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【TOP INTERVIEW: EDSTRÖM OFFICE代表 エドストローム淑子】パリ、マルジェラ、パープル。すべては繋がっている

国内外、約20ブランドを抱えるエドストロームオフィスの代表兼ディレクター、エドストローム淑子さんが今回のゲストです。留学先のパリでマルタン・マルジェラと出会い、ブランドのチームに加わったことから始まる物語には、多くの学びと気づきがあり、「すべては繋がっている」と淑子さんは語ります。5月に引っ越したばかりという恵比寿のオフィスにて、お話を伺いました。

「高校を卒業して、京都から東京に引っ越して来るっていうのが、私の中では大きな出来事でした。それと同じ感覚で、パリに行ってみてもいいのかな?というくらいの軽い気持ちだったんです」

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ーとても普通ですけれど、パリに行こうと思ったきっかけからスタートしてもよろしいですか?

すごくシンプルで、エスモードジャポン(以下、エスモード)出身なのですが、途中からパリにも行けるよっていう話があったんです。

ーではパリの前に、エスモードに行こうと思った理由は何だったのですか?

小さい頃から、服やデザインに興味がありました。私がエスモードに入った頃は、日本校ができてそんなに時間が経っていなかったと思います。それで日本校開校を積極的にPRされていました。それを見て、なんだか楽しそうだなと思いました。日本は、校則とかルールがいっぱいあると感じていて、エスモードに行けば、その先に違う何かがある予感がしたのかもしれないですね、今から思えば。何かに囚われたくない気持ちがあったというか。だから、ちょっと積極的に自分から動いていかないとだめだなと思った先に、エスモードという選択肢があったのかもしれないです。

ー日本のエスモードには何年いらしたんですか?

数ヶ月間です。フランス人、韓国人、日本人の先生に習いました。

ーご出身は京都ですよね?

京都です。高校を卒業して、京都から東京に引っ越して来るっていうのが、私の中では大きな出来事でした。それで、エスモードに入学したら「パリに行けますよ」という話が学校からあって。もうすでに東京に引っ越しちゃってるし、それと同じ感覚で、パリに行ってみてもいいのかな?というくらいの軽い気持ちでした。語学は英語もフランス語も全く出来なくて。なのになぜか、案外いけるんじゃないかと思ってました。

ー本当ですか!? 用意周到に行かれたんだと思っていました。すごい度胸ですね。

私がおかしかったんだと思います。あまりおすすめしないです(笑)。やっぱりある程度、語学は出来た方がいいんじゃないかなと思います。

「マルタンは共通の友人を介して知り合いました。ある時、ファッションウィークが始まるし、忙しいからと、2週間くらいアトリエのお手伝いに行くことになった、それがスタートです。その後結局、20年くらいいました」


ーパリに着いて、どんな感じでしたか?

もう本当に、無我夢中ってこういうことなんだろうなっていう感じでしたね。朝から晩まで一日中、学校にいたので。東京のカリキュラムとほぼ似たような内容だったので、言葉が分からなくても、やらなきゃならないことは何となしに分かって。ついていけたのは不幸中の幸い(笑)。デザインとパターンメイキングの授業を受けていました。

ー学校は何年くらいいかれたんですか?

そこで3年近く学んで、卒業しました。

ー日本からの留学生は結構多かったのですか?

その当時は多かったですね。

ー淑子さんがパリに居続けられた理由って、何でしょうか?

今もそうですけど、いろんなことに興味津々。もっと知りたいというか。それがどんどん積み重なっていって、そのまま今に至るみたいな感じです。

ー学校以外での生活はどんな感じでしたか?

出歩く時間がほとんど無かったというか。毎日毎日、課題にすごく追われていたので。それをこなすのに必死でしたね。ただその頃すごく楽しめていたと思うのは、映画を見に行くということ。

ー卒業された後の就職先が、メゾン・マルタン・マルジェラ(Maison Martin Margiera)だったのですか?

