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ドブネズミみたいに美しかった、あの青春の日々。


私が軽音楽部に入部するきっかけを作ってくれたのは、中学三年生の時に見た『リンダ・リンダ・リンダ』という映画だった。
最後のシーンで『リンダ・リンダ』を歌うペ・ドゥナの横顔を見ながら、"私もこれになりたい"、とぼんやり思った。
それから一年後。
高校生になった私は迷わず軽音楽部に入部した。


バンドってどうやって始めるんだろう。
そんな事を思いつつ、軽音楽部の第一回目の集まりに参加した。
ミーティングが始まるまで時間があり、その間に隣のクラスの女の子二人に声をかけてもらった。
まさに「バンドしようぜ」って感じだった。
陽気で楽しそうな人達だったから、とりあえずバンド結成☆
なんだ楽勝じゃんと思ったのもつかの間、結成直後、一人の子が発した「私ボーカルがいい!」の一言で私の夢の軽音楽部ライフは早々に崩れ落ちた。
何を隠そう、私もボーカル志望だったのだ。
あの時のペ・ドゥナの面影を追っていた私にとって、ボーカルになれないならバンドをやる意味がない。
仕方なく彼女の話を聞いていくうちに、他にも様々な趣味趣向の違いが露呈してゆく。
そして彼女が西野カナのファンクラブに入っていると言い始めた辺りで泡を吹いて倒れそうになった。
これがいわゆる"方向性の違い"ってヤツか。
ウワサには聞いていたけれど、まさかこんなにも早くバンドあるあるの洗礼を受けるなんて思ってもみなかった。
バンド結成日に方向性の違いによって解散、、、
そんな事を考えていると、教室はすっかり部員で埋め尽くされていた。

すぐに新部長が入ってきてミーティングが始まったのだが、まずそこで衝撃の事実を知らされた。
なんと部活内で盗難の被害があり、それがきっかけで今年は新入生の受け入れが出来なくなったとの事だった。
私は頭が真っ白になった。
部長が顧問の先生に呼ばれ一旦教室を出ると、その間に先輩達が誰が責任を取るのかと後輩達を捲し立て始めた。
そこに気の強い後輩がそもそも三年が手本になっていないなどと噛み付き、信じられないくらいピリついた空気に私たち一年生は凍りつく事しか出来なかった。
方向性の違いによる解散うんぬんの前に、私の軽音楽部ライフは始まる事すら許されぬまま散ってゆくのか、、、
そんな事を考えて泣きそうになっていると、教室の後ろから「ドッキリでした〜〜〜!!!!」と、満面の笑みの部長が奇声をあげながら異様なテンションで戻ってきた。
私を含めほとんどの一年生が安堵で泣き出し、その様子を見て先輩達はアホみたいに盛り上がっていた。
どうやらこの新入生ドッキリこそが、我が高校の軽音楽部が誇る唯一の伝統らしい。
きっと先輩達も一年の頃同じ絶望を味わったが故に、私達が本気で騙されている姿を見るのは最高に気持ちの良い瞬間だったであろう。
ここの軽音楽部に入部する者は皆、己の受けた仕打ちを無関係な次の一年に味あわせて帳消しにするという、健康的な青少年の部活動とはあるまじき非常に捻くれた負のエネルギーを糧にして練習に勤しむのである。
ネタバレの瞬間に部長が見せたあの憎ったらしい悪魔のような笑顔を、この日から三年間一度だって忘れた事は無い。
これは、そんな全てが予想外の中で始まった私の軽音学部ライフのお話である。




とりあえずボーカルの件については後で相談する事にして、その後他のメンバーの加入などもあり、某都立高校にて五人組のガールズバンドが爆誕した。
数日後、部活の皆で御茶ノ水にギターやらなんやらを買いに行く事になった。
私は父から譲り受けたギターがあったから、新しい相棒選びをしている皆の周りをうろちょろしていた。
例の西野カナが好きなあの子にも恐る恐る何色の何にしたのか聞いてみると、彼女はラメの入ったショッキングピンクのフェンダーを指さした。
なるほど。
私ならこのデザインは絶対に買わない。
3色ショッピングで「ピンク」「ラメ」「フェンダー」の有り得ない手札しか残っていなくても買わない。
というか、買えない。
彼女もちょっと照れくさそうにしていたが、「私にはこれが似合うよね」と、満更でもない感じだった。
だけど、ド派手なギターを持って立つその姿を見た瞬間、バンドの顔は彼女だと確信した。
元々その子がリーダー気質なのは分かっていたけど、強烈な存在感を示すギターに負けないくらい、彼女自身が輝いていた。
自分に似合うものを知っている人はかっこいい。
私がこのギターを買えないのは、心の中ではそんな彼女を羨んでいるからだ。
初めて会った時から、彼女は色々な意味で私の期待を裏切らない人だった。

