見出し画像

9月24日のマザコン1

2020年9月24日、その日の私は、まだ明日も、明後日も来月も来年もその先も……うまくすれば永遠に、今日と同じような、自由で普通の日々が続くものだと思っていた。
いや、思ってもいなかったかもしれない。
だって明日が今日と同じような普通の1日であろうことなどあまりに当たり前すぎて、「明日はどんな日になるだろう」なんてことは、平凡な日々の中では考える暇もないからだ。

実際は、私の東京生活……何十年もかけて積み上げてきた自分の居場所での人生は、この日で終わろうとしていたのに。

…………これからしばらく続くこの一連の記事・日記は、読んでいて非常に憂鬱な気分になる話だし、自分自身もすべての記憶を抹消したいくらい(今も進行形のトラブルなので1日終わるごとにその日の記憶を消しながら暮らして行きたいくらい)書いていても辛い内容なのだが、ただ私の友人知人・読者・リスナーのみなさんの中にも、いつか似たような苦境に陥る人が必ず現れると思う。
だから私がこの人生最悪……正確には7年ぶりに直面した人生2度目の最悪……の出来事を、正直な感情や苦しみや後悔やどうしてうちはこれを防げなかったのか、そういうことを交えて書いておくことで、私と同じ苦難に直面しうる未来の誰かを少しでも助けられるかもしれない。
そんなわずかな期待と使命感を込めて、9月からうちの家族に起こっている事態を、家の恥をさらしながら書けるだけ書いてみたい。
どうにも救いのない内容で、いつもの私の文体や表現を求める読者の方の期待にはまったく応えられないが、暗い話にも耐えられる精神状態の方は、いつかの不測の事態に備える避難訓練のつもりで読んでみて欲しいと思う。

※お願い
私の本名を知っていて、特に、私と近い関係にある人にはこの日記は読んで欲しくないです。私と近い関係の人たちは、読まないでください。お願いします。


……………………

9月24日、木曜の午後。

その日の私のスケジュールは、「特にこれといった予定もなく、いつもと変わらぬルーチンな1日を過ごす」というスケジュールであった。
いつも通り遅い時間に起き(10時過ぎ)、ルーチンに従って肩こり対策のストレッチやネットサーフィンを行った後、駅前のスポーツジムに行き、ドタドタと運動をして遅い昼食でカレーを食べて午後に帰宅。
私はフリーランスのため出勤というものをする必要がなく、毎日このように相当気ままに過ごしている。
部屋に帰ったのは、午後2時過ぎだったと思う。帰宅したその瞬間まで、私はいつものように平凡に元気であった。

私の元気が消えたのは、家の電話機に「着信」のマークを見た瞬間だった。
………………。
いやな予感がする。

携帯ではなく家の電話に着信がある場合、それはセールスの電話か、浜松に住む実家の母親から、そのどちらかと決まっている。

実は今年、浜松に住む両親が、少し苦しい状況に陥っていた。
夏に父が不眠がひどくなり総合病院の精神科に入院し、2ヶ月の療養を経てついこの間、ほんの1週間前に退院して来たばかりなのだ。
もちろん入院していた人が退院するということは、どう考えたって「調子が良くなった」から退院してくるわけである。退院というのは病気や怪我が良くなった時にするものと決まっている。
だから回復した父と元々特に健康に問題のない母は、年寄り2人ではあるが、今まで通り大きな問題はなく無難に暮らしていけるはずなのだ。

ただ、少々不安はあった。
父は年齢の割に老け込んでいて、近頃ではちょっとボケてきたんじゃないか?という気配もあり、本当にちゃんと元気になって退院して来るかなあ、もしあんまり元気になっていなかったら困るねえと、10日ほど前(父の退院直前)に電話で話した母は心配していて、私も心配していた。
とは言え離れて暮らしている私ができることは特にないし、今まで両親はずーーーーっと何十年も2人の生活を続けてきたわけなので、まあなんとかなるだろうと、私はその心配も他人事のように捉えていた。というよりたいしてなにも考えていなかった。

しかし、「便りが無いのは良い便り」と言う通りで、もしこの時期に母から電話がかかって来たとすれば、あまり良い連絡ではないはずだ。愚痴を聞くだけで済めばいいが、なにか私が動く必要が出て来るのだろうか。
「頼む、知らない番号であってくれ。セールスの電話であってくれ!」と半ば祈りながら着信履歴のボタンを押してみると、表示されたのは……、実家の番号であった。
母である。