マルタンは共通の友人を介して知り合いました。最初は友達という感じで過ごしていたんです。ある時、ファッションウィークが始まるし、忙しいからと、2週間くらいアトリエのお手伝いに行くことになった、それがスタートです。その後結局、20年くらいいました(笑)。

ーマルジェラはすでにブランドを立ち上げていたんですね。となると、まだアトリエも少人数で楽しそうですね。

フランスでは、スタージュというインターンシップを国の仕組みとして全員、絶対に経験しないと社員になれない。仕事のポジションすらも得られません。これは職種に関係なく。マルジェラのアトリエにも、常にインターン生が沢山いました。でもスタジオの中で社員として働いている人たちは、マルタン本人を含めて、多分7、8人だったと思います。

ーマルジェラ自身の声と言葉で語られた映画が、9月中旬に日本公開になりますよね。先日試写を拝見しましたが、社員の集合写真がファミリーのようでした。仕事の分担などはあったのですか?

今から思えば、誰が何をするといった分担はあったような、なかったような。どのようなことにもマルタンも加わって、全員で何でもするという。全員が何でも出来ちゃうから、本当に間に合いそうにない仕事があったら、全員で一緒に作業して、何が何でも間に合わせるとか。私は最初に仕事をしたところがマルジェラだったので、逆に何の違和感もなく、その状況を受け入れ楽しんでいました。メディアへの対応とか、カタログの編集作業といった細かいことまで、必ずマルタン本人も一緒に作る。「全てが作品である」とマルタンは思っていたのだと思います。その中全員で仕事に取り組める環境は特別でした。セールスのためのショールームを開く時も、マルタン本人が先頭に立って指揮して、バイヤーの方々の接客、オーダーを取るのも。もう本当に隅から隅まで、全てをクリエイトするっていう素晴らしさみたいなことを、日々、目の当たりにしていました。

ー素晴らしい経験ですね。

毎日フル回転で、すごい量をこなしていました。でも仕事自体が嫌になることは全くなかったです。

「大袈裟な言い方すると、マルタンはほつれて出てくる糸一本も全部大切に箱にしまっておくのです。そのくらい、一切何も捨てない。そしてある時、それらの箱からばーっと素材が出され、これとこれを組み合わせ、ここは引いて、といった話が起こります。」


ー古着を解体して再構築するというアーティザナルのラインを担当されていましたよね?

レディ・トゥ・ウェアは全部イタリアでの生産でしたから、パリのアトリエ(アトリエ・アーティザナル)は、半分オートクチュール的に作られる「アーティザナルライン」(1990~)やアクセサリーなどを作っていました。「レプリカ」っていうレーベル(1994-95秋冬~)も手作りで作ってました。タグも、みんなで一つ一つハンコで押したりして。蛇腹のルックブックも全部手作りでした。結構色んなものが手作りでした。

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(上)A magazine curated by Maison Martin Margiela
(中)Maison Martin Margiela: 20 Years The Exhibition
(下)Maison Martin Margiela 2012春夏ルックブック

ー映画では、素材探しのために、スタッフみんなで蚤の市にも行ったと言ってました。軍の靴下やレザーのベルトを素材としたアイテムがありましたよね?

そうですね、蚤の市に行ったりもしました。大袈裟な言い方すると、マルタンはほつれて出てくる糸一本も全部大切に箱にしまっておくのです。そのくらい、一切何も捨てない。そしてある時、それらの箱からばーっと素材が出され、これとこれを組み合わせ、ここは引いて、といった話が起こります。

ーアーティザナルの考え方自体が、すでにサステナブルに繋がっていると思っていましたが、徹底していますね。そうして話があったあとは、ある程度、各人の手に委ねられるというわけですね。

まずはマルタンがドラフトを作る。それをベースに各人で取り組み、マルタンと確認しながら最終形を作っていく。

ーとてつもなく、楽しそうですね。

とても楽しいです。と同時に私にとっては難しくもありました。日本の教育で育った私はどうしても限られた範囲の中で物事を考えるっていう癖がついていたのだと思います。アトリエでの毎日の作業は、その限られた範囲の中から飛び出すクリエーションの連続でした。でもそうして、瞬時のインスピレーションを生かすというやり方は、マルタンに物凄く才能とセンスがあるから出来ることですよね。テクニック的には実現できても、それが完成すれば良いというわけではないです。そのバランス感みたいなところは、すごく影響を受けたと思います。

ー具体的には、いつのシーズンから参加されていたのですか?

私が参加したのは、閉鎖されている地下鉄の駅でショーをした、1992春夏コレクションからです。

「常にマルタンのビジョンはすごく明確だったと思います。目標があり、その目標に対して、じゃあこれはどうだろう、こうしてみよう、と自分の頭の中で見えている組み立てがあったのだと思います」


ー一般の人をモデルに使うというのもマルジェラが初めてしたことですよね?

