【TOP INTERVIEW: 「ユーロスペース」代表 堀越謙三】ミニシアターブームの立役者
「売れるか売れないか分からない若手の監督の作品を、自分の勘だけを頼りに買い付けてくるっていうのは、とてもマイナーな仕事です」
ー大学ではドイツ文学を専攻されたんですよね?
高校の時に読んでいた文学がドイツ文学でした。僕はトーマス・マンとか読んでいたから、大学のドイツ文学科に行ったという。あの頃はみんなそんな感じで、簡単に色分けされちゃうんですよ。文学好きは国文へ行くか、仏文へ行くかですが、独文は変わってるって言えば変わってる。人数も少なかったし。当時は学生運動が始まったばかりの頃で、大学の中に入れない。学生運動で封鎖されているわけです。警察の機動隊が全部占拠しちゃってるから。でも、そんなに楽しいことってないじゃない?警察に石投げていいんだよ(笑)。それ以降、世の中に、そんなことないんだから。大学は年に2日とか3日しか行かずに、試験もないんだもん。それで就職できないのもあるけど、会社に入って何かやるっていうのは、やっぱり許せない。自分が許せないから、何か抵抗するものが必要になったんだね。それで、映画が好きだからといった感じで、映画は自分の未来に繋がるツールだった。なので、この仕事を始めた動機も、純粋ではないんですよ、決して。
ーそれでドイツに行かれるわけですが。
ドイツに行ったっていっても、留学に行ったわけじゃないから。片道切符で行ったんです。卒業して毎日家にいるとね、おふくろが、近所の人に面目が立たないから、どっか出かけてよって言うんですよ。じゃあもう外国に友達と行っちゃうかな、みたいな。
ー始まりは、そんな感じだったんですね。
現地に着いても仕事が無いから、病院の下働きを3年くらいやって。ドイツに行ってから給費留学を受けて大学にも行ったけど、結局、そこで起業しちゃったんです(1970年 会員制旅行代理店「欧日協会」を創業)。
ーその頃のドイツは、どんな感じでしたか?
もちろんベルリンの壁があって、ドイツは東西で別れていたけれども。やっぱり、成熟した文化をみんなが求める、そういう世界でした。大人の世界ですね。話をしていても教養があるし。オペラとかお芝居なんかは、ずいぶん観て回りましたよ。
ーお金を持たない若い人でも、そういった伝統的な芸術を観るチャンスが沢山あったんですね。
当時は、ジーパンでオペラを観ることができない時代だったから。どこに旅行しても、いつもタキシードだけは持ってる。お金がないからヒッチハイクで移動するんですが、向こうの公演って、日本の歌舞伎みたいに、ひとつの公演をずっとやってるんじゃなくて、毎日内容が変わるんですよ。だから1か所に1週間か10日間いると、相当の出し物が見られる。そういうのは面白かった。やっぱりクラシックは凄かったですね。
―そういう経験のすべてが、後に映画を買い付けたり、ユーロスペースという場所を作る道に繋がっていくんですね?
そんな感じで、ヨーロッパ全土に行くわけですが、今でもフランス語ができないのに、なぜかフランス人ばっかりなんですよね、友達が。監督も。適当だからですかね(笑)。なついてくるのはフランス人ばっかりですね。フランソワ・オゾン監督とか、“東京のパパ”なんて言ってくる。彼らが若い時に、日本から彼らの映画を買ってあげたっていうか、見つけてあげたからでしょうね。そういうことが印象に残ってるから、そう言うんでしょうね。
売れるか売れないか分からない若手監督の作品を、自分の勘だけを頼りに買い付けてくるっていうのは、とてもマイナーな仕事です。でも、マイナーなことをやってるメリットっていうのはすごくあるんですよ。ビジネスを考えなければ、これ以上幸せなことはない。それはどうしてかっていうと、そうやって監督が信頼してくれるってことなんだけれど。たぶんファッションデザイナーだって一緒だと思うけれど、監督だって、自分の名が売れてから集まってくる人はいっぱいいるわけですよ。でも、そんなの全然印象に残らないんだ。だけど、自分が初めて東洋の島国の人から「君の作品はすごい!」とか言われたら、一生印象に残るじゃない? それは絶対有利ですよ。そういうのが、僕の場合10人も20人もいて。もう今となっては、彼らの作品を買うことなんかできないわけです。うちの規模では扱えない大監督になっちゃったりしているのが、いっぱいいる。それでもみんな、俳優さんとかでも、日本に来ると「会わないか?」って電話がかかってきたりする。嬉しいよね。売れちゃってから来たやつなんて覚えちゃいない。人としての当然の気持ちって、そういうものだと思います。マイナーなところでやってる喜びは、そういうところにもありますね。
ーちょっと話を戻して、ドイツで会社を立ち上げますが、その後、1971年には帰国して、77年には、ヴィム・ヴェンダース(Wim Wenders)といったドイツの、当時若手の監督達の新作映画を、自主上映活動としてスタートさせています。
あの種類の映画って当時の日本では無かったからね。
ーその時の日本の状況は、例えば大手企業が配給した映画しか観るものがなかった時代でしょうか?