彼女と一緒にいると、全ての人間には生まれつき振り分けられた普遍的な属性があると常々感じる。
幼い頃から勉強もスポーツもそつなくこなし、いざという時の勝負強さや、皆を先導する器量と人望がある、いつの時代もクラスに一人はいたカリスマみたいな人。
彼女はその類の人だった。
でも、私はそういうタイプの人間ではない。
一位にはなれないし、主役にもならない。
"持ってる"人間じゃないという事に劣等感を抱く時もあるけど、脇役でいたいと思う自分もいる。
それは妥協とかではなくて、そんな自分の属性に居心地の良さを感じているから。
他人より優れている事や、明るい所に居続ける事だけを幸福とする人生に、私はあまり魅力を見い出せない。
それに、社会で生きていく上での適材適所みたいなものって、直感的に把握出来る時もあると思う。
彼女が皆にとっての太陽でいてくれるから、私は心置きなく月でいられる。
幸いな事に私は太陽より月の方がかっこいいと思える、主役よりもバイプレイヤーに魅了される人間だ。
スタントダブルなんて最高にイカしているじゃないか。
だから私は、バンドのボーカルを彼女に託す事にした。
事実、彼女は自分より圧倒的に歌が上手かった。
それについてはちょっと悔しかったけど、それ以上に彼女の歌声が大好きだった。
心の中で「うちのボーカルは世界一だ」と常に観客に自慢していたくらいだ。
彼女と行くカラオケは、下手したらフジロック越えもあるんじゃないかと思えるくらい最高に楽しかった。
今更気付いたってもう遅いのだけど、彼女の一番のファンは私だった。


そんなこんなでバンドとしての練習が本格的にスタートした。
と言っても部活中はほとんどくっちゃべっていたから、放課後や休みの日にスタジオを借りて練習をした。
楽器を背負っているから他の通行人の邪魔にならないよう、いつもドラクエみたいに一例になって歩いたが、ドラムの子だけはファスナーを僅かに開けたスクバの中にスティック2本をブッ刺して身軽に動き回っていた。
ちょっとウザかった。
途中コンビニに寄って晩ご飯を買い、片道15分ほどかけて到着。
癖で毎回スタジオの鍵を挿しっぱなしにしてしまうので、私達が勝手に「鍵の番人」と呼んでいた見回りのおじいちゃんが懲りずにいつも注意してくれた。
スタジオ内は飲食禁止だったのだが、監視カメラの死角に集まってコンビニで買ったご飯をコソコソ食べた。
練習が終わった後はアドレナリンが出て謎にハイになっていたから、夜にも関わらず大きな声で練習した曲を歌いながら駅まで歩いた。
鍵を挿しっぱなしにしたり、飲食禁止の場所でご飯を食べたり、夜に外で騒いだりと、今思えば本当に迷惑な学生だったのだが、それでも出禁にならなかったのは日頃の行いが善いからという事に尽きよう。
それもそのはず、私たち軽音楽部は学校内での行動には慎重を期していた。
なぜなら、軽音楽部自体が学校全体で厄介者扱いされていたからである。