それも私たちは特別なこととは思っていなくて。常にストリートキャスティングでした。みんなで手分けして、人が集まりそうなところに出没して、声をかけてといったことを、ごく自然にしていました。

ーモデル選びのポイントみたいなのはあったのでしょうか?

特別な指示を受けたことは無くて、でも言わずと知れた選択の基準があった気がします。声をかけて連絡先を聞いて、フィッティングに来てもらって。そこで話が成立すればお願いするといった感じでしたね。

―以前アントワープに取材に行った人が、ドリス・ヴァン・ノッテン(Dries Van Noten)を始めとするクリエイター達が「答えは全て自分の中にある」と言っていて、それが忘れられないと聞いたことがあります。マルジェラもそれに近いことを映画の中で言ってますよね。だから自身のルーツみたいなことを、マルジェラも意識的に掘り下げながらクリエーションをしていたのかなって思ったんですが。淑子さんは一緒にお仕事されていて、そういう面を感じることはありましたか?

常にビジョンはすごく明確だったと思います。目標があり、その目標に対して、じゃあこれはどうだろう、こうしてみよう、と自分の頭の中ですでに組み立てはあったのだと思います。どのようなことに対しても。たとえばショールームの作り方ひとつとっても、その目標を達成するためには、椅子での並べ方はこうでとか、ペンはこれを使うとか。結局全ては繋がっていますね。一つ一つの作品に対しての完成度はもちろんですが、それらを取り巻く全てで表現する。メディアの露出もお取引先での商品の並び方、トータルのビジョンがとてもクリアーでした。

ー世界中の店舗の内装も全部違うと聞きました。マルジェラ本人が全部チェックされていたんですか?

していました。そして全ては一方通行ではないのだと思います。つまり彼の自己満足のためにはやっていないというか。ショップをオープンしようと思ったら、その場所にローカライズさせるために、自分のクリエイションとどのようにバランスをとって表現することが出来るのかっていうことも含めて、楽しんでいたと思います。たとえばブリュッセルなら、ブリュッセルが持つ文化や街並み、建築物に対しての観察と考察がベースにあって。だから、それぞれの場所で自ずとショップの形態が違ってくる。でも根底にあるのは、そこにあるものを楽しみ、リスペクトする気持ちなのだと思います。

ー国内だと、大分市にあるセレクトショップのチャペル(chapel)が、日本にマルジェラのお店が出来る前から取り扱っていたと聞きます。

チャペルもそうですし、宮城県・仙台のリヴォルーション(ReVoLuTioN)、東京ではバーニーズ(Barneys)。日本語を話す人が他にいなかったこともあり、日本の案件は必然的に私が担当していました。メディアもコマーシャルも、全て。

ー青木正一さんが手掛けた、『STREET』の別冊で出ているマルジェラの特別号がありますよね? あの本も、もしかして淑子さんがかかわっていたのですか? 

そうです。あの本の日本語は全て私が書きました。

青木正一氏によるストリートスナップ誌『STREET』の別冊でまとめられたマルジェラ特別号。デビュー時の1989年SSからカレンダータグの生まれた(メンズなどのラインが登場した)1999SSまで、ほぼ90年代のコレクションを本人の撮影を含む当時の写真で紹介している。 

ー凄い!デビュー当初を含めた90年代のマルジェラのコレクションや雰囲気を濃厚に感じる1冊ですが、結構な仕事量ですよね?

そのおかげで編集の作業が一通り出来るようになりました(笑)。

ー仕事は全部繋がっていて、一部分では完結しないということを理解しているからこそ、そういう仕事にも自然体で向き合うことができるんですね。自分の可能性がどんどん開かれていく感じでしょうか?

このエドストロームオフィスも「何をされてるんですか?」と、活動内容をよく聞かれます。でも、私の中では、PRです、セールスですと括りにくいというのが本音です。それぞれのブランドが、日本のマーケットで、どのように成長すれば彼らが目指しているところに健全にたどり着くのか。その戦略を一緒に立てて、その内のひとつがPRだったり、セールスだったり、もしかしたらイベントかもしれない。お食事会を開いてシェフとコラボレーションしたり、本当に様々です。現在、22ブランドのリプリゼンタティブをしています。どのブランドとも、コミニュケーションは活発です。お互いすごくエネルギーを使いますが、お互いがリスペクト出来る関係性が築け、みんなで目標に向かう、とても特別な環境だと思っています。

「あの時代だったから『パープル』が生まれたというよりも、エレンやオリヴィエも含めた、彼らが思ってることを素直に表現したら、これでしたという感覚なんじゃないかなって思います」


ー先ほど、マルジェラに20年間いたとおっしゃっていました。マルジェラがブランドを去ってしまう時までいらっしゃったんですか?