1955年が映画興行の頂点ですね。その頃、テレビが出てきて、それから映画の興行が10分の1に落ちるわけ。1955年の後半から70年の終わりぐらいまでって、アート系の映画とか日本には何も入って来てなかった。商売にならないから。そういった映画をかける劇場がなかった。今みたいに、ミニシアターがなかったんだから。だから海外で評判になっていたゴダールだって、当時の日本には入って来ていなかったんですよ。だからそういうのを見たいっていう欲求があった。
でも最初は映画なんて、どこで買うのか分からなかった。だから大使館に相談したりして。大使館が持ってるんですよ。自国の文化を紹介するためにフィルムを持っている。そういうのを借り出して、場所を借りて、みんなで見てたりしたわけ。でも、いつまでも、それをやっててもしょうがないってなって。その頃、岩波ホールができたわけです。それでポーランドなんかの作品が入って来て、観ることができた。その後フランス映画社が素晴らしい映画を輸入しはじめるんだけど、彼らは東宝関係の方々で、インディペンデントではないよね。僕は当時、旅行代理店をやっていて、人のお金をいっぱい預かって持ってたから、それを使って。それで自主上映会なんかを開いていたわけです。劇場がないから、ホールを借りて点々とやってた。
ーそれは、何だか、すごく楽しそうじゃないですか!
楽しいですよ。酒を飲みに行きたいだけだもん(笑)。次は九州!今度は北海道!って遊んで回ってた。もともと遊びだからね、映画って。悲壮感なんて何もない。でも面白かったですよ。全国のいろんな映画館に行ったりしながら。
「知らないって楽しいんだよね。何にも知らないと何でもできる。買い付けてきた映画に、字幕なんてどこでつけるのかも分からないから、東宝に電話して「字幕って、どこでつけたらいいんですか?」って聞いたりしてね。」
ー次のステップとして、映画を自分で買い付けるわけですが、どこにも所属していない若手監督だとしたら、直接ご本人に連絡を入れたんですか?
その頃、個人で映画なんか買える人はいなかったわけだし、しかもね、1ドル360円の時代だから。日本から海外に行ける人ってのは、もう年間何万人って決められてるぐらいですよね。旅行の自由化は67年でしょ?そういう時代に、海外で映画を買うなんて、すごい特殊な話じゃない? 野菜買うんじゃないんだからね。どうやって買っていいか分かんないわけですよ。ドイツにはフィルムセンターみたいなのがあるんですけど、そこに「映画買いたいんだけど、どうやって買ったらいいんですか?」って電話して。そうしたら「じゃあ、おいでおいで」なんて言われてね。館長さんは研究者としても俳優としても有名な人だったんです。それで「どういうのを見たいんだ?」って言うから伝えると、配給会社の人を紹介してくれて。当時はビデオも無かった時代だから、買い付けたいと思った映画を、なんと僕一人のために映写してくれるわけですよ。眠ることもできなくて大変なんだけど(笑)。無事買い付けて帰国したら、みんなびっくりしたわけです。映画って誰でも買えるんだ!みたいなことで。それでみんな色めきたってさ。それまでは東宝とか東映とか、そういうところしか買えないと思っていたからね。
ー個人で買い付けるなんて、出来ないと思ってたんですよね。
知らないって楽しいんだよね。知ってたらフィルムセンターの館長に電話しないよね。何にも知らないと何でもできる。字幕なんてどこでつけるのかも分からないから、東宝に電話して「字幕って、どこでつけたらいいんですか?」って聞いたりしてね。説教しながら得意そうに教えてくれるんだ。みんな「しかたないな~」なんて言いながら、教えてくれる。それをいろんなとこでやると、1年で一通り覚えちゃう。ともかく何にも分からないんですって、下手(したて)に出ると、すごい喜んで教えてもらえたわけです。
ーお話し聞いただけで情景が浮かんできます。「ドイツ新作映画祭」はどこで開かれたんですか?
