求められているモノに応えるということ
プロローグ
その日、夜伽を担当することになっていたクライアントは酷く酔っぱらっていた。
このクライアントとは年単位の付き合いがあったが、その彼が前後不覚になるまで泥酔したことなどは今までなかったので、大層驚いたことを覚えている。
勿論その夜に語り手としての出番などなく、彼が睡眠中に嘔吐して喉をつかえやしないかをヒヤヒヤとしながら見守るのが私の仕事だった。
翌日。
二日酔いに苦しみながら、彼がどうしてそこまで酒をあおったのかを申し訳なさそうに話してくれた。
彼は中学校の教員を目指している大学院生だった。
快活で人の好い彼は、学内でも先輩後輩関わらず人気があったし、クライアントである同じ学校に通う別の学生や教授からも評判は良かった。私もその評判を疑ったことはなかった。
そんな彼はこの日の数週間前から、教育実習へと赴いていた。
その最中はとてもじゃないが多忙で私を呼べる日などなかっただろうに、1日だけ余裕を作って私を呼んでくれた日があった。
彼はとても疲れていたが、いかに生徒が可愛いか、授業が面白いか、そればかりを語ってくれたので、私もその話に楽しく耳を傾けていた。
そして冒頭に戻る、その日は教育実習の最終日だった。
その学校には彼以外の実習生も複数人おり、それぞれ受け持っている学年やクラスは異なっていても、同じ教育実習生同士協力して数週間を乗り越えてきたそうだ。
その実習生の中で、ひとり浮いている男がいたという。(仮にAとする)
無口で少しとっつきにくいタイプのそのAを、周りの実習生はあまり相手にしなかったそうだ。
だが、彼は受け持った学年やクラスがほぼ同じだったことから、Aになるべく話しかけるようにして関係を良好に保とうとしていたという。
そして迎えた最終日。
何の問題もなく、彼は最後の授業、そして最後の挨拶を終えた。
しかし、多忙な数週間が終わりその解放感に浸っていた彼の目に驚きの光景が映る。
Aが、複数の花束と色紙を両手に抱えていた。
恐らく生徒からもらったものだろう。小さなものとはいえそれを複数抱えているということは、複数のクラスからもらったものだと推測が出来た。
受け持ったクラスはほぼ同じ。つまりAには与えられても、彼には花束も色紙も、「ありがとう」と綴られた手紙さえ与えられなかったのだ。
決して生徒に嫌われていたわけではない。むしろ好かれてさえいたはずだ。
それなのに、どうして。
どうしてあのAだけが。
どうして自分だけが。
彼はAの顔を見るのが嫌で実習後の打ち上げに参加もできず、その足で一人飲みに行き、そして泥酔したまま私を訪ねてきたのだった――。
きっかけとなったマシュマロ
どうしてこの話を冒頭にしたのかというと、先日私のもとに届いた1通のマシュマロを読み終わったとき、この過去が私の脳裏をよぎっていったからだ。
そのマシュマロの内容はこれだ。
これを読んだだけだと、どうして私が冒頭の内容を思い返すことになったのかはあまり伝わらないだろう。
このマシュマロにもし140字以内で返すとすれば「SNS離れしたらいいと思うよ」が簡潔な回答かもしれない。
巷で言うSNS疲れの典型的症状だ。が、何もSNS疲れはSNSを断つだけが解決だろうか。
先に宣言しておくと、対処療法のように一時的に離れ、戻り、またつらくなったら離れ、というのが悪いわけではない。1つの有効手段だ。
が、ここではそれとは違った例として、私の考えを出せればと思っている。(明確な回答ではないのであしからず)
このnoteを読むことで、もしかすると何か助けになるかもしれない相手の例としては、マシュマロにあるような活動に疲れてしまったVtuberだけではなく、
・学校、仕事で人間関係がうまくいかない
・部下、後輩ができたがうまく接せない
・優秀な部下、後輩がでてきて自分に劣等感を感じる
こういった人たちにも何か心に響くものがあれば幸い、と思いながら筆を執っている。なかったらごめん。
