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なぜオーガニック信仰の人たちは容易に陰謀論を信じてしまうのか 佐々木俊尚の未来地図レポート vol.673

特集 なぜオーガニック信仰の人たちは容易に陰謀論を信じてしまうのか
〜〜「20世紀の神話」は今こそ終わらせるとき(第4回)

 「世田谷自然左翼」というネットスラングがあります。なんで世田谷?と思う人も多いでしょうが、世田谷区は東京きっての豊かな住宅街。ここに住んでいる裕福な人が社会主義に賛同したり、豪勢な生活をしてるのに環境問題に関心があるかのように語ったりすることを揶揄するスラングのようです。

 実際に世田谷区に住んでいるかどうかは別として、環境問題に関心を持つ裕福な人がやたらとオーガニック野菜にこだわる傾向というのは、前世紀の終わりごろから確かにありました。

 しかしこのオーガニック信仰というのも、20世紀の神話です。神話であるだけでなく、陰謀論やエリート主義に容易に結びつきやすいという厄介な問題も抱えています。今回はその謎を解き明かしていきましょう。

 そもそもオーガニック野菜とは何か。かんたんに言えば無農薬・有機野菜の総称で、有機とは農薬も化学肥料も使わないで育てた野菜のこと。これら農薬や化学肥料を使わない野菜は「有機だから安全」「有機だから美味しい」「有機だから環境にいい」とオーガニック信仰の人たちからは考えられているのです。しかしこれら3つはどれも、前世紀の神話です。

 しかし農薬を使わないから安全というのは、思い込みでしかありません。たとえばオーガニック信仰が悪の大王のようにカタキにしている有名な企業に「モンサント」があります。現在はドイツのバイエルに買収されて社名は消滅してしまっているのですが、いまだにそこらじゅうにモンサントの名前は出てきて、諸悪の根源のように言われています。

「発がん性のある除草剤ラウンドアップを販売している」「ベトナム戦争で使われた枯葉剤を製造した」なんて批判が多いようです。枯葉剤をつくっていたのは事実ですが、前者の「発がん性がある」は言い過ぎです。

 たしかにラウンドアップは、販売を禁止している国もあります。2015年には、世界保健機構(WHO)の外部組織IARC(国際がん研究機関)が、ラウンドアップの主成分のグリサホートについて「発ガン性の懸念がある」と発表したこともありました。

 しかしWHOと国連食糧農業機関(FAO)は、合同残留農薬専門家会議というところで「食事を介して発がんするリスクは低い」とも結論づけているのです。そして日本やアメリカ、EU、カナダ、オーストラリアなどの各国政府も同じ見解を出しています。つまり「絶対に安全だ」と言い切ることは確かにできないけれども、逆に「発がん性がある」と断定してしまうのも間違っているということです。

 くわえて、ラウンドアップのような除草剤や化学肥料が世界に果たした大きな役割も忘れてはいけません。

 第二次世界大戦後の人口爆発で、アジアやアフリカでは食糧危機が大きな問題になりました。これを乗りきったのが「緑の革命」と呼ばれる農業テクノロジーで、農薬や化学肥料、品種改良などによって、穀物の生産量を一気に増やすことに成功し、食糧危機を無事に回避できたのです。もし農薬や化学肥料がなかったら、貧困地域の人たちは多くが餓死に追い込まれていた可能性があります。そういう経緯を知らずに「モンサントがー」「農薬がー」と「わかりやすい悪」の非難ばかりしているから、世田谷自然左翼などと揶揄されてしまうのでしょう。

 もちろん、農薬や化学肥料にはネガティブな一面もあります。あまりにも使いすぎたことで土地が痩せてしまったり、川などの水が汚染されてしまったケースも少なくありませんでした。また大量の作物を供給するために特定の品種ばかりが栽培され、農産物の多様性を乏しくする結果も引き起こしました。

 このように物事にはつねにポジティブな面とネガティブな面があるのです。その両面をつぶさに見た上で、どう折り合い、調整し、バランスを取っていくのかということが求められているのです。勝手につくりだした「悪魔」を非難しているだけでは、物事は決して解決しません。