全電通ホール(全電通労働会館ホール)ですね、御茶ノ水にある。凄かったです。4日間ぐらい上映したかな?全回満席でしたね。500人ぐらいのキャパだったと思うんだけど。その時にね、僕は映画界の人間じゃないから、誰が来たか分からなかったんですよ。あの人が来ていたとか、この人が来ていたって、後から聞いて。ドイツ映画が入ったのが、戦後初めてだったかな。一時はドイツのスキー映画とか、山岳映画っていう分野が日本で流行った時期があったんです。外国に行けないから、スキーとか山を撮ったそういう映像が、当時の日本からしたら、ものすごいスペクタクルなわけですよ。そういう山岳映画を除いては、戦後初めて公開されるドイツ映画だったわけです。
ヴェンダースとはね、ちょうどドイツに行った時に『さすらい』(1976年 西ドイツ製作)のプレミア上映があって、出会ったんです。金無いから大した金額になんないけど、君の映画を買いたいんだよ、みたいな話をして。彼もまだ、大学を卒業して間もない30歳ぐらいだったかな。とっても喜んでくれて。「外国に初めて売れた!」とか言って。彼もカンヌでグランプリをとってブレイクするのに、やっぱり10年ぐらいかかってますからね。
ーそういった世間を驚かすような成功があって、ユーロスペースをスタートさせたわけですね。
儲かったわけじゃないよ!ユーロスペースは、会社(欧日協会)を日本航空に売った資金でスタートさせたんです。
「あの時代の渋谷、最高でしたね。公園通りの東京山手教会の地下には、渋谷ジァン・ジァンがあったし。パルコ劇場、ピテカントロプス、そういうのがポツポツとあって。割と一般の人には尖りすぎてる傾向の、それが渋谷文化だったんだよね。」
ーユーロスペースは最初から、この場所にあったんですか?
オープンしたのは1982年。もともとは渋谷の桜丘に小さいビルがあって、そこが本業の旅行代理店(欧日協会)でもありユーロスペースでもあったんです。映画だけじゃなくて、現代音楽とか、サティの全曲演奏会を日本で最初に開催したり。本当に道楽ですよ。旅行代理店なんて俺がいなくたってさ、指示だけ出せば社員がやってくれるから。社員が稼いだお金を、ひたすら僕が使ってたんだね。その構造は今でも変わんないんだけど...。
ー2006年に桜丘から円山町へ移されましたが 80年代は渋谷はすごく元気で、何かを観たり聞いたりするために、パルコのある公園通りの、あの坂を登らなきゃ!と思うような場所だったと思います。
あの時代の渋谷、最高でしたね。公園通りの東京山手教会の地下には、渋谷ジァン・ジァンがあったし。僕がここでユーロライブ(ユーロスペースで、定期的に開催される落語会=シブラクやコントライブなど、自由なジャンルの公演とトークライブのこと)をやっているのは、あのジァン・ジァンを再興したくてやってるんだから。ジャン・ジャンでは、2ヶ月に1回、映画評論家の淀川長治さんとか“おすぎ“なんかが映画のトークショーをしたり、美輪明宏さんやイッセー尾形さんが出演していてね。ノンジャンルで演劇をやったり。最初に有名になったのは高橋竹山さんで、津軽三味線が復活したのは、そのジァン・ジァンですよ。渋谷PARCOの中にあるパルコ劇場の意味も大きかった。天井桟敷の寺山修司がNHKの角に住んでたしね。ちょっと外れると神宮前にピテカントロプス(ピテカントロプス・エレクトス)っていうライブハウスがあって。相当先鋭的だった。そういうのがポツポツとあって、割と一般の人には尖りすぎてる傾向の、それが渋谷文化だったんだよね。公園通りにNHKが移転してくる前までは、平屋の住宅街みたいな感じだったんですよ。そこにセゾンがサブカルチャーを持ってきたんですよね。その衝撃も凄かった。当時の社長の堤清二さんって天才だからね。単なる実業家じゃないからさ。彼のそういうコンセプチュアルなものって、やっぱりすごかったんですよね。思想をちゃんと持ってたんです。パルコの宣伝イコール渋谷カルチャーだった。パルコはその後、渋谷を全国に作ったわけですよね。東京カルチャーじゃなくて、セゾンカルチャーなの。
ー確かに、石岡瑛子さんによるパルコの広告も、当時の濃密な渋谷文化を象徴していました。そういった沸き立つ渋谷文化の中で、国内外の映画の、プロデューサーという仕事もされていたわけですよね?
