【ショートショート】「非日常を往け!」(2,008 字)
旅とは日常を離れることである。
ハレとケとはよく言ったもので、日常というのは仕事やワイフによるストレスが積み重なり非常によろしくない。旅をするときは日常からなるべく遠く離れた方がよい。
私は町内会長の田中さんのそのような話を聞きながら、町内会の旅行の下見へと温泉街に車を走らせた。
田中さんの非日常の旅は出発したときから始まっているらしく、温泉街に行くと言っているのにアロハシャツを着ていた。ちなみに現在は十一月である。
予約していた旅館に着くと、田中さんはチェックインのサインに『佐藤』と名前を書いて私に見せてきた。
「私はこの旅で日常から限りなく離れようと思うんだ。だからこの旅では私のことは田中じゃなく佐藤と呼んでね」
田中も佐藤も同じようなものじゃないか、と思ったがとりあえず私は頷いた。
田中改め佐藤町内会長のはしゃぎようを見て、下見でこれでは本番はどうなるのだと、私は旅行当日が今から心配になってきた。
「では、先にひとっ風呂浴びようか」
私たちは部屋に荷物を置くと浴衣に着替え、大浴場へと向かった。最近では珍しく混浴もできる有名な温泉らしい。
大浴場の戸を開けると、おばさんが温泉の中をクロールで泳いでいた。
私が唖然としていると、佐藤さんが叫んだ。
「ほら、私たち以外にも非日常を心から堪能している人がいるじゃないか!」
そう言うと佐藤さんは体も洗わずに温泉に飛び込むと、おばさんの隣をバタフライで泳ぎ始めた。
「学生時代は県の強化選手に選ばれたこともあるんだよ」
ひとしきり泳いでから、佐藤さんは他人のふりをしようとする私の気も知らずに満足そうに言った。
夕食は天ぷらと刺身が出るということで楽しみにしていたが、佐藤さんの「天ぷらも刺身も日常的に食べるよね」という一言により、ウーバーイーツでピザを注文することになった。
我が家では日常的にピザは食べるが、佐藤さんの家でピザは非日常であるのだろう。
二人でシャンペンを飲みながらピザをつまんでいると、廊下から銃声のような音が聞こえた。
私と佐藤さんは顔を見合わせると、何事かと外の気配に耳を澄ませた。
ぱらららららららっ。
機関銃を掃射する音が再び響いたかと思えば、数発の銃弾が室内に飛び込んできた。
直撃は免れたが、私のすぐそばを実弾が掠めていった。
「ななななななんなんですか!」
私は慌てるが、さすが佐藤さんは落ち着いたものだった。
「これはおそらく、私たちと同じように非日常を求めた人の仕業だろうね」
「……と言うと?」
「つまり日常を離れて非日常を求めるあまり、デスゲームでも始めてしまったんだね。それだけ日頃の鬱憤が溜まっていたんだろう」
他人の日頃の鬱憤の巻き添えになるなどたまったものではない、私は参戦しようと武器になりそうなものを物色する佐藤さんを引きずるようにして窓から外へ避難した。
窓の外は日本庭園だった。観賞用の日本庭園のようで踏み入れるのは気が引けたが、マシンガンを乱射するほどの悪事ではないだろう。私と佐藤さんは避難がてら並んでライトアップされた日本庭園を歩いた。
「いやあ、こうして夜の日本庭園を散歩するなんて、非日常の極みだね」
佐藤さんがしみじみとつぶやくので、私は気になっていたことを尋ねた。
「これほどまでに非日常を求めるなんて、よほど普段、ストレスを抱えて過ごしているんですか?」
「いやあ、恥ずかしい話、仕事では上司や部下に馬鹿にされ、家ではワイフに邪魔者扱いされ犬にまで小便をかけられる始末で……。ただ、こうして旅をしている間だけは、そんなことも些事に思えてくるから不思議だよね。そして旅が非日常であればあるほど、日常は遠く感じられる」
佐藤さんは清々しい表情をして言った。そして彼の気持ちは私にもよく分かった。
「話は変わるけど鯉の刺身は食べたことある?」
「いや、ないですね」
「そうか」、言うや否や、佐藤さんは日本庭園の池に飛び込み、金色の鯉を抱えて戻ってきた。私たちはマシンガンの掃射音を聞きながら鯉の刺身を食べ、日常から遠く離れた夜を堪能した。
帰り道、随分としおらしくなった佐藤さんは言った。
「おかげさまでこの旅は随分非日常なものになったよ」
「いえいえ、私は随伴しただけですから」
そんなことよりも、私には気になっていることがあった。
「私とのこと、奥さんには本当にバレてないんですよね」
「心配いらないって、この旅も一人で下見に行くっていってあるから」
そう言ってウインクする佐藤——じゃなくて田中さんはやはり素敵で、私は日常と非日常は曖昧なくらいがちょうどよいとひとり思った。
翌週、町内会の旅行がどうなったか気になって私はこっそり自家用車でついていった。
非日常ツアーをうたった旅行は盛り上がっていたが、旅館を出入り禁止になっていた佐藤さんは旅館の駐車場にテントを張り、ひとり非日常を堪能していた。
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