私は留学してからパリに8年くらい、その後、ロンドンに8年、そして日本に帰国しました。帰国後もマルジェラの仕事を続け、20年のリレーションでした。たまたまマルタン本人が去る時期と同じタイミングでした。
パリを離れる時には、フリーランスとなり、『パープル(PURPLE)』という雑誌媒体の立ち上げにも携わりました。それがきっかけとなりスタイリスト、メディアにかかわる仕事をスタートしました。

ーエレン・フライス(Elein Fleiss)とオリヴィエ・ザム(Olivier Zahm)が手掛けた、『パープル』の立ち上げにも関わっていらしたんですね。『パープル』もマルジェラ同様、どこにも属さない、それまでに見たことの無い、自由を感じる雑誌でした。どういうところから参加することになったのですか?

それも同じく友達付き合いから何となくエレンやオリヴィエと知り合ったのが始まりです。

ー『パープル』が創刊されたことで「とても個人的な気持ちや興味から雑誌を作ってもいいんだ」、という解釈が生まれたように思うんですが。近くにいた淑子さんから見て、あの時代に『パープル』が出現した意味というか、理由は何だったと思われますか?

彼らフランス人は、みんな自分の意見、意思が明確です。常に周囲にいる家族、友人、同僚、たまたまカフェで隣に居合わせた初対面の人含め、みんなと話す、カンバセーションを楽しみます。大人は仕事が終わる頃、17時くらいになると、一刻も早くアペリティフに行きたくてみんなソワソワして。家にたどり着くまでに、まずはカフェでみんなで1杯飲みながら、さまざまな話をします。フランスは毎週水曜日に映画の新作が発表され、その日は夕方になると映画館の前に行列が出来、新作を観ます。次の日の朝、パンを買いに行くと、パン屋のおじちゃん達が「昨日のあの新作ね」って話かけてくるのです。誰しもが各々の感想を話し合う。なので、あの時代だったから『パープル』が生まれたというよりも、エレンやオリヴィエ、彼らが思ってることを素直に表現したら、『パープル』が出来ましたっていう感覚なのではと思います。もちろん運営上の苦労はいっぱいしてますが、彼らクリエイションに対しての表現が尽きることはないと感じます。苦しければ苦しいっていうことを表現しているようにも思います、別に取り繕わない。だからこそ伝わるんだと思います。

どの企業も同じかもしれないけれど、絶対こうじゃなきゃいけないっていうのは、本来はないのかもしれません。どのような形であっても素晴らしいもの、自分も納得ができて世の中に対しても健全で良いことができれば、それが組織上どういう仕組みであってもいいと思っています。私は日本が大好きで、日本の素晴らしさ、日本本来のオリジナルを尊重、大切にした上でこれからもいろいろ表現できたらいいなと常々思っています。

「ブランドのサイズ感は関係なく、表現できる幸せは特別です。言い訳なしで、体当たりで向かい合う。自分を信じてやるしかない。自分のデザインやクリエイションを最優先に置くのはとてつもなく難しいことです。それでも本当に大切なのは、言い訳なしで表現できる幸せを楽しむことだと思います。」


ーサポートしたいと思うブランドとの出会いは、どういう形で実現するんですか? 

色々な形で人とお会いする機会があり、お互い話をしていると一緒に取り組んでみようと、双方から思える、感じることができるのが一番大切。

ー人と接する時に気を付けていることはありますか?