私達は一部の権力を持ったボス教師陣に、執拗なまでに目を付けられていた。
確かに、軽音楽部が何かしらの賞を取った事は無いし、校外の大会に出たりもしていない弱小部活動だったのは事実だが、そんな学校全体への貢献度の低さに付け込まれてしまったのだと思う。
当時の私は、親でも殺されたんかと言いたくなるくらい、"体育教師"という人種が嫌いであった。
ヤツらはスポーツ推薦にわたるスポーツ推薦で獲得したのであろうその地位にふんぞり返り、何かに付けて私達をネチネチと攻撃してきた。
『スクール・オブ・ロック』(03)で、ジャック・ブラック演じる主人公が「音楽家がムリなら教師になる、それもムリなら体育を教える」という"アメリカンジョーク"を体育教師の前でかまし、それを聞いた教師達がケラケラ笑うという最高なシーンがあるのだが、いつもそのシーンを思い出しては、皮肉でも冗談でもなく心の中で(←重要)密かにバカにしていた。
けれど、そんなマインドでい続けるのも限界を迎えようとしていた。
二年になる頃、生徒部を中心に部活動の顧問の入れ替えが行われ、軽音部の顧問はコケシみたいな髪型の家庭科の先生になったのだ。
ただでさえ弱小部活なのに、家庭科なんて最弱教科の先生が顧問になったらますます舐められるだけではないか。
当の本人はバンド経験はなく、なぜ自分が軽音楽部の顧問にされたのかもよく分かっていないようだった。



ジャック・ブラックみたいなロックな大人との出会いも早々に諦めたある日、コケシが「オリジナル曲を作って他校と合同ライブをしよう」と提案をしてきた。
部活動らしい活動をしている様子を生徒部や運動部の連中にアピールして、軽音楽部の地位向上を目指す作戦だった。
コケシ曰く、そこまで気張らなくていいとの事だったので、私達は遠足気分で大会となる学校の近くに住んでいたバンドのメンバーの家に前乗りする事にした。
ちゃっかり夜ご飯もご馳走になり、夜まで女子会のノリで騒いだ。
私とボーカルの子はSiMのMAHみたいなアイメイクをお互いに施して、その自撮りをMAH本人のインスタのDMに送り付けるという痛いファンの奇行に興じ、気付いた頃には三時を過ぎていた。
朝は案の定寝坊。
友達のお母さんが作ってくれた透き通ったスープ(未だに何の料理なのかは分からない)がめちゃくちゃ美味しくて、寝ぼけた体に染み渡った。


急いで会場となる学校に向かう。
汗だくになりながら遅刻してきた私達を開催校の軽音楽部が快く出迎えてくれたのだが、想像以上にキチンとした組織化が代々継承されているようだった。
私達が継承しているものといえば、あの性格の悪い新入生ドッキリだけだとは口が裂けても言えない。
ここの軽音楽部には人権があるのだろう、部室も機材も人数も、何もかもが広くて多くてデカい。
申し訳程度のスペースを与えられ、ドアにはいつの代の誰なのか、誰も知らない化石のようなプリクラが貼ってある物置のような我が校の部室とは大違いである。
「笑ってコラえて!」のカメラでも密着しているのかと思うくらい "THE 部活動" という雰囲気を漂わせている事に嫌な予感はしていたのだが、ライブが始まり各校の演奏を聞いた瞬間、他の部員も皆が同じ事を思ったはずだ。

((  おい!!こんなレベル高いなんて聞いてないぞ!!騙したなあのコケシ!!!!  ))

今からこの学校に隕石が落ちてくるとか何とかで私たちの出番だけ都合良く無くならないか願ったが、当たり前のように順番が回ってきた。
同行してくれた後輩達が声援を送り続けてくれたおかげで、心身共にボロボロになりながらもオリジナル曲をやり切った。
もちろん彼らも入部時にお馴染みのドッキリを喰らって私たちに一度泣かされているのだが(ドッキリ仕かけるのはめちゃくちゃ楽しかった)、それにも関わらず他校の前で醜態を晒している私達を健気に慕ってくれる姿にはこっちが泣かされた。
演奏はお粗末そのものであったが、そんな状況でもボーカルの歌声だけは出場したどのバンドにも引けを取らないと私は本気で思っていた。
帰り際、その日一番声援を浴びていたバンドから自分達のオリジナル曲のミニアルバム的なものを渡された。
最初から最後まで凄く良い人達だったし、正直曲もめっちゃ良かった。
決して悪気の無いその純粋な善意を前に、私達の精一杯の笑顔は引き攣っていただろう。
後に彼らは学生バンドの全国大会的なやつで優勝していた。
普通に次元の違う人達だった。