やりたかったっていうよりも、頼まれた。
ー映画におけるプロデューサーの役割は、人や作品によって違うと思いますが、とっても平たくいうと、映画の完成までを客観的に俯瞰して、仕上げまで持っていく係と思っていいのでしょうか?
どういうプロデューサーでありたいかっていうのはプロデューサーが決めるんだと思います。全体を統括して、自分の指示のもとに、理想の映画を作りたいって思う人もいれば、僕みたいに、そんなのどうでもいいよって言う人もいるし。映画の世界では、ものすごくメジャーじゃないけれど、すごい尊敬されていて、僕も大好きな監督っていうのがいて。そういう人たちから一緒にやってくれないかと言われるだけでも、こっちは何の才能もないんだから、それは嬉しいことじゃない?
「1990年代までは、映画やアートといったジャンルにとらわれずに、回遊魚のように、知的好奇心で動きまわる人種が、東京に10万人ぐらいいたと思う。それが21世紀になって居なくなっちゃった。ネットで細分化されて。」
ーユーロスペースにはアテネ・フランセ文化センターと合同で設立した全般を学べる「映画美学校」もあって、映画を軸に教育の現場も抱えていますよね。
僕は教えてないんだけどね。
ー直接教えるわけではなくても、例えば「これは伝えていかなきゃいけないな」と思われた、きっかけはありましたか?
そうだね。もう教育者の方が長くなっちゃったかもしれない。こいつらがなんとかできるような環境を作ってあげたいなというだけ。
ー「映画美学校」を立ち上げた後、東京藝術大学からの依頼で、大学院映像研究科の立上げにもかかわっていらっしゃいます。
ひと通りやって、飽きたのかな。ミニシアターの全盛期、僕らはね。我々は全盛の一番面白いところを知ってるわけですよ。80年、90年なんてもう、ミニシアターにとっては、ゴールデンタイムだったから。それ以外のことは全部頼まれごと。美学校の立上げも、友達のアテネ・フランセの人から「ボスがどうしても、そういう学校を作りたいと5年ぐらいずっと言ってて...」と言われたから。藝大の大学院もそうです。
ーミニシアターという言葉がキラキラしていた時代を、今の学生達に、どう伝えたらよいものか......。
当時、海外のミニシアターに作品が紹介されていた監督たちは、映画専門というよりは建築家だったり、写真家だったり、異分野から映画の世界に入って来ていました。そういう人たちは結構アーティスティックな作品を撮っていて。80年代から90年代までは、そういう非常に感覚的なものが受け入れられる時代だったんですよね。その頃の言葉でいうと“アートコンシャス”っていう単語を使ってたんだけど。メープルソープ(Robert Mapplethorpe)の写真展があれば、それに、わーっと行ってね。勅使河原三郎のコンテンポラリーダンス公演をやっていれば、だーっと行って。映画やアートといったジャンルにとらわれずに、回遊魚のように、知的好奇心で動きまわる人種が、東京に10万人ぐらいいたと思う。
それが21世紀になって居なくなっちゃった。ネットで細分化されて。僕らはそういう、すごい最先端の人たちを相手にしていたつもりが、いつの間にか年配の人だけになっちゃった。そういう人種がほとんど死に絶えた。あらゆる事に興味を持って、今これを知っとかないとまずい!みたいな、ある種の強迫観念自体が無くなっちゃったんですよ。ネットなら、いつでも、後からでも見られるし。みんな蛸壺に入ってしまった。それと連動して語り合うことが無くなったよね。今、議論しないじゃないですか。でも、ひとりで見て感じられることって、そんなに多くない。やっぱり自分とは違う人間と意見を交わす中で、新しい視点が生まれてくるじゃない?