やはり、常に興味津々なのでどの場面でもその時、その時を楽しみたいと思っています。

ー淑子さんがこういう人と一緒に働いてみたいなって思う人はどんな感じの人なんでしょう。

私自身がそうであるように、いろんなことに興味を持ってる人はいいなって思います。例えば、私はスポーツにも興味あり、特にテニス、ゴルフ、スキー、サーフ、スケートボード、サッカーなどなどさまざまなカテゴリーのスポーツが好きです。選手たちがコートやコースで見せる瞬時の判断とリスクの取り方には毎回学ぶことがいっぱいです。スポーツは一例ですが、このように全く関係のない分野からでもいろんな話ができたりする人たちとご一緒できるのはとても楽しいですね。ちなみにどのスポーツも私自身は観戦者です(笑)。

ー淑子さんがスタイリストとして仕事をするときは、どういう気持ちで服を選ばれますか?

まずはそのシチュエーション、仕上がりのビジョンを頭の中に描きます。そして被写体となられる方々のフィーリングに、極力自然とマッチする形を選びます。

ー日本のファッション誌はスタイリスト主導で、雑誌によっては毎月ページを持っている場合もありますね。他国とはだいぶ状況が違います。

その日本のコンディションも面白いし、素晴らしいと思います。だから世界的に見ても日本の雑誌の位置付けは独特ですね。これは別の視点ですが今やプリンティングメディアがこれだけ残っているのは日本だけかもしれません。それだけに日本の役割は重要だと思います。

ー日本には小さなサイズのブランドが沢山ありますが、彼らに対してのアドバイスは何かありますか?

ブランドのサイズ感は関係なく、表現できる幸せは特別です。言い訳なしで、体当たりで向かい合う。自分を信じてやるしかないです。自分のデザインやクリエーションを最優先に置くのはとてつもなく難しいことです。それでも本当に大切なのは、言い訳なしで表現できる幸せを楽しむことだと思います。

ースクワット(SKWAT)というチーム名で、活動されていますけど、その出会いは?

SKWATは、ダイケイミルズ(daikei milles)の中村圭祐さんと、トゥエルブブックス(twelvebooks)の濱中敦史さん、Edstrom Officeのエドストローム淑子の3人の会社です。原宿に在ったヴァカント(VACANT)の時代から濱中さんとは交流があり、今回表参道で新たなアクションを起こすということでそちらを拝見した際、瞬時に3社で取り組もうと進みました。

ー現在スクワットがある表参道の1階では、エドストロームオフィスで扱っているルメール(LEMAIRE)の日本初の直営店もありますよね?

ルメールは日本での出店を長年考えていました。そしてdaikei millesの中村さんは個人的に昔からルメールを楽しまれていて、今回スクワットとルメールを一緒にしたら素敵なことになると、これまた瞬時に思いがまとまりました。中村さんがルメールにプレゼンテーションをして、そこからはトントン拍子でしたね。すごいスピード感で、一気に進行しました。現在弊社で扱ってるブランドは、ほぼすべてがサステナブルなSDGsの考えを何かしらの形で反映しています。ルメールももちろんそうです。それらの考え方の一つとして、空間や建物自体をどのようにサステナブルで表現できるかを、ルメールと話し合っていた時、「古民家からの支柱を再利用する」そしてそれには釘一本使わず、日本古来の組み木という手法で、今後どこに移動させても永遠にデザインを変え、使っていける、全くゴミを出さないという方向性でまとまりました。でも、プライオリティーは美しさ。サスティナブルですが主語はその場に一歩入れば一瞬で魅せられる美しさがある。このバランス感を実現できたことも素晴らしいと思います。

ルメール本人たちはまだ一度もショップを見ていません、自粛中にオープンしたので。デジタル上でしか見ていないけど、本人たちもとても気に入っています。これからスクワットも、色々な形で活動をしていきます。10月の初旬くらいからは京都の四条烏丸にある『COCON KARASUMA:古今烏丸』という、スペースで新たな企画を始めます。とても楽しみです。

ー固定概念を破る美しさや表現の自由を感じられる出来事がたくさん生まれてきそうですね。

いろんな形でいろんなコラボレーションの仕方があると思っています。職種は全く関係なく、どういった背景からでもいろんな取り組み方でますます素晴らしい活動はできるでしょうね。私自身も楽しみで仕方ありません!

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エドストローム淑子 YOSHIKO EDSTRÖM
京都生まれ。20歳のときに渡仏。日本とパリのエスモードを経て、マルタン・マルジェラのクリエーションチームに合流。ブランドの黎明期から約20年の時間を共に歩んだ。帰国後、2009年にエドストローム オフィスを立ち上げ、様々なブランドのPRからセールス、イベントまで、幅広く手掛ける。

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