 だから「有機だから安全」と信仰のように思い込むのはやり過ぎですし、農薬を使った野菜をバカにするのも良くありません。農薬による「緑の革命」が世界の貧困層の人たちを救ったことに感謝しながら、ふつうの野菜をありがたくいただくのが良い姿勢なのです。

 そして「有機だから美味しい」というのも、神話です。

『キレイゴトぬきの農業論』(新潮新書、2013年)というたいへん素晴らしい著書がある久松農園の代表、久松達央さんに話をうかがったことがあります。久松さんによると野菜の美味しさは有機かどうかで決まるのではなく、「栽培時期」「品種」「鮮度」の三つの要素で野菜の美味しさが決まると断言されています。

 つまりいちばん美味しくなる旬の時期に、美味しい品種の野菜を選び、それを鮮度のよいうちに料理して食べる。これが最も野菜の美味しい食べ方であって、有機かどうかはそんなに重要じゃないということなのです。鮮度の悪い有機野菜を旬でもない時期に食べるよりは、農薬を使っていても、新鮮な野菜を旬の時期に食べる方が間違いなく美味しいのです。

 ちなみに「昔は野菜が旨かったが、いまの野菜はまずくなった」と文句を言う高齢の人がときどきいますが、これも神話です。旬の時期に食べれば、野菜はちゃんと美味しい。ではなぜまずいと感じるようになったかといえば、昔は旬の時期しか出まわらなかった野菜がハウス栽培の普及で年中販売されるようになってしまったからです。冬にキュウリやトマト、ナスなどの夏野菜を食べたら、それらはハウス栽培なので旬の露地ものに比べれば味が落ちるのは当然です。

 ただし、ひとつ言えるのは、オーガニック栽培にとりくんでいるような農家の人たちは「おいしい野菜をつくりたい」と心がけ、消費者の安心・安全を求める願いに応えようとしている方たちが多い。結果として、オーガニックという冠をつけて売られている野菜は、美味しいことが多いということはあるようです。結論は同じだけど、因果関係が異なっているのです。

 オーガニック信仰と農薬忌避と同じようなものに、「食品添加物は危険」「大手メーカーのパンは添加物まみれなのでカビがはえない」というような思い込みもあります。これらも前世紀の神話です。

 添加物についてはかなり厳密な規制がかけられていて、危険なものはほぼ排除されています。大量生産されているパンにカビがはえないのは、添加物のためではなく、非常に清潔な工場で無菌状態に近いかたちで製造されているからです。自宅でパンを焼くと、キッチンが無菌状態ではないからすぐにカビがはえてしまうというだけのことです。

 合成保存料の忌避という神話もあります。しかし保存料がなければ、どうしても日持ちが悪くなります。昔の伝統的な食品はたしかに合成保存料は使っていませんでしたが、そのかわりに梅干しや漬け物のように大量の塩を使って日持ちさせていました。つまり伝統食品に回帰すると、今度は塩分とりすぎで高血圧や胃がんのリスクが高まってしまうということが起きるのです。

 つまりは何ごともバランスが大切だということ。人工的なものは何でも危険だと思ってしまうと、別のリスクを背負うことになるのです。

 なぜ20世紀には、これほどまでにオーガニック信仰というか、原理主義のようなものが蔓延してしまったのでしょうか?

 まず明らかなのは、そこには「エリート主義」が見え隠れしていることです。「バカな大衆は不味く不健康で危険な野菜を食べている。しかし選ばれた私たちは、健康で安全な野菜を食べることができているのだ」というエリート意識です。

 しかしこのような根拠のないエリート意識は、容易に陰謀論と結びつきます。「大衆は汚染された野菜を食べさせられて騙されている。わたしたちだけが、食の真実を知っている」という発想になってしまうと、どうしても陰謀論に突っ走ってしまうのです。

