯なので、家に帰ってから今日聞いた内容を反芻し、「あ、なるほど、そういう意味だったのか」と、ウシのような反芻動物的な学習をしていた私は、完全に復習型。
でもなんか不思議。

なんで教科書読んでもチンプンカンプンなのに、授業で先生の説明を聞くと、一応わかった気になるんだろう?
それは、先生が、全く初めて学ぶ生徒のために噛み砕いて説明しているから。
ということは?

教科書というのは、学び終えた人間が読み返すには、エレガントなまでに実に無駄なくきれいに学習内容がまとめられているのだけど、これまで全く無知だった者が取っつきやすくなってるかというと、全然ダメ。

そうか、教科書は復習には実に素晴らしいが予習に全然向いてないのか!

先日、ピアノの運指の練習曲(バイエル)がつまらなさ過ぎてピアノ教室に通うのがイヤになる子どもが多い問題を取り上げた。その際、ピアノ教室の先生あるいはピアノ奏者の方々から、練習曲の素晴らしさ、完成度の高さ、それを練習することの意義について複数のご指摘があった。恐らくその通りだと思う。ただ。

もしかしたら教科書と同じ問題を抱えているのかもしれない。教科書は、学んだことのある人間が見ると実に抜け落ちがなく、無駄な記述もなく、見事にコンパクトにまとめられていることに舌を巻くのだけど、これから学ぶ初学者にはチンプンカンプン。これと同じことがピアノの練習曲にもあるのかも。

NHK教育(Eテレ)の名物番組、「びじゅチューン」は、芸術作品に興味をもつ子ども達を激増させ、美術館に子ども達の姿が見えるようになった、大きな功績をもつ。その内容たるや。
おふざけ。おちょくり。芸術作品と全く関係のない妄想が繰り広げる動画が実に愉快。

「武蔵の遅刻理由」は、宮本武蔵が巨大クジラと戦う勇壮な絵を題材にした作品だが、まあ一度、YouTubeで検索してご覧頂きたい。笑わずにいたらアナタは偉い。
他にも「富士御神火紋黒木羅紗陣羽織」もお勧め。このややこしい名前、びじゅチューンの動画で私も覚えてしまった。

「びじゅチューン」の功績は、高尚なものをあえておふざけでおちょくることで親しみを覚えさせ、それによって作品に興味が湧き、周辺知識にも自然と興味が広がる部分。「オフィーリアまだまだ」を見るまで、私はオフィーリアを知らなかったが、番組を見てシェイクスピアの戯曲の一場面だと知った。

「びじゅチューン」はいわば、未知な分野をこれから学ぼうとする人間が予習するのに最適な方法を示してくれている。親しみやすさ、学びやすさだ。何しろ楽しい。面白い。それがあると、学んでいる気もなしに学び、予習している気もなしに予習してしまう。
そうか、予習は入りやすさ、楽しさが大切!

教科書はいわば、その分野を学び尽くした人が、学習内容のエッセンスを抽出し、さらに無駄を削ぎ落としたもの。だから、学んだ人間からは惚れ惚れするほど無駄がない。しかし初学者にしたら、びじゅチューンに出会う前の美術作品のようにお高くとまり、分かりにくく、とりつく島がない。

楽しく親しみやすく理解しやすく入れる「びじゅチューン」のような予習用教科書と、一通り学んだ者が無駄なく学べるこれまでの復習用教科書とを、分けて考えた方がよいのではないか。
もちろん、こうしたことを目指した漫画や学習教材はあまたある。けれどまだ念頭に既存の教科書のイメージが想定されてる気がする。

もうちよっと、「びじゅチューン」のようにはっちゃけたものは作れないか。一度目にし、耳にしたらこびりついて離れないのが「びじゅチューン」の魔力でもある。おかげで一発で覚えてしまう。面白い、という威力は凄まじい。

「予習」は、既存の教科書のような無駄のないものはあまり適さず、ともかく一発で印象に残るようなものの方がよいように思う。学びを遊ぶ人たちがもっともっとたくさん登場することを楽しみにしている。

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