帰り道、夕日に照らされた皆の顔は疲労と屈辱によって確実に10歳以上は老けていた。
私とボーカルの子に至っては、昨晩のふざけたアイメイクをしっかり落とし切れていなかったのだろう、擦れたアイライナーがうっすらと浅黒いクマのようになっていて、冗談抜きで老け込んでいた。
この偽物のクマと遅刻のせいで、徹夜で練習した割にあのクオリティの演奏かよ、なんて思われていたのなら最悪だ。
それでも打ち上げだけはしっかりやるんだから本当に調子がいい。
串カツからのボーリングという、やんちゃすぎるコースを全力で楽しんだ私達は、その日ライブで赤っ恥をかいた事などすっかり忘れてはしゃぎまくった。
後日、メンバーの間でコケシの愛ある裏切り行為に対する審判が行われたのは言うまでもない。

その合同ライブ以降、私達はなんだかタガが外れたようであった。
というより、身軽になった感じがあった。
合同ライブに出ていたバンドの中には、本気で音楽で食っていこうと頑張っている人達もいたが、私達は夢追い人ではない。
はっきり言ってこそいないものの、コケシが合同ライブを提案してくれたのは、大学進学する生徒に対して調査書の活動欄に書ける材料を一つでも増やしてあげたいとの思いがあったからだろう。
本気で音楽やってる彼らと比べたら、私たちは呑気なものだ。
それに、あの日後輩達には非常にカッコ悪いところを見せてしまったと思っている。
でも、そもそも最初から何も背負ってなかったし、何より、私達には失うものが何も無かった。
だから強かった。
照れくさいとか全部弾き飛ばせるくらい強かった。
最弱だからこそ最強であれた。
そうでもなければ、あのライブ以降、アルバムをくれた彼らの曲をまるで自分達が作った曲かのように恥ずかしげも無く歌うなんて出来ない。
半分茶化して、半分羨んで。
結局、あのアルバムは一度も聞かれる事なく部室のどこかに葬られた。
ドアにこびり付いた古のプリクラのように、それをいつか誰かが見つけ、見知らぬ誰かの青春に思いを馳せるのだろう。
せめて、隅に追いやられた最弱最強バンドが存在したという証を、感じておくれよ。

今この文章を書いていて思ったが、コケシは案外ロックな人だったのかもしれない。
訳も分からぬまま軽音楽部に放り込まれた割には私達のために色々と動いてくれていた。
たまに学校の理不尽なシステムについて毒を吐く所も好きだった。
迷惑行為を知ってか知らずか、私たちの悪行に目を瞑ってくれていたスタジオの人たちも相当ロックだ。
私達がスタジオを出禁にならなかったのは、彼らがロックだったからという事にほかならない。
あのおじいちゃんの正体は「ロックの番人」だった。
もしかしたら、忌み嫌っていたあの体育教師もロックな人だったのかもしれない。
以前廊下ですれ違った時、『すばらしい日々』を口ずさんでいたのを私は知っている。
実は彼も、若い頃は"奥田民生になりたいボーイ"の一人だったけど、夢破れて仕方なく体育を教えていたのかもしれない、なんて"アメリカンジョーク"も言えるようになった。
西野カナが好きなボーカルも、アルバムをくれた他校のバンドも、みんなみんな、最高にロックだった。
あの頃ロックじゃなかったのは、その事実に気付けなかった私だけだった。


ここに書いた話は、三年間で起きた出来事のほんの一部に過ぎない。
軽音楽部生活最後の大舞台である後夜祭や大波乱の新入生歓迎ライブ、エロすぎるベーシストの講師がやってきた時の話もとっておきなのだが、またの機会に温めておこう。
全てが理想とはかけ離れたところからスタートした私の軽音楽部ライフだったが、なんだかんだではちゃめちゃに楽しかった。
必死に覚えたギターのコードはC以外全部忘れたし、結局、むかしに夢見た『リンダ・リンダ』は歌えなかった。
それでも、あれは紛れもなく私の中の美しい青春の日々そのものであった。

後悔している事は山ほどあるが、もう一度あの時に戻れるのなら、バンドのメンバー全員でプリクラを撮りたい。
それを部室のドアに勝手に貼ったら、誰にも見つからないうちにとっととタイムマシンに乗って帰るのだ。
そのプリクラにはきっと、写真には写らない美しさが写っている。



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