とりあえずすぐに発信ボタンを押し、折り返す。
数秒で母親が出た。

電話口の母の声を聞いて、即座に私は、大変なことが起きていることを理解した。
母の第一声は「もしもし……ツヨシくん(私の名前)……?」であったのだが、その声が、あまりに異常な様子であったのだ。
さすがに親子なので、ひと言でわかる。それは、精神の健全さを大きく損なってしまった人の声であった。
つい10日前に話した時には普通だった、その「普通さ」がほんのわずかしか残っていない口調。
「お父さんが、やっぱり良くなってなくて……私ももうおかしくなって、運転もなにもできなくなって歩き回ってる」
生気の感じられない声で母は言った。

最悪の状況になってしまったことを私は悟った。
うちの家族はここしばらく「最悪の場合はこういうことになる」という嫌な可能性を秘めた状態だったのだが、まさかいくらなんでもそこまでなることはないだろう、とタカをくくっていた「最悪の場合」に、本当になってしまったのだ……。


ここで、父の病状について書いておきたい。
父は、7年前から夜うまく眠れなくなり、総合病院の精神科に通い始めて7年間ずっと、抗うつ薬や睡眠導入剤を飲み続けていた。
ただその不眠は、ただの不眠症ではなく「双極性感情障害」、いわゆる「躁うつ病」に起因しての症状であった。父は7年前に躁うつ病を発症したのだ。だから薬も、睡眠導入剤だけでなく抗うつ薬(正確には躁うつ病用の薬なので、抗うつ薬とはちょっと違うかもしれない)を長年服用していたのだ。

躁うつ病は、「落ち込むうつ状態」と、「妙に元気でハイになる躁状態」がわりと長いスパンで、交互にやってくる病気である。
やはり父も、5,6年はおおむね半年周期で具合の悪そうな時期と、迷惑なくらい元気に動き回る状態を繰り返していた。
躁うつ病の「躁」の人は、傍若無人に振る舞い揉め事を起こしたり高額な買い物をしたり、身勝手な行動で家族や友人を振り回すパターンが少なくないそうだが(それで仕事をクビになったり家族から縁を切られることも多いらしい)、うちもまったくそんな感じであった。

ところが、父は病状が少し変わり、去年くらいからは元気な状態になることがなく「年中うつ」といった様相を見せていた。昼間から、多くの時間を辛そうに横になっている。あるいは辛そうにじっと目を閉じ、椅子に座っている。
これは病気の症状に加えて、薬の飲み過ぎという面もおおいにあると思う。なにしろ効く人は1錠の半分でも翌日まで眠気を引きずるような、脳に作用する薬を毎晩4種類も5種類も飲んでいるのである。それでまともな身体でいられるわけがない。
ただこれは、絵に描いたような自業自得というか、父本人が招いた事態である。
父にとっては、最も耐えられない、1番辛い症状が「寝れないこと」であった。周りは、我々は今まで何度も何度も、何年にも渡って父の薬を減らそうと一生懸命試みてきた。しかし、薬を減らして行くと「寝れない!」と騒ぎ出し、重病人のような立ち居振る舞いを見せ、父本人が先生に頼みまた薬を増やしてしまう。
本人以外はみんな、「いたずらに薬を増やしたくない」という認識で共通しているとは思う。だが、なにしろ本人が1番きつくてなんとかしたいことが「寝れないこと」で、たとえ昼間起きられなくなっても「夜寝る」ことがなにより大事、それができないことは耐えられないという認識で、父が苦しむことは我々も望んでいないという状況の中では、本人以外が強制的にそれを止めることはできなかった。
この件については「まだここでは書けない家族として思うところ」があるのだが、このnoteの執筆が長く続けられるようならおそらく後半で書くことになると思う。

もしかしたら薬とは関係なく、ただ躁うつ病が悪化しただけなのかもしれないが、ともかく、父は去年くらいから日中から長時間リビングのソファーでぐったり横たわったり、リビングの椅子に目を閉じてただじっと座っていたり、というような通年うつの状態となっていた。
さらに時が経つにつれ、日によって、または時間帯によっては呂律が回らなくなったり話しかけてもあまり反応しなかったりスムーズに会話ができなかったり、いわゆる「ボケてきたのかな……」と家族が感じるような気配にもなっていた。