 このようなエリート主義と陰謀論のマリアージュ(笑)の成り立ちについて、カナダの哲学者ジョゼフ・ヒースはおもしろい分析をしています。これはわたしの著書『そして、暮らしは共同体になる。』(アノニマ・スタジオ)でも解説したことがあるのですが、ヒースは『反逆の神話 カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか』(NTT出版)という著書で、その源流をベビーブーマー(日本でいう「団塊の世代」です)の文化の成り立ちにあると指摘しているのです。

 米国のベビーブーマーは1960年代から70年代はじめにかけて、黒人差別やベトナム戦争の泥沼化、深刻になっていく環境汚染などで行き詰まっていったメインカルチャー(主流文化)に対して、カウンターカルチャー(反逆する文化)をつくりだしました。ドラッグとロックンロール、ヒッピーの世界ですね。

 カウンターカルチャーが生まれたのには、ふたつの要因があるとヒースは言います。第1に、第二次世界大戦後の急速な経済成長で、大衆消費文化が急速に広まっていったこと。でもこれだけでは、大衆消費文化を否定する方向に向かう意味がわかりません。そこでヒースは、第2の要因として、欧米がナチスドイツの台頭を許してしまったことを挙げます。

 ナチスドイツは暴力で国民を支配したのではなく、順応し、みずから喜んで協力してくれる国民を扇動して動かしていきました。決して恐怖政治だけではなかったのです。戦後にできあがったナチスのイメージとしては、ゲシュタポのような秘密警察が目を光らせ、ユダヤ人のみならずドイツ人もビクビクしながら暮らしていたという印象がありますが、これは事実ではありません。実際にはそうではなく、ドイツ国民の多くはナチスに順応して密告をゲシュタポに大量に届け、ゲシュタポの側が処理しきれないほどだったといいます。

 このように人々はかんたんに順応し、それが最終的にはユダヤ人の絶滅収容所というジェノサイド(民族抹殺)をひきおこしてしまったといういことなのです。

 これはドイツの一般大衆だけでなく、ナチスの政府高官にも当てはまる話でした。ユダヤ人強制収容所の責任者のひとりだったアドルフ・アイヒマンは戦後イスラエルで裁かれて絞首刑になりましたが、ユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントは彼の裁判を傍聴し「凡庸な悪」と形容したのは有名な話です。

 アイヒマンは映画に出てくる敵役のような典型的な「悪」ではなく、実に凡庸な官僚にすぎなかったとアーレントは指摘したのです。つまりアイヒマンは凡人で、当時の官僚組織や法律や規範にもとづいて粛々と行動しただけだった。悪は悪人が作り出すのではなく、思考停止の凡人がつくるのだ、とアーレントは考えました。

 この「凡庸な悪」ということばは、社会規範や組織の論理、法律などにしたがうことが実は悪につながることがあるということを、世界の人々に突きつけたのです。一般大衆から政府高官まで、権力への順応が、おそろしい虐殺を招いてしまう——これが、戦後に欧米の人たちにとって大きなトラウマになったとヒースは指摘しています。

 しかしこうした規範や政府組織は、社会の基本的な土台でもある。これらを一概に否定してしまうことはあまりにも行き過ぎだと今となっては感じますが、しかしナチスのトラウマがあまりにも強かったあまりに、戦後のカウンターカルチャーは規範や政府組織を強く否定する方向に突き進んでしまった。これが「反権力」「何でも反対」のベースになっていったのではないか、とヒースは論じているのです。

 端的に言えば、こういう構図ですね。「ナチスのような権力に、凡人や大衆は容易に騙される。しかし私たちは決して騙されない」。実際にナチスが存在している戦前であればこの構図は成り立つでしょうが、戦後のリベラルな民主主義とその政府を否定するためには、どこかに「悪」をつくりだして、それを否定しなければならない。その「悪」とされたのが、モンサントのような企業だったということなのでしょう。

「モンサントのような権力に、凡人や大衆は容易に騙される。しかし私たちは決して騙されない」

 ここまで行けば、エリート主義と陰謀論は容易に結びついてしまうのです。

 ここからは、この「エリート主義と陰謀論」のマリアージュがいかにして社会と乖離していったのかをさらに深掘りしていきましょう。

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