何故生徒は花束をくれなかったのか
この本当の答えは、生徒たち自身にしかわからない。
もしかしたら本当はあげるつもりだったのにうっかり忘れてしまって、あとで凹んでいるサイドストーリーだってあるかもしれない。
が、ここでは私が感じたことを軸に考えたことを綴る。
当時、彼がこの話を終える頃には目に大粒の涙をたたえていた。
その涙の理由は様々だろうが、それだけ教員という仕事に熱心に取り組み考えていることは素晴らしいと当時の私は思ったし、今でも思っている。
「どうして君だけがもらえなかったんでしょう」
私は率直に聞くことにした。
他の人はどうだったの?と聞くと、もらっている人もいればもらってない人もいた、という回答を得た。
勿論、クラスの雰囲気というものもあるだろう。活発なクラス、おとなしいクラス、ノリが良いクラス、など。そう考えると「先生に色紙をあげよう!」という言い出しっぺがいなければ、そもそもそういったものをもらえない可能性だって大いにある。本来は有無で傷つくような事象ではない。
けれど、今回のケースはたまたま同じクラスで、同じ生徒たちから違う待遇を受けてしまったというのが彼にとっては大きなショックだったのだ。
「生徒には好かれてると思ってた」
彼は沈んだ声で言う。私もそこは疑っていない。
所謂、彼は「いるだけで場が明るくなる」タイプだ。よく気が利いて、人が嫌がることは率先とするので、人からの評判は本当に良い。
だからこそ、彼のこの話はとても不思議で、私もこの時には何が原因なのかはさっぱりわからなかった。
たまたま、クラスの中心グループか何かが彼のことを嫌いでそういった最後の挨拶を抑制していたのか。もしくは、Aのことを好きで熱心な1グループがたまたまAにプレゼントをしたのか。
そんなことを考えていても彼の元気は戻らないので、私は1つ提案した。
「これで終わりじゃ締まらないですね。これで最後だと思って、私に授業をしてみてくださいよ」
あなたのかっこいい先生姿が見たいな、と付け足すと彼は「授業料高いですよ」と笑ってくれた。少し元気が出たようだった。
彼は数学の教員を目指していたので、私に簡単な数学の授業をしてくれた。
内容は私でもわかるレベルだった。
しかし、ここで私は原因と思しき要素を見つけることになる。
彼は絶望的に授業が下手だった。
プラスαとはあくまでプラスαである
声は良く通る。表情も生き生きしている。聞いているだけならとてもいい先生のような雰囲気を醸し出している。
が、あまりにも説明がわかりにくい。
例えるなら、八百屋の親父がいきなりあの声量で般若心境を唱えだした、という感じだろうか。声は聞こえるのに話してる内容が頭に入ってこない。
声の明瞭さとは裏腹に、話してる内容の順序や論理性が破綻していて頭に入ってこなかったのだ。
簡単な授業が終わってやりきった!という顔をしている彼に私は言った。
「いい授業でしたね、普段教授はどう評価してくれてるんです?」
「内容がわかりにくいことがあるから、メリハリをつけろって言われてる。でも元気はいいとは褒められてるよ」
私はなるほど、と返した。
すると、彼はその私の声と表情で察したらしかった。その時の彼の悲しそうな顔は今でもすぐに思い出せてしまう。
「自分が説明下手なのはわかってる。向き不向きがあるんだなって。だから他のところでカバーができるようにしようとしたんだ。生徒とのコミュニケーションとか、仕事しやすい環境作るとか。そういうのは得意だから。だからAのこともサポートしたつもりだったんだ」
Aの授業は聞いたことある?と聞くと、彼は頷いた。Aは英語の担当だったそうだ。
「模擬授業も聞いたことあるけどわかりやすかった。でも教授にはいつも声が小さいとか、表情が暗いとか、そういう指摘を受けてて。俺はそれだけでAには勝ててるって思いこんでた。授業が下手でも、俺は色んなサポート方法を持ってるから…」
これを聞いて私が感じたことは、子供という純粋は残酷だな、ということだった。
