地元が嫌い、地元が好き。

 外ではセミがうるさく鳴いており、季節はすっかり夏になりましたね。もう8月も半ばに差し掛かろうとしているのに今更こんなことを言うのは例年であれば違和感を覚えるところなのですが、今年に限ってはついこの間まで大雨が降っていた気がすると思うので、このような導入も許されるでしょう。

 さて、タイトルにあるとおり、私は地元が好きで、地元が嫌いです。といってもついこの間までは「地元が嫌いで、地元が嫌い」でした。その気持ちの変遷みたいなものを私自身のためにも整理したいと思いこのような記事を書きました。

ずっと地元が嫌いだった。

 なんとも物騒な見出しですが、その通りなので仕方がないです。私は最近まで地元に対して好意どころか嫌悪感しか感じていませんでした。何もない景色、古臭い価値観の台頭、同調圧力、どれを取っても全く馴染めませんでした。幼少期よりこの場所で過ごし、成人を迎えしばらく経ってもその気持ちは拭えませんでした。それどころか時が経つにつれその気持ちは強くなっていきました。そうなった理由の一つに大学生になって頻繁に都会に足を運ぶようになったことがあげられると思います。田舎で閉じこもっていては味わうことのできなかった刺激的な体験や多様な価値観との触れ合いを経て、自分の中の見識が大海のごとく広がっていくのを感じました。

 そして外で得た見識を地元に持ち帰った際、周囲から一切の共感を得られなかったことから地元への反発心は確固たるものになりました。

 しかし様々な事情があり、結局その大嫌いな地元で就職することになりました。地元への反発心が消えたわけでも弱まったわけでもないので、その気持ちを抱えながら地元で社会人として生きていくことになったわけです。そんな状態で気持ちよく仕事ができるわけもなく、毎日精神をすり減らし、一時は精神的な病も患いました。それほどに地元やそこに住む人々と相容れなかったのです。なので様々な事情を全てかなぐり捨て、地元を出てやろうという気持ちが強くなりました。

心境の変化

 前項のとおり、地元を出たいという気持ちが強くなってきた自分ですが、事情が単純なものでは無かったため、何も考えず踏み出すことはできませんでした。といっても物理的に踏み出すことができなかっただけで、気持ちは完全に固まっていました。

 そんな中、高校時代の友人たちと数年ぶりに集まる機会がありました。そこで友人たちと思い出話で盛り上がりました。高校時代は私の人生の中で最も充実していたと言っていいほどに楽しい毎日だったので、思い出が湯水の如く溢れ出し止まらなかったのです。思い出話の中には地元に根付いたエピソードも沢山ありました。「あの場所でやったあれが楽しかったな」みたいな話や「あの景色は今でも変わらないんだよな」みたいな話をして盛り上がっていたら、いつの間にかお店の閉店時間になっていました。

 解散後、私はしばらく不思議な気持ちに包まれていました。地元の全てが大嫌いなはずの私が、「地元の良いところ」や「地元であった楽しい出来事」を楽しそうに話していたわけですから。どうやら私は、友人たちと話すことで「地元の良さ」なるものを思い出したようなのです。地元だからこそ知っている楽しいスポットを沢山あるし、地元だからこそ出来た友人たちもいます。私は地元の全てを嫌いなわけではないのだとそこで気付かされました。この気付きは傍目から見るとしょうもないものなのですが、私にとっては世界が変わるほどの衝撃でした。私はいつの間にか、人生の中で直面したいくつかの理不尽なケースを、所属するコミュニティ全体の性格であると決めつけていたのです。そのいくつかのケースに対する怒りが歪んで地元全体への嫌悪感に変わっていったのだと思います。

地元が嫌い、地元が好き。

 前項の流れを汲むと、「改心しました!地元大好き!」という結論に至るのが自然な気がしますが、全然そんな気持ちは無いんですよね。地元の嫌いな部分は本当に嫌いですし、この気持ちは歪みでも勘違いでもありませんからね。それでも確実に心境の変化はありました。

 結論としては「地元には良いところもあるし、悪いところもある」ということです。当たり前ですね。この当たり前に辿り着くまでに相当の時間を要しました。そして思うことは、今後の生き方を決める前に気づけたことはとても運がいいということですね。地元全体が嫌いなわけでも無いのに、地元全体に対しての嫌悪感を原動力に行動してしまったら、きっと後悔していたことでしょう。だって地元にも好きな部分はあるわけですから。

 地元の好きなところも嫌いなところも加味して、今後の方針を決めていこうと思います。そういう決意表明でした。

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