他人と意見交換することを、議論じゃなくて、闘いって受け止めちゃったら、もったいないよね。人の見方を聞くだけで成長していけるんだから。人の意見を「そうじゃない!自分はこう思う!」って伝えるためには、自分も理論武装しなきゃいけないでしょ? そうやって鍛えられる。昔は、自分が見たり知りもしないのに「お前、あれ見てないのかよ!」とか言う、信じられないやつがいたわけ。前から読んで知っているようなことを翌日言うわけ(笑)。今はそういう競争心というか、いい意味で人と競うことが少ないね。
ー戦うことを極度に恐れるというのは分かります。戦いではないんですけれどね。堀越さんは今年の4月から、新潟にある開志専門職大学のアニメ・マンガ学部で教えていらっしゃるんですよね。そこで教える中で、一番大切にしていることは何ですか?
普通の子が普通に生きてたら、絶対に出会うことはないだろうなってえいぞうだけは、しっかりと見せてるっていう感じ。ビデオも出てない映画とか。すごい衝撃的な、前衛的なものもあったりする。変な映画とかね(笑)。あと古典を知らないとね。歌舞伎とか人形浄瑠璃とか浪曲とか。そういったもののストーリーは最低限知らないとまずいんじゃないですか。原典なんだから。日本人にとってのシェークスピアだからね。最低限、どういう話なのかを知っておく必要がある。そのあとはグループワークで物語を作らせたり、キャラクターを作らせたり。漫画とかアニメだって、作品の7割は物語なんだから、絵が上手なだけではね。物語をどう作れるか、世界観をどう作れるかというのが大切で、それには社会経験が必要だからね。
ー「日本の教育には哲学が足りない!」という意見があって。例えばフランス人だったら、本当に小さな時から哲学を学んで、必然的に人と対話しますよね?
何せ、彼らは恋という哲学ばっかりしてるからね。それはやっぱり早道ですよ。いろいろ考えるから。恋愛しなきゃ、そんなに人のこと考えないですよ。自分も傷つかないし。やっぱりその経験というのは、フランス人はすごいです。
ー確かに(笑)。あと古典を知っておくことは、どの分野でも本当に必要で、それはファッションでも同じと感じます。
こういうものが古典でありますよ、というより、それを類型化して見せて、近松 門左衛門のこの作品は、現代の話になるとこれねっていう風に分かりやすく伝えます。物語の構造は一緒なんだから。その構造を教えたあとに、類似した話をつくってみせたり。ハリウッド作品のクラシックな脚本の原則は、15分ごとに問題が起きるっていうもの。それをどういうふうに解いて行くかという話なのです。そういう構造を知る必要がある。序破急(じょはきゅう)でも起承転結でもいいんだけど、そういう構造とか、物の見方をパンと捉える力を持たせるんですよ。その訓練を学校の中でやらせていく。
やっぱり若いときは自分だってそうだったけど、古いものって興味なかったでしょ?それをどういう風に引き出してあげるかを考える。でも、ファッションもそうだろうけど、入学したらプロだからね。漫画家のプロ、アニメのプロ、ファッションのプロだからね。その点をすごく意識させないといけない。つまりプロなんだから、アニメを観て、これ面白いとかつまんないねとか言うだけじゃダメなんだよ。なぜ面白いのか、なぜつまらないのか、プロは理由がなければダメ。必ず理由を考える。間違ってもいいから考える。そうじゃないと飲み屋の会話になっちゃうでしょう?それはアマチュアがやることで、我々はプロだから。自分はどこがつまらなくて、どこが良かったっていう理由を考えているうちに、だんだん分析ができるようになる。それがプロのレベルであって、とても重要なことだからって話をするんです。