彼はきっと生徒からしても親しみやすい良い先生だったのかもしれない。断定はできないが、おそらく「ナメられていた」とも違うだろう。
ただ、彼は生徒たちにとって「先生」ではなかったのだ。
彼が実習で赴いたのはいわゆる進学校だったそうだ。生徒たちは自分たちにとっての「先生」を素直な心で選んでいたのだと思う。
ここで生徒たちが求めていたのは「親しみやすいお兄さん」ではなく、「わかりやすい授業をしてくれる先生」だったのだ。
勿論、接する上で「親しみやすい」という性質は大きく助かるものだ。きっとこれは教員という業種に関わらず、どこに行っても必ず役に立つ。使わない場がない。
最近はどこの求人要項にも「コミュニケーションができる人」と記載されていることからもわかる。
が、それはあくまでも「大前提」のものではなく「プラスα」だと私は考えている。
私にとっては「あるに越したことはない」が「なくてもなんとかなる」ものであり、それよりももっと求められている根本的な要素がそれぞれの職場にあるはずなのだ。
現に、彼は巧みなコミュニケーション能力をもってして生徒と接したろうが、生徒からの評価はこの通りだった。
どんなにプラスαがあったとしても、本来伸ばすべきだった能力をごまかすには至れなかった。
仕事でも「仕事はそこまでだけど口がうまい人」というのはいることだろう。そういう人たちに比べて「自分は世渡り下手だ」と感じてしまっている人もいるかもしれない。
けれど、口のうまさだけでは何も手に入らない。詐欺師だって金品が手に入らなければ実績にすらならないのだ。
自分の先輩で、人は好くて喋っていて楽しいけれど仕事の責任はとってくれない人と、あまり話は弾まないけれど仕事はちゃんと面倒見てくれるし責任も取ってくれる人なら、どちらが有難いだろうか。
私は後者が有難いと感じる。求めてるのは友達ではなく、先輩として仕事を共にできる人だからだ。
(逆に友達なら前者の方がありがたいと思う)
プラスαが武器になるのは、本来求められているモノがあってこそなのだ。
「何を求めている人をファンにしたいか」を考える
先日届いた1通のマシュマロからこの過去を思い浮かべた理由が、聡い方々にはもうおわかりいただけたかもしれない。
Vtuber活動をするにSNSを活用した宣伝や交流というものは今どき欠かせないものだ。
様々なファンが私たちの活動を様々な形で楽しんでいる。きっとマロ主のTwitterも含めて楽しんでくれていることだろう。
しかし、このマロ主はコメントの読み上げやリプだけでファンの方々を楽しませる活動をしたいのだろうか。これはマシュマロを見る限り「否」だと思う。
先んじて言うが、コメントを読み上げたりリプに返事をすることが悪手だと言っているわけではない。
ここでいうコメントの読み上げやリプというのは、活動方針によっては先述した「プラスα」に該当するのではと、私個人は思っている。
ソレのせいで本来やりたい行動を制限されたり囚われたりするぐらいなら、「本来求められているモノ」を伸ばしたほうがいいのでは、とすら考える。
千夜イチヤの場合、活動当初はTwitterは基本的に全部フォローバックをしており、全部のリプに返事をしていた。
しかし活動を進めるにあたり、自分がやりたい活動と時間の兼ね合いが取れなくなった。そのため、自分の行動の優先度を整理した。
最近ではTLが追えなくなるのを防ぐためにフォローバックは関係者や気になった人のみにして、リプ返などはおはVですら時間があるときのみとしている。
そうした結果、普段の配信活動に力を入れるようになった。
Twitterを見ている人にも楽しんでもらえるようツイートはしつつ、配信を見ている人を楽しませることを最優先にしたかったからだ。
コメントの読み上げすら、毎回できてるとは限らない。来てくれた人への挨拶はして、そのあとの読み上げは面白いコメントやタイミングが良かったときにするようにしている。(アーカイブが残らない作業配信など配信によっては読み上げ率が変動することもある)