そんな中、この2ヶ月前、7月にまた父は不眠の症状がぶり返したのであった。
苦しみ出した父は「入院したい」と言い出し、母もそんな具合の悪い父と毎日一緒にいるのは負担なので入院して欲しいと言い、それを聞いた私も慌てて帰省し家族3人で話し合い、満場一致で「入院した方が良い」という結論となり先生にお願いし父を入院させてもらったのだ。

その入院が2ヶ月で終わり、ちょうど1週間前に退院となったのである。

ところが……、電話で母が息も絶え絶えに話すのを聞けば、入院を経て父は眠れるようにはなったものの、それ以外は「入院前の父」と変わらない状態で帰って来たという。
すなわち、相変わらずうつ症状がひどく昼間から苦しそうに横たわったり目を閉じて椅子に座ったりしている、そして呂律もうまく回らずなんだかボケた感じになっている。という父。なお入院中に認知症の検査をしたところ、結果は「軽度から中程度の認知症」という診断が出たそうだ。つまり実際に、父はボケ始めていたということだ。
そんな状態なのになんで退院させられたんだ? と不満に思う部分も無いわけではないが、ただ今回の入院は「不眠が苦しい」という訴えによる入院であって、その症状が無くなった……入院の原因が取り除かれた段階となっては、退院を促されるのは病院の処置としては当然とは言えるかもしれない。病床を必要としている病人は父だけではないのだから。

しかし、その結果、母が潰れてしまった。

もしかしたら、7年前の、あの人生最悪の事態が、また起きてしまっているのだろうか……。

電話の向こうの母は「ツヨシくん、今忙しいの?」と控え目に聞いてきた。
それは「無理しないでもいいけど、忙しくなかったら帰って来てくれないだろうか」という意味の問いだ。
私は母の調子の尋常でなさにショックで言葉を失っていて、すると母は私の返事を待たずに「まあとにかく……うちはそういう状況だからね……」と言って通話を終わらせようとした。あくまで「『帰って来て欲しい』とは言い辛い」という気持ち、精神がボロボロになりながらもあくまで母は「子どもに無理はさせたくない」という気持ちでいるのを、私は感じた。

母はいつもそういうスタンスの人で、まあおそらく世の中の多くのお母さんはそういう存在だと思うが、母もご多分に漏れず自分のことより子どものことを優先して考える人だ(もう私は「子ども」と呼べる年齢では全然ないおじさんとはいえ……)。
10日前に電話で話した時も、父が帰って来ることの不安を口にしながらも、「でも私がやるしかないんだから、なんとかやってみるよ」と母は言った。私もそれなりに心配して「退院の日から何日か手伝いに帰るよ」と言ったのだが、母は「荷物も少ないし、大丈夫だよ! こっちはこっちでやるから、仕事休んでまで来てくれなくていいからね」と、私の都合をおもんばかって言ってくれた。

その言葉に甘えてしまった私はつくづく最低な息子である。
母がどれだけ父の復帰に不安を覚えていたか、実際退院後にどんなストレスを抱えながら過ごしていたか、それを私は想像もせずに……いや、本当はなんとなく想像していたのに、「まあなんとかなるだろう」と負担を母一人だけに押しつけ、私は実家から遠く離れた東京で自分だけの日常を過ごしてしまっていたのだ。母がどれだけの覚悟でそれを言ってくれていたのかも知らずに。

しかし……、やはりそのストレスは、70歳を超えた母が1人で背負いきれるものではなかったのだ。父が退院して、わずか一週間で母の心は壊れてしまった。

さすがに私も、これ以上親不孝者になるわけにはいかない。一人っ子の私は、両親が頼れるただ1人の家族なのである。
明日浜松に帰ろうか……?とも思ったのだが、どうせこれでは、今日この後なにをしたって気が気でない。
私は「わかった。じゃあ遅くなるかもしれないけど、今日中に帰るから……!」と伝え、電話を切った。

7年前の、二度と思い出したくない苦しみの記憶が蘇って来る。
旅行用のスーツケースに着替えを詰め、ここからは「自分の精神崩壊をいかに免れるか」が生死の鍵を握ることがわかっていた私は、精神を支える娯楽となり得るiPadとKindleそしてプレイステーション4をスーツケースの服の隙間に詰め、部屋を出た。

多分これで私の人生は、いったん強制リセットとなるのだろう。
きっとこの部屋には、長く戻って来られないだろう。
辛い日々が始まるのだと感じた。


次の日記
9月24日のマザコン2

もし記事を気に入ってくださったら、サポートいただけたら嬉しいです。東京浜松2重生活の交通費、食費に充てさせていただきます。