「とにかくレオスは天才ですよ。最初に会ったのは、彼が23歳ぐらいだからね。あの頃は絵に描いたように生意気な感じが良かった。すごい嫌われてて。」
ー旧知の仲のレオス・カラックス監督の8年ぶりの映画『アネット(Annette)』の話も聞かせてください。主演男優はアダム・ドライバーで、音楽とオリジナルストーリーがスパークス(Sparks)というのも意外でしたが、それがミュージカル作品というのも驚きでした。俳優達は演技をしながら毎回歌い続けたと聞きました。堀越さんはこの映画のプロデューサーもされています。
レオスは、どんどん凡人には分からない映画を作るようになってるんだけど(笑)。天才って絶対同じものを作りたくないんだよね。レオスは難しいですよ。読み解こうと思えば、いろいろに読み解けるから。今回の『アネット』でも、カラックス独特の映像感覚が出ている。昔から彼の映画を観た人は、みんなストーリーを覚えていない。なぜかと言うと映像の力に圧倒されて物語のディテールが記憶に残りにくいから。大好きとか言ってもストーリーを言えない。『汚れた血』で主人公を演じるドニ・ラヴァン(Denis Lavant)が、ラジオから聴こえてくるデヴィッド・ボウイの曲に合わせてパリの街を疾走するシーンがあるんだけど、ドニが踊る身体性を捉えるレオスの眼は凄い。レオスはあの作品を、22、23歳で作ったんだよ。凄くない? 初めて見たときはゾクッとした。ああいう映像は彼しか撮れない。ファンはそういうレオスらしい映像のサインを見つけて喜んでるの。それだけあればいいの。
ー確かにレオス監督の作品は、登場人物に感情移入するとか、そういう感じじゃなくて、ただひたすら、この美しい映像を観ていたいっていう気持ちに近いかもしれません。
「危ない!危ない!感情移入させるとこだった」みたいなぎりぎりの演出、独特な距離感をレオスはキープしているんです。大衆的に成功したと言われる監督は皆、感情移入させる方向に行くわけです。でもレオスはしないし、できない。監督ってのは大げさに言えば、そうやって成功して嬉しい人と、映画史に残りたい人の2通りがいて。成功した人は映画史にはあんまり残らないから。僕ら、映画の中に生きる者が考える映画史だけどね。でも人間には欲があるから、どの監督もみんな両方欲しいの。でもレオスはもう、名声なんて完全にそっちのけなんです。映画史に残るかどうかって、何かを壊さなきゃいけない。壊さなければ映画史には残らない。
ー堀越さんが考えるレオス監督の魅力っていうのは、人に好かれたいけど、そこのところを狙おうと思っても狙えないみたいなところですか? 自分に嘘がつけなくて、どうにも自己中心的だったり。
そういう天才の持ってる傲慢さも含めて惹かれているんだよね。今回の『アネット』は、親と子供の関係性についての物語でもあるんだけれど、映画にはレオスと娘のナスティアも少しだけ出てきます。レオスはナスティアのことを本当に可愛がっていて。来日したときは、東急ハンズでナスティアのために1日がかりで品物を選んだりしていた。僕もその姿は本当に意外で、驚いたけれど。
ー今回の『アネット』に関しては、元からのレオス監督ファンは絶対見るでしょうし、これをきっかけに、新しいファンができるんじゃないでしょうか?