これも、もし今後人が増えて配信のテンポが悪くなると思ったら読み上げなくなる可能性だって勿論ある。
でも、今の私の視聴者たちは「千夜イチヤに名前を呼ばれたい」から配信に来ているわけではない。
「千夜イチヤを見て楽しみたい」から来てくれていると思っているし、今後私はそのクオリティだけは落とさないようにしなくてはならない。
(そんな状態で毎回Twitterでリプをくれたり、遊びに来てくれたり、時間があったから覗きに来たよと言ってくれたりするみなさまには本当に頭が上がらない)
エピローグ
重ねて言うが、コメントの読み上げやリプ返が悪手というわけではない。
Vtuberの活動は多様化しており、色々な方針があるのでファンの方々と親しみを持って交流をしたいという人だって勿論たくさんいる。
むしろその人たちからコメントの読み上げやリプ返を取り上げてしまうことは「本来求められているモノ」を取り上げるようなものである。ダメ、絶対。
Vtuberをやっていて「楽しい」という感情が関与しないというのはそうそうないはずだ。「どう楽しませるのか?」が重要で、かつ多様性があるのだと思う。
つまり、Vtuberは「本来求められるモノ」は自分自身で作り上げることができると私は思っている。
そのためには、ファンの人にどう楽しんでもらいたいか、どういう扱いを受けたいかは自分でコントロールする必要がある。「こういうVtuberが楽しい」と考えている人に自分の活動を見せていく必要があるのだ。
そこには「Vtuberとしてファンを楽しませる」は勿論、「こういうことをされたら困る」という意思表示も含まれている。
そのための意思表示にSNSは最適だ。
それに、その意思表示を裏付ける証拠の活動を形にしていけば、自然と周囲にはそれを求めてるファンたちが集まっていく。
例えるなら、間違いなく今の千夜イチヤに「毎日お返事してほしくてしてくれなかったらリスカしちゃうガチ恋ファン」はつかない。そんな人はわざわざ私を相手にしようとすらしないだろう。向こうにも選ぶ権利はある。
見たくないものは見ない。これはインターネットにおいて鉄則だ。休息が必要なタイミングだってあるので、必ずこうしろ、というものではない。
ただ、こうして自分の活動範囲を作り上げてコントロールすることで、SNS疲れは少し楽になるのではないか、と私は思う。
自分がどうしたいのか、どう見られたいのか。そのためにはどんな「Vtuberとしての姿」を見せればいいのか。振り返ってみるいいチャンスではないだろうか。
私はVtuber活動でも仕事でも、疲れてしまったときにはふと立ち止まって「自分は何を求められているのだろうか」「何を求められたいのだろうか」「それに応えることができてるだろうか」と考えてみるようにしている。
意外と自分に足りていなかったものを見つけられたり、逆に自信になったり。私にとって冷静な反省するべき指標の1つとなっている。
何かうまくいかなかったときにこそ、私はこの彼の話を思い出しては自省するのだ。
それは今でこそ欠点でも、伸ばすことができる余地でもある。
完璧な人間、完璧なゴールなどない中で、それを見つけることのできる幸せはそうそうない。
そしてこの活動では、それを自分で作ってコントロールできるという有難みをいつもいつも感じている。
余談ではあるが彼は現在、無事に中学で教鞭をとっている。
あれからAとも仲良く話すようになり、授業のコツなどを教わって授業がわかりやすくなったと教授からの評判も変わったらしい。
先日、久々に会った彼は、バレンタインにもらったチョコの数でAと毎年勝負をしていると笑って話してくれた。結果は毎年拮抗しているそうだ。
P.S.
私が長々書いたこと要約するとこれ。ラーメンハゲはバイブルです。
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