やさしい映画ではないけれど、ただ彼しか出来ない表現というのがある。だから逆に言うと、マイナー好きな人は、彼の魅力にはまるんだよね。『汚れた血』とか『ポンヌフの恋人』を見たことのある、昔からのファンなら、尚更だろうね。とにかくレオスは天才ですよ。でも実はそういう困った人は、彼だけじゃないんです。他にもいましたよ。
ーヴィム・ヴェンダース監督が山本耀司さんのコレクションを追った『都市とモードのビデオノート』というドキュメンタリーがあります。耀司さんがまだ40代で、若くて。映像もわざと粒子を粗くしたりして、カッコいいんです。今見ても全然古くない。
彼はさ、成功してからも『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』みたいに、そういうドキュメンタリーの世界とか、小さいところに時々戻って来るところが、すっごい魅力的だったの。有名になったら、もう大きい映画しかつくらないんじゃなくて、小さなドキュメンタリーにも向き合う姿勢がある。彼はそういうところがとてもスマートだね。
ー確かに、洗練されていますね。『パリ、テキサス』とかを見ていても。
『パリ、テキサス』ってのは相当商業的な、僕らから言わせれば、商業狙いの映画なんだけど。ヴェンダースは、アメリカかぶれのドイツ青年でね。ドイツ人はヴェンダースよりも、ドイツやヨーロッパのことを真剣に考えた天才、ファスビンダーを尊敬している。だから『パリ、テキサス』はドイツではそんなに評判が良くなかったんです。でも、フランス人は、すごく好きで人気だった。
ー「映画もファッションと同じく、流行があるからね」なんて、耀司さんにさらっと言ってて。大人だなと思いました。それに比べたら、レオス・カラックス監督は、変わらず、やんちゃ坊主ですね。
自分のためにしか映画を作ってないからね。誰がどう思うとか興味ないんだもん。
ー堀越さんの中で、レオス・カラックス監督と最初に会った時のイメージは、今も変わらないですか?
最初に会ったのは、彼が23歳ぐらいだからね。あの頃は絵に描いたように生意気な感じが良かった。すごい嫌われてて。フランスではいまだに嫌われてるけど。すごいですよ、みんな彼に対して攻撃的で。この間も、記者会見の途中で「トイレ行ってくる」って言って、戻って来なかったからね。そんなことばっかりやってる。
ー日本人はなぜこんなにレオス監督のことを好きなんですかね?
日本人が1番好きかもしれないね。
ーなんで好きなんだろう? 理由は、なんか分からないんですよね。ただ、すごく心に残る。『アネット』を観ても「ここに、ずっと変わらないレオス・カラックスがいた!」って感じました。
情緒的なものではないんだよね。ただ、ある種のカルチャーヒーローだったでしょ? あの時のあの感じっていうのをみんな忘れられない。その強烈な記憶が忘れられないんですよね。今ちょうどその世代が50歳ぐらいで。その世代にカラックスっていうと、みんな目の色が変わる。『ポンヌフの恋人』の時に、彼らが20代で受けた衝撃っていうのは、たぶん、どの映画にもなかったんじゃないかな。
監督たちって誰もそうなんだけど、批評家とか、インタビュアーのことを好きな人って意外といないのね。それで、やっぱりみんな観客と会いたがるわけですよ。自分のファンなんだもん。気持ちいいに決まってるよね。レオスが初来日のとき、取材だけで終わらないで、ひと目でも観客と会わせてやろうと思って仕込んだんです。そうしたら、もう大騒ぎになってしまって。上映の前日の30時間前から観客がスペイン坂に並び始めた。12月の夜中にですよ。500人ぐらいが、カラックスに会うために一晩越したんだから。でも、危ないっていうのでできるだけ帰したりしたんだけど。やっとその時間になってさ、上映後にカラックスが壇上に出て来た時に、多分それだけで50人ぐらいがボロ泣きしたんだ。そういう圧倒的なものがカラックスにはある。
ー海外の監督と比較すると、日本の監督の特徴っていうのは何ですか?
日本人は分かりにくいんですよ、繊細さの方に行っちゃうから。理論じゃなくて、気持ちのやりとりで演出してるから。小津だったらまだ分かる。抽象的だから。今の若い子たちは、言葉のちょっとした感性の触れ合いとかで表現する。それじゃあ外国人は分からないよ。昔の日本の監督は、そういった繊細さじゃなくて、洗練の方に行こうとしたわけ。あるいは耽美的な方に行ったり、様式美の方に行くとか。チャンバラなんかは様式美だよね。でも今は様式美の時代じゃないし、耽美も流行らない。そうすると日本映画ってひたすら繊細さの方に行っちゃって、映画にしたときに分かりにくいのよ。もっと映像で説明していかないと。でも日本映画の自由さって、世界的にみても貴重なの。さっき言ったみたいに、ハリウッドが15分ごとに問題を起こしてそれを解決していくなんてことは気にしていない。それを全部無視しているのが、日本映画だから。知的レベルは高いんです。でもだからといって優しさの方に行っちゃうと、観客は置いてきぼりになってしまう。
「これからは、一般的なコスプレの世界のためにあるようなアニメに力を入れるよりは、もっとアーティスティックな方向性を目指して行った方が、逆にマーケットが長く続くっていうことを、みんな、最近やっと気づいた。」
ー今は、若い人は特に、ネットで映画を観る時代ですよね?
大学で教えていても、韓国や中国の学生達は映画やアニメ、マンガなんかも、熱心にネットで情報を集めていて、作品の細部までよく観ていて、本当にびっくりするほど。この流れは止められないでしょうね。
特に今、アニメは転換期だと思います。売上が毎年約20%増なんですよ。欧米ではアニメといったら子供向けのものであって、高校生で漫画を読んだり、アニメを見ていたらバカにされるわけです。でも日本のアニメやマンガは大人も読める。つまり日本人の考えるアニメと海外の人が考えるアニメはマーケットが全然違ってて、そこは日本のアニメにとって、とても理想的な状況だと思います。
おそらくファッションと同じで、日本のアニメ界では、恐るべきクレイジーなやつが、凄いものを作ってるんです。押井守さんや大友克洋さんといった、とんでもない世界観を盛り込んでアニメを作る人が存在している。押井さんは絵を描かないけど、宮崎さんは漫画描いてるでしょ。日本のアニメは漫画からすごく影響を受けていて、それが海外と全然違う。原作もたくさんある。ファンタジーものなんて全部原作は漫画じゃないですか。そこで独特な世界観を持った人が塊のようにいる。新海誠だって、3年かけて15分とか、どマイナーなアートアニメーションを作ってたのに、あんなになっちゃうんだから。
そして今は、ネットフリックスの時代。アニメって1本20億ぐらいの制作費なんですけど、ネットフリックスで公開すれば、その金額が前金でもらえちゃうわけです。だから今やアニメーターは、月収100万円なんていう人もいるんです。ここ2年で給料が倍になった。ブラックな業界だなんて、過去の話なんです。でもやっぱり日本の技術はすごいから、海外の人は日本で勉強をしたいわけです。そうなると、今まで日本人向けに作っていたものを外国に売るという時代は終わって、これからは、最初からグローバルな作品を作ることになる。
ー本当に、それはファッションの世界も一緒だと思います。グローバルな視野で顧客を捉えて、それに向けてデザインしていかなければいけなくなっています。堀越さんによって、アニメの世界の新たな世界が開かれそうな予感がします。
そうすると外国人留学生を学生として受け入れるんじゃなくて、そういうグローバルセンスを持った人間として、彼らを受け入れて、そこで新たな作品世界を作れればいいんですよね。例えば、ハリウッドだってアメリカ人が作ったわけじゃないからね。みんな勘違いしてるけど、あれはドイツから亡命したユダヤ系ドイツ人監督たちが、優れた技術を持ったアメリカ人スタッフと作ったんだから。これから日本は、ハリウッドのように外国人留学生と共存して、新たな日本アニメを発想をしていかないといけない。日本人にありがちな、物事を研ぎ澄ますことばかりに集中すると、そういう全体感を見失ってしまう。
現状では、大人のためのアニメの世界っていうのが、完全に空白のマーケットなんです。これからは、一般的なコスプレの世界のためにあるようなアニメに力を入れるよりは、もっとアーティスティックな方向性を目指して行った方が、逆にマーケットが長く続くっていうことを、みんな、最近やっと気づいた。今までそういうアーティスティックな作風の人たちって、お金が無いから、自分が思うようには作品を作れなくて。せいぜい15分とかの短編で勝負していたんですよ。そういう人達が、長編を撮る時代が来ちゃうかもしれない。そんな予感がします。
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